Clover
- - - 第7章 父と娘4
[ 第7章 父と娘3 | CloverTop | 第7章 父と娘5 ]

毎月送られてくるその一枚の紙が、二人を繋ぐ唯一のものだって。
―――――ねえ、私にもわかっていたのよ?


* * * * *


青い海風亭は、傭兵街の中でも一番港に近い宿屋だ。
大通りはさすがに人が少なかったが、ここに来ると道端で寝ている者や、傷を負ってそのままそこでこと切れた者などがゴロゴロしていて、お世辞にも閑散としているとは言えない。どこか腐臭の混じった海風は、この街特有のものなのだろうとレインは思った。

(こんな場所で……10年間も)

自分が今まで安穏と暮らしてきたとは思わない。王宮にいるよりも離宮で過ごす時間の方が長かったし、それよりもさらに戦場で過ごす時間の方が多かったのも事実だ。しかし今、目の前に広がる光景を見ると、自分は本当に生きることに困るような生活をしていなかったことを思い知らされる。……少なくとも自分は飢えたことはないのだ。
この街には、常に死の臭いが充満しているように、レインには感じられた。

ごろごろと転がる人、もしくは死体を避けて、慣れた様子で進む彼女を見て、周りからひそひそとした声が聞こえる。

(「おい……フィーナだぞ」)
(「生きてたのか……?」)
(「フィーナだ、間違いない」)

どうやらフィアルは、この街でも有名な存在らしい。傭兵をしていた間は素性を隠していたはずなのだから魔導力は使えなかったはずなのに、これだけ知られているということは、彼女がそれだけ腕利きの傭兵だったと言うことなのだろう。

(「―――――姫は強い」)

いつかキールが言った言葉を、レインはぼんやりと思い出していた。
本当に彼女は強いのかもしれない、魔導力を使わなくても。毎日、死と隣り合わせで、生きるために戦う、実戦の中で身に付けた剣なら尚更だ。一度手合わせをしてみたいと、レインは本気で思った。

細い路地を抜けると、この街に似合わない真っ青な海が見えてくる。そこに目指す宿屋はあった。それほど大きくはないが、それなりにこざっぱりとした建物だ。

「ここよ」

前を歩いていたフィアルが立ち止まり、振り返る。レインは頷いて彼女の隣へ一歩進んだ。
青い海風亭の木の扉を押して中に入る。傭兵街にあるとは思えない、普通の街の宿屋のような雰囲気がそこにはあった。テーブルには花が飾られ、掃除も行き届いているようだ。
フィアルはそのままカウンターへ向かうと、そこの女性に笑って話しかけた。

「こんにちは、タラ」
「……!?フィーナ!?フィーナかい!?本当にアンタかい!?」
「本当よ、幽霊じゃないわよ」
「なんだい!随分と久しぶりじゃないか!」

タラと呼ばれた女性はカウンター越しにフィアルを強く抱きしめた。トーイに負けず劣らずふくよかなタラの胸に完全に顔を埋める形になったフィアルは息苦しさにもがく。しかしすぐに身体を離して、タラは笑顔でフィアルの顔をしみじみと見やった。

「帰ってきたのかい?フィーナ」
「ううん、ここにあのバカがいるって聞いてね、逢いに来たの」
「ああ、いるよ。2階のいつもの部屋に泊まってる。あんたが来たら泣いて喜ぶよ」
「泣いて……って大げさな」
「何言ってんだい!あんたがいなくなってからしばらく、すごい落ち込んでたんだよ!腑抜けになったみたいだったよ!」

今はまぁ元に戻ってるけどさ、とタラはカラカラと笑った。早く行っておやり、とフィアルの背を押して、二階へと続く階段へ促す。それに少し待ったをかけて、フィアルはレインを振り返り、着いて来るように目で訴えた。レインは無言でフィアルの隣に立つと、その後に続いて、階段を上がった。

二階の回廊を歩いて一番奥、向かって右の部屋の扉の前で、フィアルは立ち止まった。

「……ここか?」
「……うん、そう」

じっとドアノブを見つめたまま、フィアルは動かない。怪訝に思って顔を覗き込むと、彼女の瞳はいつになく迷っているようだった。

「開けないのか?」
「……開けるよ」
「……」
「……うん、開ける」

意を決したように言うと、彼女はレインからニンジンの入った袋を受け取って、ドアノブに手を……掛けなかった。
一歩下がって、すうっと息を吸い込み、思いっきり足を前に振り上げて、ドアを蹴破ったのである。





ババンッ!





という大音響と共に開いたドアの向こうのベットの上に、大柄な人影がビクッと起き上がるのが見えた。
驚いて固まったレインを尻目に、フィアルは憮然とした顔でずかずかと部屋に入るとベット脇まで歩き、腕を組んでその人影を冷ややかに見つめる。

「……起きた?」

ベットの上にいたのは鍛えられた上半身を晒した、ぼさぼさの黒髪に、深い青の瞳の男だった。まだ寝ぼけているのかその視線は空ろだったが、次第にその焦点が合いはじめ、フィアルの上でぴたりと止まった。

「……フィーナ?」

ぼんやりと呟いた声は低く、よく通る。
この2年の間一度も聞くことのなかった声を、怖いくらいに懐かしく思う自分に、フィアルは顔には出さず苦笑した。

「……フィーナ?……お前……なんで……?」

その問いかけに答えるために、フィアルはにっこりと微笑む。その微笑みは、レインに凶悪物体を無理矢理食べさせた時のものに酷似していて、レインは思わず後ずさった。





「とっとと起きろ!このクソ親父ー!!!!!!!」





直後響いたその叫びは、青い海風亭全体をグラリと揺らしたと思えるほどの大音響である。耳元で叫ばれた彼が、再びベットに倒れ伏したのは、語るまでもない事実だった。しかしフィアルは手加減することなく、倒れ伏した彼の口に買ってきたニンジンを次々と容赦なく突っ込む。

「ぐわあああああ!何しやがる!ぺぺっ!って……もががっ!」
「そら食え、やれ食え、どんと食え!」
「おえっ!バカヤロ!やめっ……もががっ!」
「ディシスはニンジンが好きになーる、好きになーる」

心底楽しそうな姫君を、珍しく青い顔でレインは見つめた。寝ている彼の上に完全に馬乗りになってニンジンを突っ込む様は、かなり怖いものがある。突っ込まれている当の本人は半分涙目だ。

「わあああ!オレが悪かった!ぺぺっ!だっだからやめてくれー!!!!!!」

半分ヤケになった男の叫びを聞いて、フィアルはピタっとニンジンを持ったままの手を止めた。そしてこれ以上ないほど冷たい瞳で、自分の下でもがく男を見やると、言い放った。

「―――――最初から素直にそう言えばいいのよ、このクソ親父」

おまけ、と中途半端に噛み砕かれたニンジンを口に突っ込んで、フィアルは彼の上から降りる。速攻でそれを吐き出すと、ニンジンの洗礼を受けた男は、身体を反転させて、うつぶせに蹲った。必死で込み上げてくるものと戦っているようだ。
そんな彼を尻目に、フィアルはレインに視線を移すと、やれやれといった風に肩を竦めてみせる。

「やんなっちゃうでしょ、いい歳してニンジンが大ッ嫌いなのよ、この人」
「は……?」
「ああ、若く見えるけどね、この人おっさんだから」

どう見ても20代にしか見えない男へ視線を動かすと、彼はようやく吐き気を抑えて、ベットの上に身体を起こすところだった。

「フィーナ……てめえ……」
「あ、復活した」
「復活したじゃねえよ!この馬鹿娘!久々の親子の再会がこれか!?これなのか!?逢いたかったわ♪とか言って可愛く抱きつくくらいの芸当を見せろ!」
「……逢いたかったわ♪」
「……棒読みかよ……」

がっくりと肩を落とした彼を指差して、フィアルはレインに向かって微笑んだ。

「あの人、ディシスっていうの。あんなんでも一応、私の父親」
「……父親?」

そう、と姫君は頷く。
―――――一応って言うな!というディシスの叫び声は、驚きの中にあるレインには、届かなかった。


* * * * *


憐れニンジンまみれになった部屋を片付けるのは大変だった。とりあえず身支度を整え、部屋にある簡素なソファーに身を落ち着けると、ディシスは懐から煙草を取り出す。黒い皮のぴったりした上下を身につけて、煙をくゆらせる彼は、まさに腕利きの傭兵の風貌であり、先程までニンジンと格闘していた男と、同一人物には見えなかった。

「また吸ってる……」
「お前に言われたとおり本数は減らした。文句言うな、馬鹿娘」
「……。どっかでへたれ死ね、クソ親父。葬式は出してやるわよ、盛大に」

憎まれ口の応酬もこの二人にとってはコミュニケーションらしい。ケンカになるような気配が感じられないのがその証拠だ。
フューゲルで言っていた、内乱の時に彼女を連れて逃げ、その後ずっと彼女を育てたというのが彼なのだろう、とレインは理解した。
しかし目の前の彼はメテオヴィースの血を引いているようには見えない。どちらかと言うとレインに近しい、漆黒の容貌だ。

「本当はね、赤いのよ?」

じっとディシスを見つめていたレインの視線に気付いて、フィアルは苦笑した。

「私と同じであの色は目立つからね、ディシスも色を変えてるのよ」
「……あ?何の話だ?」
「レイン達には、フューゲルでちょっとだけディシスの話をしたから」
「オレがメテオヴィースだってことか」
「そう」

ディシスは自分の髪をちょい、と摘むとふっと視線を和らげてレインを見た。

「もうずっとこの色だからな……今更赤に戻しても違和感ありまくりだな、こりゃ」

そう言って、一瞬遠くを見た後、みるみるうちにディシスの眉間に皺が寄った。バッと顔を動かしてフィアルに視線を向ける。

「……ちょっと待て。お前今何て言った?」
「……は?」
「フューゲル、フューゲルって言ったな、お前!」
「……」
「お前フューゲルに行ったのか!?あのエロガキのところに行ったのか、フィーナ!?」

ヤバい……つい言ってしまった。
ディシスの中であの事件以来、リンフェイは要注意人物になっている。「オレの可愛い娘に何てことしやがる、この下衆が!」ということらしい。それ以来どんなに強く望まれても、絶対にフューゲルでの仕事は受けなかったほどの筋金入りなのだ。本人には憎まれ口を叩くくせに、他人に傷つけられるのは許せないという親心なのだろうが、いささか度が過ぎているような部分もある。

「お前まさか、あのクソガキになんかされたんじゃないだろうな」
「何も……あ、そうだ」
「何だ!」
「胸揉まれたんだった、アハハ」
「……殺す」

あいつ絶対殺す!と立ち上がりかけたディシスのふくらはぎに得意の蹴りを入れて、フィアルはディシスを黙らせた。リーフといい、イオといい、ディシスといい……最近悶絶している顔を良く見るな、とレインは思った。

「リンフェイには自分で報復しておいたからいいのよ。問題はコレでしょ?」
「……なんだ、これ」
「アンタが可愛い娘に送りつけてきた請求書♪」

目の前に髪の束を差し出されて、嫌そうにディシスは顔を歪める。

「……ちょっとくらい親孝行だと思えよ」
「生活費ならともかく、なんで私がアンタの女代まで払うのよ。自分で払え、そんなもの」
「ちょっとした出来心だよ、出来心。戦いに疲れた男には、癒される場所が必要なんだ」
「……払え♪」

にっこり笑う娘に、ディシスは背中に冷や汗が伝うのを感じた。傭兵稼業のおかげで元々そんなに金に困っているわけではないのだが、しかしだからといって、これを耳を揃えて払うほどの蓄えはない。
仕方ないので、にっこり笑い返してみる。するとフィアルはそれ以上の微笑みで返してきた。

(……チッ……相変わらず、手強いな)

娘相手にこんなにビビらなくてもいいのだが、ディシスはこの娘にこの上なく弱かった。
……微笑み合いを無言で続ける二人は、異様な雰囲気で、レインは思わず視線をそらしてしまう。
しばらくして、仕方なく折れたのはディシスの方だった。

「わかったよ……何すればいい?」

フィアルは微笑んだまま満足そうに頷くと、ふっとその表情からからかいの色を消した。

「……ねえ、ディシス」
「……ん?」





「ノイディエンスタークに……戻って……って言ったら?」





その言葉に、ディシスは……息を呑んだ。
この2年間、彼女は決して、それを望まなかったのだから。