Clover
- - - 第6章 竜の鬣1
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(「はじめまして、竜の姫君」)
(「はじめまして、飛竜王の子。名前を聞いても?」)
(「私の名は【エウローゼディク】と申します。リンフェイや他の者の前ではエウロンとお呼びください」)

―――――口にした真実の名は、大気に溶けて、フィアルの耳だけに届いた。


* * * * *


竜は本来、自分の名を人には明かさないものである。竜にとっての名は魂の形を表す大切なもので、必ずその親竜から授けられる。それぞれの名は竜言語によって意味を与えられている。そういう点ではその言葉ひとつひとつに意味のある、ノイディエンスタークの魔導語であるルーン言語に近しい。
リンフェイの騎竜である飛竜王の子エウロンは、他の飛竜とは違い、美しい銀色がかった緑の身体を持つ竜だった。賢そうな瞳は優しい光を湛えており、人への慈愛すら感じさせる。そういうところが飛竜王によく似ていた。

(「エウロン、まだみんなには言っていないんだけど……」)
(「……想像は、ついています。オベリスクですね」)
(「青山に狙われそうな飛竜がいたの?」)
(「……いました。まだ卵の時に親が亡くなり、私達青山に住まう竜達でかわるがわる暖め、生まれた子です」)
(「子供なの……?ひどいことを……」)
(「私達はあの子を不憫に思い、必ず誰かが側にいるように注意はしていたのですが……親を思う淋しさを消すことはできません……力不足でした」)

オベリスクを作るには、負の感情を持った核が必要だ。その飛竜の子はおそらくオベリスクの核に使われたのだろう。
シュバルツはウサギ、ルシリアは蛇だった。それに比べて竜、という存在を核にする今回のオベリスクは、倍以上手強い相手であることは想像に固くない。しかも青山は他の飛竜達も住んでいる。闇魔導でむやみに破壊するわけにもいくまい。

フィアルは考えを巡らせながら、ちらりとキールを見た。キールに力がないわけではない。ただおおむねの場合において、魔導変換は急激に行われるものではなかった。シュバルツの時は初めてで勝手がわからなかったせいもあり、疲れた様子だったが、本来ならあの程度ではキールの魔導力は揺るがない。問題はあのルシリアの時だ。レインの腕を過信していたわけではないが、あの急激な魔導の放出が、最終的にはキールの疲労をピークに押し上げた。今回も同じになると、竜を核にしたオベリスク相手では、キールは持ち堪えられないだろう。

(仕方ない……な)

フィアルはとりあえず考えをまとめると、エウロンの深い緑の瞳を見つめて、その頬に手を伸ばした。エウロンは優しい動作でそのままフィアルの身体に頬を擦り寄せる。竜が親愛を誓ったものにするその動作に、フィアルは微笑んだ。

(「大丈夫……ちゃんと助けるからね?」)
(「竜の姫君……」)
(「そうじゃないと私、デュークに……飛竜王に合わせる顔がないもの」)

フィアルは、エウロンの頬をポンポン、と親しみを込めて軽く叩く。その言葉にエウロンはますます強く彼女に頬を寄せた。その様子は、まるで睦み合う恋人同士のように見えた。


* * * * *


「……なあ、リーレン」
「なんですか?」
「俺、あんなに嬉しそうなエウロンを見るのは初めてかも」

眩しそうに目を細めて、初恋の少女と自らの騎竜を見るリンフェイを、リーレンは呆れたように見返した。
さすがに他の者の手前、フィアルは髪と瞳をステラハイム家の色に戻していたが、リーレンにはその正体を話さないわけにはいかなかった。それを聞いて、リーレンが何を考えたのかは知らない。宰相……一国の主の副官と言うのは微妙な立場だ。ただ主の言うことに従っていればいいというわけではない。時には主を守るために裏工作もする。そういった狡猾さは立場上、絶対不可欠なものだと、誰もが知っていた。

「……リンフェイ様、フィーナが巫女姫だとわかった以上、今までのような行動は慎んでください」
「……お前はそう言うと思ったよ」

表情を固くするリーレンに、リンフェイは苦笑した。

「相手は一国の……しかも大国の王です。個人の恋愛沙汰とは話が違いすぎます」
「俺は別にアイツの地位や名誉に惚れたわけじゃないぜ?」
「それでもです。貴方の肩にはフューゲルの国民の生活や幸せがかかっていることを忘れないでください」

リーレンの言葉は真実だと、リンフェイにはわかっていた。国王である以上、国民に対する責任があることも承知していた。
―――――けれど、譲れないものも確かにある。

「……ずいぶんと……重い荷物を背負ってるもんだな……俺も、フィーナも」
「……リンフェイ様?」

昔から、エウロンに乗って空を飛ぶのが何よりも好きだった。自由に、何の隔たりもない場所を、ただ貪欲に求めた。堅苦しい宮殿での暮らしが嫌いで、がんじがらめにされるのが我慢できなかった。そんな気持ちをわかってくれたのは、エウロンと飛竜王だけだった。
そのエウロンがあんなに嬉しそうな顔をするのが、自分が愛した少女なのだ。誰に何を言われようと、恥じることなど一つもない。

「ま、お前が何を言おうと諦める気もないけどな」
「リンフェイ様!」
「リーレン」

反論しようとするリーレンを制するように、リンフェイは彼の名を呼ぶ。子供の頃からずっと自分のためだけに尽くしてくれていた。時には怒り、叱り、時には笑い合った。リンフェイにとってリーレンは、兄とも、大切な友とも呼べる存在だった。

「俺の身体はフューゲルにくれてやる。……でも俺の心は自由だ」
「……」
「それくらいは、いいだろう?」

リンフェイは、そう言いながら笑顔になる。それを見てリーレンはもう何も言うことはできなかった。
この自由な竜を、フューゲルという檻に閉じ込めているのは自分なのではないかと思えるほど、その笑顔は切なかった。


* * * * *


「……」
「どうした?レイン」

じっとエウロンとフィアルの様子を見つめているレインに、ゲオハルトが歩み寄った。

「いや……何を話しているかわからん」
「え……?ああ、おひーさんか。オレ達には理解できねえな、ありゃ竜の言葉だからな」
「フィールは話せるのか?」
「おひーさんが話せねえわけねえよ。大体おひーさんに不可能なことなんてあんのか?とかオレは思ってるくらいだ」

ゲオハルトが肩を竦めるのを、レインは無表情に見つめた。さすがにゲオハルト達も慣れて来て、レインのこの表情に別に悪意があるわけではないことはわかっている。

「竜の言葉を話せるのは、ああ、キールもわりといけるはずだぜ?元々魔導を発動するためのルーン語も、竜の言葉が元になってるとか言われてるくらいだからな……って詳しくはオレはよくわかんねえ。知りたきゃ、帰ってから修学院の学者達にでも聞いてくれ」

そう言えばそんな建物があったな、とレインは思う。すっかりノイディエンスタークに帰る気でいる自分が何やらおかしかった。
―――――治める者によって、国は変わる。
ノイディエンスタークや、シュバルツ、フューゲルの民はいい主君を持っているからか、とても穏やかで幸せそうに見えた。ルシリアの民は先の3国王に比べたら劣るものの、平穏に暮らしていた。それに比べてラドリアはどうだろう。あの殺伐とした国のどこにも平和などないように思える。

(「―――――父上は、民のことを考えてはおられないのだろう」)

一番上の兄が漏らした言葉をレインは思い出していた。あの父親から生まれたとは思えないほど、穏やかで賢い兄王子。しかし彼が王位につく日は遠い。それまでにラドリアは破滅への道を歩き出してしまうのかもしれない。

そんなことを考えて、レインは我に返った。
……おかしな話だ。ラドリアにいた頃は考えるというその行為すらも煩わしくて、ただ流れる時間に身を任せて生きてきたのに。ノイディエンスタークに来てから、確かに少しずつ何かが変わり始めている。願わなくても、自然に変わってゆく。
―――――その中心に、彼女がいた。
自分と同じ匂いを感じると言った彼女は、変化を望むのだろうか?

ぼんやりと、竜と睦み合う少女を見つめる。すると、その視線に気付いたのか、フィアルがレインに向かって手招きをした。隣のゲオハルトを見ると、行って来いというように笑っている。拒む理由もないので、レインは姫君の側まで静かに歩き出した。
飛竜は竜族の中でも小さいと言うが、近くで見るとさすがに大きい。エウロンを見上げるレインの様子に、フィアルは小さく笑った。

「エウロン、この人はレイン」
『……王族ですか?』
「……どうしてわかる?」
『自分では気付いていないでしょうが、貴方の纏う気はとてもリンフェイに近いものですから、わかります』

フィアルの時とは違い、普通の言葉で話しながら、エウロンは鼻先をレインの額に当てた。それが飛竜族なりの挨拶であると、レインはすぐに理解する。ひんやりとした鱗の感触、だが決して不快ではなかった。その鼻先に自分の手のひらを当てて、そっと撫でる。するとエウロンは嬉しそうに目を細めた。

「レインは竜に触れるの、初めてなのよね?」
「ああ……ラドリアには竜はいない」
『いたのですよ、昔は。聞いたことはありませんか?』
「昔、国境を隔てる山脈に、何頭か地竜がいたと聞いたことがあるが……」
『ラドリアの山脈は地竜族の長老の気に入りの場所だったらしいですよ。今は……いらっしゃいませんが』
「竜は血を嫌うから、仕方ないわ」

フィアルが淡々とした口調で、エウロンが濁した言葉を繋いだ。

「今のラドリアは血の臭気が充満してる。竜の住める土地じゃないもの」
「……その通りだな、人ですら住みにくいのに竜が住めるはずがない」

フィアルのこういうところがレインは嫌いではなかった。彼女は、自分に気を使って、真実を言葉で濁すようなことは決してしない。

「エウロン」

低いその呼び声に、エウロンがさっと顔を上げた。近づいてくるのはリーレンを後ろに連れたリンフェイだ。フィアルの隣まで来ると、リンフェイはエウロンの鬣をガシガシと力強く撫でる。

「お前、ずいぶんと嬉しそうだな。俺といる時より機嫌がいいんじゃねえか?」
『当たり前だろう、リンフェイ。竜の姫君に逢えるとは思っていなかったんだ』
「……竜の姫君?なんだそりゃ、フィーナのことか?」
『お前もいつかわかるさ。彼女は竜族にとってはとても大切な方なんだ』
「フィーナは俺にとっても大事だけどな。なんてったって将来俺の子を……」
「産まない」

言う前に述語を言ってしまったフィアルを、リンフェイは苦虫を潰したような顔で睨む。

「即答か!?即答なのか!?」
「当たり前でしょ、何をほざくかな、このヘンタイは」
「……くそ……絶対いつか犯ってやる」
「やって、のや、の字がものすごーく不健全よね」
「……本当ですね」

リーレンにまで一緒になって批判されては反論できず、リンフェイはエウロンに寄りかかってふてくされた。そんな2人を黙って見つめた後、リーレンはフィアルに話しかけた。

「フィーナ、……いや、巫女姫様とお呼びするべきですか」
「……リーレンに丁寧語使われたり、姫とか呼ばれるの、寒気がしちゃうからできればやめてほしいんだけど」
「……。……なんで寒気がするんです」
「だって……昔っから何気に偉そうだったもの、リーレンって。いきなり腰が低くなると薄気味悪い……」

その言い草に、リーレンの眉間の皺が一本増えた。それを見つけて、リンフェイは慌ててフィアルを止める。

「やめてやれって、フィーナ。リーレンはもう三十路越えてるいい年なくせに、女っ気が全然ないんだぞ?その原因の半分以上……いやほとんどは俺のせいかもしんねえけど、これ以上睨むような面になったら一生独り身になっちまうだろ?」
「へー、そうなの?リーレン」
「私に女っ気があろうがなかろうが、お二人には関係ないでしょう!」

このやりとりはどこかで見たな、とレインは真紅の神官長を思い出した。この宰相もある意味同じような苦労人だ。

「大体二人の間に子供なんてできたら困ります」
「……はぁ!?なんでだよ!」
「リンフェイ様とフィーナを足して2で割った子供なんて、恐ろしすぎて想像もしたくありません」
「……リンフェイはともかく私もなの?何気に失礼なこというわよね、リーレン」
「そういうお前もかなり失礼だぞ……フィーナ」

顔を引きつらせるリンフェイに、だって事実だもん、とフィアルは事も無げに言ってのけた。部下泣かせという点では、この二人は怖いくらいに似すぎている気がする。その証拠に、レインの視界に入るリーレンの顔には何度も青筋が立っていた。

「姫、そろそろ行きませんか?」

見ればアメジストの杖を手に持ったキールが、既に自分の精獣である一角獣に乗って近づいてきていた。その向こう側には天馬に乗ったゲオハルト達の姿もある。その問いかけにフィアルは頷いて、空を見上げた。

「風が……変わったわね……キール」
「……ええ」
「……行こうか?」

ポン、と一段高いところにいるキールの手を叩くと、彼女は歩き出した。純白のマントが、変わったという風に翻る。その後姿には何の迷いもなく、凛としていた。