Clover
- - - 第6章 竜の鬣5
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飛竜王の住まうその場所の近くには、人間用の小さな館があった。基本的に竜の鬣半島は人の出入りを禁じているが、リンフェイのように、それを飛竜王に特別に許可されている人間もいる。そのために用意されたその館で、一行は休むことになった。 明日にはもうフューゲルを離れ、フィアル達はリトワルトへ発つことになっている。リンフェイにとっては今夜がフィアルと過ごす最後になる。もうしばらくの間は、逢えない。

「このままどこかに閉じ込めたい気分だ」
「そんなことしたら、力いっぱい嫌いになるわよ」
「……わかってるよ」

館の中庭で二人は話をしていた。用心の為にレインが側にいるのだが、リンフェイの視界に既にその存在は入っていない。

「リトワルトのオベリスクを討伐したら、どうするんだ?」
「ヴィー達と合流して、ノイディエンスタークに帰る。そういう約束で来てるから」

時々来るロジャーからの知らせでは、シルヴィラ達の方も今のところ順調に来ているらしい。スクライツのオベリスクを討伐して、明日にはオデッサに入ると聞いている。このまま上手くいけば合流は容易だろう。

「フィーナ……ああ、俺、呼び方変えないとまずいか?」
「いいよ、フィーナで……他にもそう呼ぶ人、いるから。その呼び名、嫌いじゃないの」

そっか、とリンフェイは安心したような顔をして見せた。フィーナとして出逢った人にはそのままでいいと、国に戻った後もずっとフィアルは思っている。どちらも自分であることには変わりはないのだから。

「しばらく逢えなくなるのか……」
「しばらくって言っても、今度は12年とかそういうことはないと思うけど?」
「一分、一秒離れてるだけで苦痛だ……」
「……それは……ウザい……」

いつも側にいるアゼルとだって、そんなに一緒にいたことない、とフィアルは眉を顰めた。しかし言われた当の本人はその一言にがっくりと肩を落としている。こういう姿だけ見ていると、リンフェイは感情の起伏が激しすぎるように見えるが、これ以外のことに関しては意外と常識的で、自分を抑えるような部分が多いことを彼女は知っていた。
おそらくフィアルのことは、リンフェイの最初で最後の譲れない我侭なのだ。そうでなければリンフェイは、とっくに正妃を迎えていてもいい年齢だ。リーレン以外のフューゲルの臣下の者が、それをリンフェイに進めていないとは思えない。しかし後宮にはまだ誰もいないのだと、密かに彼女はリーレンから聞いていた。

「リーレンにあんまり心配かけないでね」
「お前もな……」
「……何で私もなのよ」
「ゲオハルトが言ってた、お前のところの神官長もリーレンと似たようなタイプだってさ」

余計なことを、とフィアルはゲオハルトへの報復を決意した。チッと舌打ちをする少女に、今度はリンフェイが苦笑する番だった。そんな仕草でさえ愛しく思えるのは、本当に重症と言えるだろう。でも、もう理屈なんてどうでもいい。
リンフェイはフィアルの肩に手を置くと、そっと顔を近づけて額を合わせた。昔、この少女に教えてもらった儀式だ。誰かが危険な場所に赴く時に、勇気を与え、守るための必ず交わされる儀式。

「気をつけてな……あんまり無理をするなよ?」
「……無理なんてしてないけど?」
「心のことだよ、抱えすぎるな」

クロードにも似たようなことを言われた気がする。どうして自分の周りにいる人間は、おとなしく騙されてくれないんだろう。額を合わせたまま、至近距離でリンフェイの顔を見ながら、フィアルはぼんやりと思った。
凡庸な人はある意味幸せなのだ、気付かなくてもいいことには気付かないから。

「フィーナには無事でいてくれないと困る」
「……?どうして?」
「そりゃ健やかな俺とお前の子供が生まれてこな……」
「……生まない」
「……生まなくても生むまでの過程だけでも俺はいいんだが」
「……しない」

即答するフィアルに、リンフェイは楽し気に笑った。意外に気遣い屋なこの青年の一面を、フィアルは嫌いではなかった。
リンフェイはそのまま額を離して、柔らかな頬に軽く口唇を当てた。

「明日は早いんだろ?ゆっくり休めよ」
「……うん」
「部屋まで送るか?」
「……いい、それはさすがに危険。レインがいるから大丈夫」
「……ちぇ」
「……なんですか、今の舌打ちは」

その言葉を受け流して、リンフェイはフィアルに背を向けた。頭上に掲げた大きな手がおやすみ、というようにひらひらと揺れていた。


* * * * *


リンフェイの背中を見送った後、しばらくしてフィアルはレインに向き直った。
戻ろうか?と言って首を傾げるその姿は、どこかいつもの彼女とは違っている。それが何故かレインは気になった。

「……どうした?」
「何が?」
「……竜騎士王と別れるのが淋しいのか?」
「……そんな乙女チックでノスタルジックでセンチメンタルな心は持ち合わせておりません」

大体今生の別れじゃあるまいし、とフィアルはため息をついた。その仕草はいつもの彼女のものなのに、どこかしら違和感が消えない。レインが無言でじっとフィアルを見つめると、彼女は居心地が悪そうに眉を顰めた。

「……何もないよ?」
「そうか……」
「全然信じてない口ぶりね」
「……そう聞こえるなら、そうなんだろう」

レインの含みを持った言い方に、フィアルはますます眉を寄せた。

「レインって、他人のことには関心がないのかと思ってた。リンフェイと同じでわりと神経細やかなんだ」
「……それは誉め言葉なのか?」
「どうとでも」

フィアルはツン、とそっぽを向いた。その仕草はどこか子供っぽくてレインの苦笑を誘った。

とにかく彼女は何を考えているのかがわかりにくい。青山の洞窟でのシオンとのやり取りも、最初は全然彼女が怒っているとはわからなかった。しかしゲオハルトが言っていた通り、もしかしなくても最初からフィアルは怒っていたのだろう。自分も感情が表に出ないタイプではあるが、この姫君のように天邪鬼めいたわかりにくさではないはずだ。

「飛竜王と何か話でもしたのか?」
「……まぁね、昔話」
「……昔話?」
「……そう。もう昔の話、過去の話。内乱が起こった頃の昔話」
「過去……」

レインにとって一番大きな出来事は5年前の春だった。昔の話だと言い切れるほど、レインの中では時間は経っていない。忘れることはきっと、一生できない。





(違う……俺には忘れる気がないだけだ)





忘れたくないのだ、全てを。忘れてしまえば楽になれるとわかっていても、それをしたくないだけだ。
……忘れてしまえば、思い出になってしまう。いつか風化して消えていく儚い夢になってしまう。
覚えている暖かさを、そして何もできなかった自分の無力さを、罪を。全てを自分は背負ったまま生きなければいけない。それが自分に許された唯一の道だと、レインは信じて疑わなかった。

「……前も言ったけど、私、綺麗な過去がないのよ」

考え込んでいたレインの耳に、澄んだ凛とした声が響いた。フィアルはそっと夜空を見上げている。雲に隠れて二つの月が見えないからなのか、星がよく見えた。

「……フィール?」
「人に話せるような生き方をしてこなかったの。だから昔の話をするのは正直、あんまり好きじゃない」
「……そうか」
「でも……私よりきっとレインは自由で、綺麗ね」

彼女は悪戯っぽく微笑んで、レインの顔を覗き込んだ。20cm近くの身長差があるのを自覚するのはこんな時だ。自分は彼女を完全に見下ろす形になる。

「……俺は綺麗な過去なんて持ってない」
「そうかな?」
「数え切れない人間を殺したし、今でも王子という立場に縛られている」
「でも、私よりマシよ、きっとね」

何を根拠にこんなことを言うのだろう、この姫君は。確かに何かを心に抱えていても、今の彼女はとても自由に見えるのに。自分ほど過去に縛られているようにも見えないのに。そう思ったのが顔に出たのか、フィアルはレインの顔を覗き込んだまま、すこし寂しげな顔をした。

「……私は、レインよりもっと多くの人間をこの手にかけたわ」
「……え?」
「―――――そして、誰もに与えられるはずの自由が、私には、ない」

フィアルは視線をそらして、レインから一歩後ずさった。けれどその顔には微笑みが浮かんだままだ。





「―――――私はね、死ねないの」
「……え?」
「―――――死ねないのよ、私。自分で死を選ぶ自由が、私にはないの」





作り物めいた微笑み方だと、何故だかレインはその時思った。リーレンは言っていた、12年前の彼女は、決して笑うことのない子供だったと。もしかしたら今でも彼女はそうなのではないか?ただ生きていくための処世術として、微笑むという行為を身に付けただけなのではないか?そんな予感に、レインは身体が一瞬震えるのを感じた。

「……どうして、死ねない?」
「―――――私の命は、私だけのものじゃないから」

雲から月が顔を出したのだろうか。ぱあっと柔らかな光が彼女を包む。もちろん、自分の身体もその光に包まれているのだろうけれど、彼女の白金の髪に、その光は特に良く映えた。

「どうして私が竜の姫君って呼ばれてるか、わかる?」
「……」
「私はね、光の竜と一緒に生まれたのよ」
「……なんだって?」
「竜は卵から生まれる……それは絶対の理。でも私が生まれた時、この身体から放たれた白金の光からあの子は生まれた。私と魂を共有する形でね」

光の竜は竜族の王。全ての竜の頂点に立つ存在。それが一人の人間と魂を共有して生まれることなど、長い竜族の歴史の中でも初めてのことだった。

「魂を共有するってことはこういうことよ。私が死ねば、あの子も死ぬ。あの子が死ねば、私も死ぬ」
「……フィール……」
「竜族が私を竜の姫君と呼んで、とても慈しむのは、私がそういう存在だからよ。そして私が光の巫女姫なんて呼ばれているのも同じ。光の魔導を継承しているからだけじゃない。ノイディエンスタークの民なら誰でも知ってることだわ」

フィアルは努めて淡々と話しているように見えた。彼女が背負うものは、確かに自分よりもっともっと重いのかもしれない。しかし何故それを自分に話すのか……その理由をレインは測りかねていた。
困ったような顔でもしていたのだろうか、フィアルはレインの顔を見て、こちらも困ったように笑って見せた。

「―――――私はあの子をとてもとても愛してる。……だから死ぬわけにはいかない、死ねない」
「……竜王は今……どうしてるんだ?」

その問いかけに、今まで微笑んだままだったフィアルの顔からは表情が消えた。

「―――――あの子は眠ってる……一生、起こすつもりはないわ。私が……この手で封印したから」





―――――とてもとても愛しているけれど。
―――――もう二度と、起こすことはないの。





―――――……ごめんね。