Clover
- - - 第7章 父と娘1
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あの時のことは、実を言えばよく覚えていない。
ただ何が起きて、自分が何をしたのかは感覚としてわかっていた。
気がつくと、目の前には見知った顔があって、その瞳には痛々しいものを見る光が浮かんでいた。
不意に強く抱き締められた。……彼の肩は泣いていた。

(―――――ああ、父様は死んだんだ)

その事実を漠然と知った。それでも、涙が出ない。あんなに、あんなに愛してくれた人が死んだのに。
自分の心はきっとあの時に、1度、死んだのだ。

泣けない自分の代わりに、泣いてくれる人。それはきっとその時、彼以外にはありえなかった。





―――――ねえ。
―――――私はいつまで、あなたの小さな「フィーナ」でいられるのかな?


* * * * *


リンフェイの別れの抱擁からなんとか脱出して、早朝に竜の鬣半島を出た6人は、一路リトワルトへ向かった。
―――――リトワルト都市同盟。
いくつかの都市が連合してできた国で、形態的にはフューゲルと良く似ている都市国家である。王という専制君主は存在せず、都市ごとに代表を選び、その中の一人が国家としての代表となる、比較的民の意思が反映しやすい形での政治が行われている。
もともと自由な商業が盛んな土地柄もあって、街には商人が溢れており、この大陸の経済の中心にもなっている国だ。
比較的楽に入国した一行は、大通りに面した宿を取り、とりあえず街を回って情報を集めることにした。

……が、問題は姫君のこの一言から発生した。

「えっと……私はちょっとヤボ用があるから、5人で情報集めてきてくれると嬉しいんだけど」

どうにも歯切れ悪く言うフィアルに、怪訝な顔をしたのはゲオハルトだった。

「……おひーさん」
「……何?」
「目的地は、ここだったわけか?」
「……何のこと?」
「とぼけんな!アゼルから言われてんだ、おひーさんはどこかの国に目的があって、今回の討伐、自分で行くと言い出したってな!オレが慣れない見張りなんてしてたのはそのせいだ!すぐバレたけど!」

ああ、あのヘタクソな見張りね……とフィアルはどこか遠い目をしながら呟く。よりにもよってゲオハルトに見張りを頼むなんて、アゼル様ご乱心じゃねえの?のリーフはとんでもないことを言ってのけた。

「まぁ隠しても仕方ないからとりあえず言っとくわ。確かに私の今回の目的地はここ、リトワルトよ」

リーフとゲオハルトの間で不毛な言い争いが起こる気配を察して、フィアルはあっけらかんと言い放つ。あまりにも正直なその発言にゲオハルトは一瞬呆けたようにぽかん、と口を開けた。

「……い、いやにあっさり言うな、おひーさん」
「ここまで来たらもうどうでもいいわよ。ぶっちゃけて言えば、毎月毎月私に請求書を送りつけてくる相手がここにいるんで、ちょっと文句を言ってやろうと思ってきたの」
「……請求書?」

首を傾げるキールを見て、フィアルは自分の鞄をごそごそと探り、そこから何枚かの紙を取り出した。それをそのままキールへ差し出す。その内容を見て、キールの眉間に皺が寄った。

「……なんですか、これは」
「……だからアゼルには言いたくなかったのよ……めちゃめちゃ不名誉だもん」

―――――酒代、酒代、酒代、女代、酒代、酒代、武器代、武器代、女代、酒代。
そんなものがつらつらと並べられたその請求書の額は、洒落にならない程になっていた。
キールから回されて、全員がその請求書の内容を見て言葉を失う。

「姫……酒と武器はともかく、女って……」
「言っとくけど私の散財じゃないから、っていうかなんで私が娼館で女なんて買うのよ」
「そ、そうだよな」

まさか自分の主君にそんな趣味があったらどうしようと、半分本気で考えていたリーフは、ほっと胸を撫で下ろした。しかしその動作はフィアルの勘に障ったらしい。容赦のない蹴りがふくらはぎに入って、リーフは悶絶する。

「大体、女を買うくらいなら、男を買うわよ」
「……その発言も何か間違ってませんか?」

その直後、リーフと同じ場所に手加減無しで蹴りを入れられて、イオも倒れ伏した。余計な発言は死を招くと悟って、残りの三人はパッタリと無言になる。そんな面々を満足気に見回して、フィアルはにっこりと微笑んだ。

「……ってわけで話をつけに行くから、情報収集お願いね」
「待ってください、姫」

上手く話を打ち切られそうになったが、キールはそれを許さなかった。

「相手は誰です?居場所はわかってるんですか?」
「相手は……まぁ昔の知り合い。場所はわかってるから大丈夫」
「……昔の知り合い?借金の肩代わりをしてやる程の仲なんですか?」
「……まぁ……」
「……」

いつもと違い言葉を濁す彼女に、キールはますます眉間に皺を寄せる。無言でじっと見つめられて、フィアルは居心地が悪そうに四方八方を向いていたが、やがてその沈黙に耐えられなくなったのか、仕方なさそうに口を開いた。

「……キールって、ある意味アゼルより扱いにくい」
「……誉め言葉と受け取っておきます」
「どうしても言わなきゃダメ?」
「ダメです」

キールは姫君の真似をしてにっこりと微笑んでみせる。天地がひっくり返ってもしないと思われていたその笑顔は、その場にいた全員の背筋に電撃のような震えをもたらした。もちろんフィアルも例外ではない。

「キール……やめて……それ。めちゃめちゃ怖いから」
「だったらちゃんと言ってください」
「……わかったから、やめて」

瞬間、キールはいつもの仏頂面に戻る。笑顔よりこちらの方が落ち着くというのも何気に問題ではなかろうか、とレインは思ったが、自分も同じことをすれば、これまた同じ反応が返ってくるような気がしたので、口にはしないでおく。
元に戻ったキールの顔を見て、フィアルはほっとしたように胸を撫で下ろすと、重い口を開いた。

「まず……行く場所は、傭兵酒場」
「……傭兵酒場?」
「リトワルトは自由な国だからね、傭兵も多いのよ。今はラドリアとの戦いもあるから腕のいい傭兵は引く手あまたなの。そういう荒くれ野郎共が集まる界隈にある酒場の一つに用があるわけ」
「……もんのすごく危険地帯な気がするのはオレだけか?姫」
「間違ってないわよ、リーフ。殺人、強盗、恐喝に強姦は日常茶飯事だし、ヤバい裏マーケットとかもあるし、お金さえ積めばあらゆる情報も買える。そういう場所よ」

フィアルは平然と言ったが、聞いていた方は全然平気ではなかった。少なくともノイディエンスタークにそういう場所は存在しない。酒場はあっても、大体は宿屋に併設されているのが常だ。

「大丈夫、大丈夫、油断さえしなけりゃなんとかなるなる」

カラカラと笑う姫君からは何の危機感も感じられない。それどころか何故か慣れているような気さえしてくる。

「とにかく、逢いたいのがそこにいるんだから、行くしかないのよ。選択肢はないの」
「危ねえだろ!一人で行く気だったのかよ!」
「……危ない?」
「自覚ねえのかもしれねえけど、一応女なんだぞ!姫は!」
「一応って何よ!」

ドカッ!と先程と同じところに見事な蹴りが入って、リーフは再び悶絶した。リーフと違って学習能力があるらしいイオは、急いで姫君から一番遠くへ避難している。

「何を心配してるのか知らないけど、私は平気。慣れてるもん」
「その酒場にいるということは、姫の逢いたい人は傭兵なんですね?」
「うん、そう」
「おひーさん……どこをどうやったらお姫様と傭兵が知り合ったりするんだよ」

しかも借金の肩代わりまでするなんて……とゲオハルトがぼやく。
比較的おおらかな性格のゲオハルトでさえこれなのだ。ノイディエンスタークには傭兵というものがあまり存在しないから、その反応も当然なのだが、この職業にはやっぱり、かなりの偏見が付きまとうものなんだなぁと、フィアルは思った。

「……まぁ、人生20年も生きてるといろんなことがあるもんだし」
「あれか?国を離れてた10年の間に知り合ったってことか?」
「う〜ん……まぁ、そういうことにしておく」

(やっぱり、言わないな……)

逢いたい相手は傭兵だということ、その居場所が傭兵酒場だということ。そういった断片的なことは明かしても、肝心な相手の名前や経緯、店の場所などは語らない。しかし何も知らされないわけではないので、相手はとりあえず納得する。この手法はこの姫の常套手段だった。こうなると彼女は絶対にその口を割らないことを、キールは知っていた。

(「頑固なんだ、あの姫は」)

姫君に何度も言い負かされたアゼルが、憮然としてそう呟いたことをふと思い出す。彼の言う通りなのかもしれない。こうなるとそれを彼女から聞きだすのはおそらく無理だ。

「姫」

そう判断して、キールは目の前の姫君に視線を落とした。

「……危険じゃ、ないんですね?」
「大丈夫よ」
「わかりました、いつ戻ります?」
「……ん〜……とりあえず一日もらおうかな。明日の昼まで」
「じゃあ俺達はそれまでに、なんらかの情報を集めておきます」

勝手に進んでいく話に、慌てたようにゲオハルトが割り込んだ。

「ちょ、ちょっと待て!ここでおひーさんを野放しにするつもりか!?キール!」
「……人を野生動物みたいに言うの、やめてくれる?」
「仕方ないだろう、それともお前に姫が止められるのか?」
「……う」

返す言葉のないゲオハルトに、キールは大きくため息をついた。彼女を止めることなど、もともと無理な話なのだ。
話の展開に満足したのか、フィアルは立ち上がってサラっとマントを羽織った。キールから請求書の束を受け取って、また鞄に入れると、さっと腰にそれをくくりつける。

「じゃあそういうことで。みんなの方も頑張ってね。情報を集めるなら大通りから一本入ったところにいる、占い師のサンドラばあさんが一番知ってると思うわよ?」
「……詳しいな……」
「理由は企業秘密です」

首を傾げたレインに、フィアルは笑って答えた。おそらく彼女が昔、この街に住んでいたのだろうということは、なんとなしに想像がつく。

―――――ノイディエンスタークの誰もが知らない、姫君の空白の10年間。

一時期フューゲルにいたことは既にわかっている。おそらく素性を隠し、ひとつところに留まることはなかったのだろう。
それまでほとんど外に出たことのなかった深窓の姫君が、今の彼女になるまでにどれだけの苦労をしてきたのか、レインには到底想像がつかない。どんなに居心地が悪くても、ずっと王宮で過ごしていた自分には一生わからないかもしれないことだ。

(―――――知りたい)

沸き上がった思いに、トクン、と一つ心臓が音を立てる。
変わりたくないと、忘れたくないと思っているはずなのに、どうしてその理由を知りたいと思うのだろう。
全員に指示を出して、今にも出て行こうとしているフィアルの背を、レインは無性に追いかけたい気分になっていた。

咄嗟に近くに置いてあったマントと雷神を掴む。そして、ドアを開けた彼女の肩を、少し乱暴に掴んで振り向かせた。

「……何?どうしたの?」
「俺も行く」
「……は?」
「俺も行く……護衛だ」
「いらないわよ、そんなの」
「行く」

有無を言わせないレインの迫力に、フィアルは眉根を寄せた。しかしすぐに、漆黒の瞳の中に焦れたような光が見え隠れするのを見つけて、諦めたようにため息をついた。

「わかった……いいわ」
「……」
「自分のことは自分で守ってね、面倒みないから」
「……ああ」

レインは小さく頷いて、そのまま彼女と一緒に部屋を出ていく。その様子をイオが驚いた顔で見つめているのが、視界の端に小さく映った。