Clover
- - - 第7章 父と娘10
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「ディシー!」

語尾にハートマークがついていそうな呼び方だが、何故かその声は野太かった。
先程まで漂っていたはずの、部屋の中のシリアスな空気が一変する。しかしその声に、部屋の中の三人が浮かべた表情は違っていた。ディシスは引きつり、フィアルは眉根を寄せ、レインは表情は変わらないが内心は呆然としていた。
戸口に立っていたのは、両脇に見覚えのある二人を抱えた大女だった。

「リッ……リリーネ!」

さっと青くなって、部屋の一番奥までディシスはずりずりと移動した。リリーネとの間に距離を置こうとしていることは明白だ。
そんなディシスを見てリリーネは満面の笑顔を浮かべる。手に抱えていた二人をポイ、とまるで物を放り投げるように床に落として、その体に似合わないすばやい動きでディシスの元に駆け寄った。

「逢いたかった!帰ってきたなら逢いにきてくれたらいいのに!」
「って、ぎゃあ!お前抱きつくな!」
「もおおお、照れちゃってぇ〜!そんなところも好きだよ!」
「違う!照れてない!バカッ!やめろ!」

何故だかいちゃつきだした二人を尻目に、フィアルとレインは戸口の側に寄ると、いきなり落とされて床にぶつけた頭をさすっている二人を見て、不思議そうに顔を見合わせた。

「あのバカ女はともかく……どうして二人が一緒に現れるの?」
「……姫か?って言うか知るかよ!あの女いきなりオレ達を道で拉致しやがったんだ!」

頭だけではなく顔面から落ちたらしい。床の上に座り込んで鼻の頭を真っ赤にしたリーフは、怒り心頭と言った風に叫んだ。
キールはすぐに立ち上がって、窓際で不毛にいちゃつく二人を見やると、フィアルに話し出す。いくら色を変えているとは言っても、わかる人間には彼女が誰であるかはわかるらしい。

「大通りで道の真ん中に立ってたら、そういうことになりまして」
「……ああ、巻き込まれたのね……あの女……見境ないんだから」

明らかに嫌悪感を込めた瞳で、フィアルは窓際の二人を見た。
そのままツカツカと近づくと、父親に抱きついている大女に後ろから蹴りを喰らわせる。
勢いあまってリリーネは、目の前のディシスの胸に思いっきり顔をうずめる形になった。しかしそれはリリーネよりも、どちらかと言うと、ディシスにとって好ましくない状態だった。

「何すんだい!」
「何言ってんのよ。おいしい思いしたと思ってるくせに、このバカ女」

ディシスに抱きついたまま、リリーネは後ろを振り返った。顔が笑っているのは本気で怒っているからではないのだろう。自分の背中についた足跡を見れば、その笑顔は消えるかもしれないが、わざわざそれを知らせる人間はこの部屋の中にはいなかった。

「フィーナ!?なんだいあんた、戻ってきたのかい」
「悪い?」
「悪いに決まってんだろ。アンタもいい加減父親を自由にしてやりな。いつまでもいつまでも親ベッタリに生きてんじゃないよ」

心底嫌そうな顔をして、リリーネはディシスから離れ、頭1つ半は確実に低い目の前の少女を見下ろした。
どう見てもゲオハルトより背が高い。もちろんディシスよりも高い上にたくましい。
しかしそんな体格差を物ともせず、フィアルは彼女を好戦的な目で見上げた。

「アンタもいい加減諦めたらどうなの?しつこい女は嫌われるって知ってる?」
「コブに言われたくないね。アンタがいなければあたしとディシーの間には何の障害もないんだよ!」

ある!ある!と言う風に必死に首を横に振るディシスを見る限り、彼にその気はないらしい。リトワルト議長の一方的な片思いというわけだ。しかしそんな彼に気付くことなく、二人の雰囲気はますます険悪なものになっていく。ある意味これは、修羅場というものではないだろうか。

「障害?ハッ……ちゃんちゃらおかしいわね。それはもう想いが通じ合った男女の場合に使う言葉でしょ?やっぱり脳味噌が溶けてんじゃないの?この年増」
「これだから、世間を知らない小娘は。自分の存在自体が邪魔だってことに気付けないのかね、ガキんちょが」
「20歳の娘をガキ扱い?まぁアンタの年からしたらガキかもね、お、ば、さ、ん」
「……なんだってえ!」

―――――……不毛だ。
どんどん言い合いが低俗になっていく感がいなめない。だがあの中に入っていく勇気は、誰も持ち合わせていない。それに今までの感じから見るに、明らかに語彙力は姫君の方が上な気がする。伊達に毎日アゼルと喧嘩しているわけではないらしい。

「何とかしてくれ……」

いつの間にか戸口にまで寄って来たディシスが、肩を落とす。
そんなディシスをじっと見つめて、思い当たったのか、キールは目を見開いた。

「……ディシス様?」
「……あ?」
「ディシス様ですね?近衛の……」
「お前……キール坊やか?」

髪と瞳の色から出自は知れる。ファティリーズの血を引く者で、ディシスの記憶にあるのは亡き侯爵と、シオン、そして三男坊のキールだけだった。

「姫が会いたがっていたのは、ディシス様だったんですか」
「まぁな。しかし何年ぶりだ?あんなにチビッ子だったのに、こんなにでっかくなっちまって」

がはは、と笑ってディシスはキールの頭をガシガシと撫でた。懐かしい手にキールの目が柔らかく細められる。そう、昔からこういう人だった。誰にも分け隔てなく接する明るい人だ。キールは一瞬だけ心が昔に戻った気がした。

「キール、誰だ?」

リーフが不思議そうな顔で尋ねてくる。そのリーフを見てディシスもきょとん、と首を傾げた。この二人に面識はないだろう。元々リーフはステラハイム候の遅くできた子供だったために、内乱前は完全な箱入り息子だった。その頃に逢っていたのは、おそらくスレイオス家の双子だけだったに違いない。

「この方は、ディシス様だ」
「?」
「前大神官様の近衛隊長だった方だ。メテオヴィースの出身だ」
「メテオヴィース!?全然色が違うじゃんか!」

目を剥いたリーフに、ディシスは苦笑した。

「あのな……あんな目立つ色のままじゃ、素性隠すも何もないだろ?オレだけじゃなくて、フィーナも、とにかく外見が目立ったんでな。一応国を追われて落ちのびてる身分としては、それじゃ都合が悪かったんだよ」
「じゃあアンタが姫と一緒に逃げてたのか?」
「まぁ、そうだな」
「あの大女は?アンタの女?」
「バカ言え!お前大概失礼な奴だな。フィーナの奴、教育がなってないぞ」

ディシスは思ってもみなかったことを言われて憮然とする。
しかしそんな間にもフィアルとリリーネは睨み合いを続けていた。

「大体アンタはディシーじゃなくて、あの坊やにくっついてりゃいいじゃないか。人の恋路を邪魔するものは……っていう諺を知らないのかい!」
「ネーヤはともかく、誰がディシスにくっついてるのよ、心外ね」
「大体なんで父親を呼び捨てなんだい!」
「……ぱぱ」
「……へ?」
「パパ?おとーさま?お父上様?とうさん?お父さん?それともダディ?満足?」
「……フィーナ……それはオレが気持ち悪いからやめてくれ」

大体ダディってなんだよ、と彼はがっくりと項垂れた。その様子を見てダダダ、と重い足音を立てながら、リリーネはディシスに駆け寄った。動作は軽やかなのに、足音がすごぶる重いのは何故だろう。

「大丈夫かい?あたしのディシー。ああ、可哀相に……あの性悪娘の言葉に深く傷ついたんだね」
「あのな、リリー……仮にも親の前で娘の悪口言うのはよせ」
「どうしてそんなに優しいんだろうねぇ……それにつけこんで本当に性質が悪い娘だよ」

リリーネは心配そうに自分よりも背の低いディシスの額に手をやる。それを「よせっ!」と言いながらディシスは避けた。どうにもこの女性は、ディシスの言葉を自分に都合のいいように解釈するところがあった。

呆れて物も言えない、と言った風に肩を竦めてフィアルはまた戸口付近へと歩いてくる。

「悪いけどあんた帰ってよ。私とディシスはまだ話が終わってないんだから」
「話ってなんだい」
「あんたに関係ないでしょ?仕事の話なんだから」
「仕事!?この小娘、あたしからまたディシーを奪おうってのかい!」
「……いや、悪いがオレはお前のものになったことは一度も……」

小さなディシスの反論は、またしても都合よくリリーネには無視された。
いつもそうなのだ。あまりにもリリーネのアタックが激しすぎて、一度仕事に支障をきたしたことがあり、その時のフィアルの怒りっぷりは目も当てられなかった。

(「……あの女、暗殺してやる」)

冗談めかして言っていたが、目が笑っていなかったことで、ディシスがその晩必死で止めたのだ。あの時放っておいたら、リリーネは翌朝には死体で発見されただろう。フィアルはそういうところに手を抜かない娘だった。それにあのフィアル信奉者のネーヤが加われば怖いものなど何もありはしない。
その件の後、リリーネにははっきりと拒絶の意を伝えたのだが……。

―――――……強烈に、諦めが悪かったのだ、彼女は。

何度話をしても、どれだけ冷たくしても、突き放しても、剣を向けても。
それでも彼女は、ディシスの側から離れようとはしなかった。
さすがに仕事に支障をきたすようなことはしなくなったが、ディシスが帰ってくる度に、こうして逢いにやって来る。本当に嬉しそうな顔をして。
そしていつの間にか、ディシスは拒絶することを諦めたのだ。

彼女を愛しているわけでは、決してない。
一番近しい言い方をするのなら、できの悪い弟子、といった気分だ。
ディシスにとって、一番大切な世界は14年前のあの日、失われたのだから。

―――――……一生をかけて、仕えたいと思った人は、彼にそれを許してはくれなかった。

(「―――――……頼む」)
(「ディシス……頼む」)
(「お前は……あの子を護ってくれ」)

前大神官ジークフリートは、今にも神官勢力が攻め込んでこようとする大神殿で、臣下である自分にそう言って、頭を下げた。
彼は既にその時、死を覚悟していたのだと思う。
一人で逝かせたくはないと、側で最後まで貴方を護りたいのだと言ったディシスに、寂しそうに笑って、彼はその淡い蒼の瞳を伏せた。

(「……一人ではないさ」)
(「サーシャが、いてくれる」)

彼を守護する風竜の娘は、名を呼ばれてその頬を寄せた。
最後の瞬間まで……彼の魂は美しいままだった。

―――――フィアルは、そのジークフリートの娘。
―――――そして……自分の娘だ。

ディシスにとって、彼女がどれだけ大切な存在であることか。
リリーネもおそらくそれはわかっている。一生かけてもディシスの中で、フィアルより自分の比重が高くなることはないのだと。
リリーネは決して愚かな女性ではない。愚かでは、このリトワルトがこうして繁栄しているはずはないのだ。

あれは、だからこその焼きもちなのだ。

フィアルもまたそれがわからない娘ではない。あれはあの二人なりのコミュニケーションだとわかっているから、ディシスもそれを本気で止めることはしない。
しかし放っておくと、延々と言い争いが続くので、いい加減に止めなければと思った矢先―――――。





―――――ふわり。





いつの間に到着したのか。
全く気配を感じさせずに男性陣の横を擦り抜けた少年が、フィアルのことを柔らかく抱きしめていた。
まるで羽根のように、その仕草は柔らかく、自然なものだった。