Clover
- - - 第7章 父と娘2
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薄暗い室内で、中空に浮かんだ光球だけが淡い紫の光をぼんやりと放っていた。
室内には古書や古文書が所狭しと乱雑に散乱している。
大きな窓からしばらく外を眺めていた紫の瞳の青年は、羽織っていた黒と紫のマントを翻すと、部屋の中央に設えてあるソファーへと向かった。
ボスッという音と共に、背中からソファーへと沈む。栗色の髪がその衝撃で乱れるのも気にはしていないように見えた。

―――――シオン・ラウル・ファティリーズ。
それが、彼の名前だった。

「ずいぶんとご機嫌が悪いようですね、シオン殿」
「……お前か」

ドアのすぐ横に立っていた茶色の髪の男を面倒くさそうに見やって、シオンはテーブルの上に置いてあった本を開く。彼は、そんなシオンに苦笑しながらゆっくりとソファーへと近づくと、丁重に頭を下げた。

男は長身だった。その左眼には傷があり、彼が右目だけの世界で生きているとわかる。細身だが鍛えられているらしく、その仕草に隙は微塵も感じられない。

「……オベリスクは退治されているようですね」
「……それも予想のうちだろう?お前達にとっては」
「人々の恐怖を集めただけでも充分です。負の気は魔竜を活性化させますから」
「魔竜か……興味はあるが、僕が出張るほどのこともないな」

シオンが彼等と手を組んでいるのは、あくまでも自分のためだ。進んで彼等の望みを叶えてやる気にはなれない。シオンにとっての興味は魔導に関することだけであり、世界を誰が治めようが知ったことではない。
ノイディエンスタークの内乱で神官達に手を貸したのは、神殿に封印されている魔導を帯びた品を手にしたかったから、それだけだ。この男達が何を考えていようと、研究の場所さえあるのならばシオンには文句はない。

「魔竜を復活させるなんて、本気で考えているのか?……僕にはそうは思えないけど」
「何故ですか」
「さあ……勘さ。魔竜は単なる手段って気がするんでね」
「……聡いですね、シオン殿。魔竜が復活すれば自分達は救われると信じている、あの神官達とは違うということですか」
「あんなバカ共と一緒にされたくないな、僕の脳細胞が半分以下に減りそうだ」

クッ……とシオンがくぐもった笑いを漏らすのを、男は黙って見つめていた。

「……で?次は何をしろっていうんだ?お前の主は。オベリスクはもう作っても無駄だと思うけど?」
「いいえ、今日は特に何も。オベリスクを作られてお疲れでしょうから、ゆっくりお休み下さいとのことです」
「はっ、お優しいことだね」

そう言い放つと、シオンは何かを思いついたように、男の顔をじっと見やった。

「……そう言えば、欲しい物があるんだが」
「……なんですか?」

シオンと男の主の関係は主従ではなく、五分五分のはずだ。少しくらいの要求が叶えられてもいいだろう。

「巫女姫が欲しいんだ」
「……それは……」
「ああ、わかってるさ。あれは簡単に手に入れられるモノじゃないってことは。何しろ楽しいことに、僕の魔導球を手で握りつぶすなんて芸当をやってのける女性だしな。……だから、駒が欲しい」
「……駒、ですか」

男が確認するように、自分の言葉を繰り返すのを見て、シオンはアハハと大声で笑った。
そう、思いついたのだ、楽しい楽しいゲームを。
考えるだけでワクワクする、心が躍る。

「―――――僕の愚弟を、僕にくれないか?ねえ」
「弟……ファティリーズ侯爵をですか?」
「ああ、キールがいい。一番楽しいことになりそうだ」
「……わかりました、主に伝えます」

男が一礼をして部屋を出て行くのを、シオンは楽しくてたまらないといった顔で見送る。
―――――その瞳にはどこか、狂気めいた光が宿っていた。


* * * * *


「ニンジン買ってもいい?」
「……ニンジン?」

宿屋を後にしてしばらく大通りを歩くと、目の前には市場が見えてくる。それを見たフィアルの言葉にレインの足が止まった。

「酒場に行くんだろう……?なんでニンジンなんかが必要なんだ?」
「嫌がらせ」
「……?」
「まぁいいじゃない、ちょっと付き合ってよ」

フィアルはそのままレインの腕を取ると、ぐいぐいと引っ張りながら市場の中へと足を進めた。レインは抵抗できずにそのまま引っ張られる形になる。本気で抵抗すれば、体格の差から考えても、引っ張られることはないのだろうが、そんなことをしたらリーフの悶絶以上の攻撃が返ってきそうなので、レインは敢えて逆らうのをやめた。

(……慣れ、なのか……やっぱり)

フィアルのペースに少しずつ順応している自分を感じて、レインは複雑な気持ちになった。

市場には色とりどりの野菜、果物、魚や肉などが溢れている。生活の基本となる場所だけに活気もあった。
野菜を売っている露店の方へ足を進めながら振り返ると、店先を興味深そうに見つめているレインの姿が目に入る。もちろん顔には表れていないが、フィアルには徐々にその感情の動きがわかるようになってきていた。

(……慣れ、ってもんなのかな……)

先程、レインが自分と全く同じことを考えていたとは露ほども知らない姫君である。しかしそこでフィアルは、ようやくレインが王子だったことを思い出した。

「……ねえ、レインって市場とか来るの、初めて?」
「……ああ」
「ラドリアでも行ったこと……ないか。お店に行くって概念なさそうだもん……王子様だもんね」
「いや、店くらいはあるが……元々ラドリアにはこんなに物がない。それにこんなに活気も……ない」

もともとラドリアは果樹栽培や漁業で知られている。通常時なら活気がないわけも、市場が立たないわけもないのだが、今は戦争で疲弊しているため、そんな余裕もないのだろう。レインが市場を知らないのも当然なのかもしれない。
そう思い至って、フィアルはまたレインの腕を引いて歩き出し、一つの露店の前で止まった。

「おばちゃん、スゥイティ二つ!」
「はいよ!って……二つ?そっちのおにーさんが食べるのかい?」
「そう、外見に寄らず大好物なのー」
「……?」
「おやおや、じゃあおまけしておくからね!たんとお食べ!」

―――――でん。

そんな効果音が付きそうな様子で、レインの前に差し出されたのは、山と盛られた果物の上に、これまた山のような氷菓子と生クリームが乗せられ、ご丁寧にもコンペイトウで飾り付けられた、凶悪な物体だった。
いきなり差し出されたので、思わず受け取ってしまったが、もしかしなくてもフィアルは自分に、これを食べろと言っているのだろうか。そう思って隣の彼女を見ると、それはそれは含みのある顔でにっこりと笑っている。

いかにも、





(私の買ったもんが食べられないとかふざけたこと抜かすな、オラ。とっとと食え)





と言わんばかりである。

元々そんなに甘い物が得意ではないレインにとって、これは拷問に近い。そんな彼を尻目にフィアルはとっととスプーンで自分の分を食べ始めた。そういうところだけは一応女だな、とレインが思った瞬間……。

「そういうところだけは女の子だなとか思ったでしょ」

……バレた。

思わず動揺して固まったレインの手からスプーンを取り上げ、フィアルは生クリームをすくうと、レインの口元にそれを近づけた。

「はい、あーん」
「!?」
「はい」
「……いや……俺は……」
「ハイ♪」

その笑顔が怖い。なんと言っても目が笑っていない。黙って食えコラ、と暗に言っている。
露店の女性は、あら、お熱いねえ、などと言いながらニコニコと笑っている。近くにいる男性も、兄ちゃんとっとと食ってやれよ!と応援している始末だ。この状況を狙って作り出したのなら、これほどの策士もいないだろう。

―――――覚悟を決めるしかない。

あくまでも表情は変わらないが、内心では冷や汗を流しながら、レインはそのスプーンに口を近づけた。
―――――姫君の輝くばかりの笑顔が、妙に歪んで見えたのは、きっと気のせいではなかった。


* * * * *


「おじちゃん、ニンジン10本」

フィアルが露店の店先でニンジンを買っている間、結局レインは近くの椅子にぐったりとうなだれる結果になった。少しは可哀想に思って手伝ってくれればいいものを、フィアルは最後までレインにそれを許さなかった。おかげでレインは、しばらく生クリームを見るのも嫌になりそうな気さえしている。

「お待たせ」

ニンジンの袋を抱えてフィアルが戻ってくる。その彼女に、周りの視線が集まるのをレインは見て取った。ステラハイムの色はこの街でも目立つらしい。
いや、それだけではないだろう。フィアルの容姿は、イヤでも人の目を引くものなのだ。

「貸せ」

レインは椅子から立ち上がると、フィアルが持っていたニンジンの袋を持ってやった。いきなりそれを奪われて、一瞬きょとんとしたフィアルは、歩き出したレインの後ろから笑顔で声をかける。

「レインって、腐っても王子様なんだよねえ」
「……なんだそれは」
「ノイディエンスタークの騎士もそうだけど、女性に優しいって思っただけ。結局、完食してくれたしね」
「……二度目はないぞ」

わかってるってば、とフィアルは笑う。何が楽しいのか、先程から彼女はずっと笑っている気がした。

「こういうの、何て言うんだっけ。ああ、デートね、デート」
「……」
「……無言で非難するの、やめてよ」
「……くだらないことを言うからだ」
「そうでもないでしょ?だって私って一応レインに結婚申し込まれてるわけだし」
「……!?」

すっかり忘れていたが、良く考えるとそうだった。
レインの意思ではないにしろ、ラドリアが正式にノイディエンスタークに婚姻を持ちかけているのは確かなのだ。リンフェイの熱烈なプロポーズとは程遠いが、実質は、自分も彼女に結婚を申し込んでいる立場ということになる。

「……まあ、そんなのはありえない話だけどね」
「……どうしてだ?」
「どうしてって……何よ、本気でリンフェイみたいに私に気があるわけじゃないでしょうね?」
「……一緒にするな」

案外わかりやすいなぁ、とフィアルは思う。表情の変化や言葉は少ないけれど、目が彼の感情を語ってくれている。リンフェイと一緒にされたと思っただけで、目に剣呑な光を浮かべる素直さが、彼にはまだあるのだ。

「わかってるってば、レインは私を好きになることなんてないってね」
「……?」
「わかるのよ、私はね」

フィアル何かを含んだ微笑の裏が、レインにはその時わからなかった。

―――――やっぱり彼女は、難しい。