Clover
- - - 第7章 父と娘12
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―――――昔話をしようか。
―――――その記憶が色あせて、曖昧になる前に。


* * * * *


リトワルトの郊外にある森の北端には小さな泉があった。
誰にも聞かれたくない話をする時、二人はいつもここに来ることを暗黙の了解で決めていた。
最後にここに来たのは4年前。フィアルがノイディエンスタークに戻るその前の晩だった。

「よお」
「……もっと遅いかと思ってた。よく抜けられたわね」

泉のほとりに立っていたフィアルの元に、ディシスが大きな歩幅で近づいた。
結局あの後赤燕亭へ移動して、個室を貸切り、宴会になったのだ。わざわざ個室にしたのは、夜の傭兵酒場がかなり危険な場所であるからに他ならない。

「とりあえずコンラートに後は任せてきた。まぁ、平気だろ?」
「それより何より、よくリリーネから逃げられたよね」
「……根性と努力が必要だったぞ」

リリーネは、酒癖が悪い。とにかく誰かれいとわず、からむのだ。
ディシスは肩を竦めると、はぁっと息をついて、湖畔の芝生の上に寝転がった。フィアルと、その隣に立っていた少年も習うようにその横に座る。

「なぁ……どうしてひよこが一緒なんだ?」
「……離れたくないって」
「……そうか」

ネーヤになら、聞かれてもかまわないだろう。少年は決してフィーナのためにならないことを口にする人間ではなかった。それに4年も離れていたのだ。その内2年の間のネーヤの嘆きようを知っているディシスは、無理矢理それを引き剥がす気にはなれなかった。
―――――それに。
フィアルに話しておかなくてはいけない事実もある。そのためにはネーヤが側にいることは、好都合だった。

「……どうしてオレが、2年前に一人でリトワルトに戻ってきたか、わかるか?」
「……」
「オレは逃げた……逃げ出したんだよ。お前からも、ノイディエンスタークからも……そして自分からもな」

フィアルはその言葉に何も答えなかった。ただ静かに湖面に映る二つの月を見つめている。

「4年前も……ここで話したよな。ノイディエンスタークに戻るかどうかを」
「……うん」
「ちょうど国を出て10年目だった。反乱軍の窮状は聞いて知っていたし、このままでは本当にノイディエンスタークは滅んでしまうと思った。ジークフリート様の愛した国が、あんな欲にかられた奴等に滅ぼされるのが……オレには耐えられなかった。長い間傭兵として生きてきて、自分の中から消えたかと思っていた騎士道精神ってヤツが、まだ生きていたんだなぁと自覚したのもあの時だった」

目に映るのは、満天の星空。
昔、ジークフリートとユーノス、そして自分ともう一人の4人で見た空は、もっともっと美しかった気がする。
その頃はまだ、この娘は生まれてはいなかった。

「……でも今は、それが間違っていたと思っている」
「……」
「お前をノイディエンスタークに帰すべきじゃなかったと、そう……思っている」
「……」
「オレは、お前に……倖せになって欲しかった。決してあんな結末を迎えさせるために帰したわけじゃない」

フィアルが帰還したことで大地は甦り、神官勢力は打倒され、侵略してきていた他国は退けられた。これを聞くだけなら、後悔などするはずもない理想的な結末のはずだ。





―――――けれど。
彼女はその代償に、これ以上はない程の残酷なもう一つの結末を迎えなければならなかった。





(「―――――憎い」)
(「―――――憎い」)
(「―――――滅んでしまえばいい」)





(「―――――どうしてこの人が、死ななければいけなかったの!?」)
(「―――――どうして……私は生きているの?」)





―――――……声をかけることも、できなかった。





10年の間、一度として見たことのなかった、純粋で美しい……涙。
後にも先にも、彼女が泣くのを、あの時以外ディシスは見たことがなかった。

そこまでフィアルを追い込んだのは、紛れもない自分だ。
いつもいつも、護りたい人を護りきれない、無力すぎる自分だ。
せめて彼女と共に、反乱軍に入っていたなら、少しは変わっていたかもしれないのに。
内情を探るためとはいえ、何故、神官勢力側に潜入してしまったのか。

―――――側にいるべきだったのに。
―――――決して離れては、いけなかったのに。





―――――……そうしていたなら、彼女をここまで苦しめることはなかったのに。





そんな後悔だけで頭がいっぱいになって、気が付くとこの街に戻ってきてしまっていた。
逃げたのだ、自分は。なんて愚かで、浅はかで、穢れた人間だろう。
それなのにこの娘は、自分に戻って来いと言う。

「……ディシスが何を思って、自分を責めてるのかは、わかってるつもり」
「……」
「……だけど、そんなことを私は望んでない。ノイディエンスタークに帰ることも、あの結末も、結局は私が私自身で決めたこと。ディシスが罪悪感を感じる必要はないのよ」
「……違う。オレがお前達を……殺し合わせた」
「……」





「……すまない……」





ディシスは身体を起こして地面に手をつき、フィアルに頭を下げた。その瞳から透明な雫が溢れ、後から後から大地へと吸い込まれて行く。





「すまない……許して……くれ……」





(―――――どうして泣くんだ)
(目の前の彼女は、泣きたくても泣けない娘なのに)
(本当に泣きたいのは、彼女の方なのに……―――――)





そんなディシスを、フィアルは静かに見つめていた。
こんな彼を見たかったのではない。ディシスはわかっていない。彼がフィアルにとってどれだけ大きな存在であるかを。
だって、ディシスはあの人を理解している、数少ない人間の一人だったから。
自分のことも、あの人のことも、何一つ特別扱いなどしなかった。そのことが自分達にとって、どれだけ嬉しいことだったのか、彼は知らないのだ。





「ねえ……知ってる?」
「……?」
「あの人はね……あの結末を望んでいたのよ」
「……フィーナ」
「……残酷な人でしょう?私も、そう思う」

顔を上げたディシスの頬に手を伸ばして、フィアルはその涙を優しく拭った。
自分の育てた娘は、こんなにも細い指をしていただろうか?そんなことにすら気付く暇がない程、彼女と過ごした時間は自分にとって、倖せな10年間だったのだろう。

「残酷な人……でも……優しい人だった」
「……ああ」





「―――――優しい、人だったの」





ディシスの頬にあてられていた手のひらが、ゆっくりとその胸まで滑り落ちた。それと同時に茶色だった髪が、風にほどけるように淡い白金へと変わってゆく。そのまま彼は腕を伸ばして、彼女を強く抱きしめた。フィアルは抵抗しなかった。そのまま静かにディシスの腕の中で目を閉じていた。

―――――間違っていた。

泣けない娘。
だからこそ、こうしてもっと早くに抱き締めてやるべきだった。
そうしなければ、彼女は一人、ずっとずっと自分を偽って笑い続ける。心が、壊れてしまう。

(「ノイディエンスタークに戻ってって……言ったら?」)

ディシスの抱えている罪悪感をわかっていたから、この2年の間、彼女は決して自分の元を訪れることはなかったのだろう。
けれどその時間は、フィアルの心を削った。

ディシスは目の前の柔らかで真っ直ぐな白金の髪を何度も撫でてやる。ふとその時、フィアルの後ろにいたネーヤと目が合った。ネーヤはいつもの無表情でディシス達を見つめていたが、何故かその瞳は穏やかだった。
この少年は人の気持ちに敏感だ。ディシスからは見えないが、きっと今フィアルは穏やかな顔をしているのだろう。
そんなネーヤに小さく微笑むと、ディシスは髪を撫でる手を止めないまま、そっと夜空を仰いだ。

(「―――――……ジークフリート様」)

主君の顔を思い浮かべて、ディシスは目を閉じる。すると先程のフィアルと同じ様に、さっとその髪が紅へと変わった。14年間決して戻すことのなかった、彼本来の炎の色だった。
その変化に気付いて、フィアルがゆっくりと顔を上げる。ディシスと目が合うと、彼女はとても穏やかに微笑んだ。
その顔を見られる人間はきっと、今は自分とネーヤ以外に存在しないのだと、ディシスは知っていた。


* * * * *


「……あのな、フィーナ」

しばらくそうしていた後、ディシスは腕の中からフィアルを解放した。そして思い出したかのように話を切り出す。

「何?」
「……ひよこ、ちょっとこっち来い」

ちょいちょいと手招きされて、ネーヤは素直にディシスの側に寄った。

「フィーナ、見ろ」
「……?何を?」
「ひよこの額だ。よく、見ろ」

フィアルは首を傾げながらも、ネーヤの下ろした前髪をそっとかきあげた。その綺麗な額には別段何も変化は感じられない。

「……何もないけど?」
「いいから、そのまま見とけ」

ディシスは真剣な表情を崩さない。フィアルは仕方なくネーヤの額に視線を戻した。

「私じゃあるまいし、ネーヤの額になんて……」

―――――そう言った、その時。

うっすらとネーヤの額に何かの印が浮かび始めた。
それはだんだんと濃くなってゆき、やがて金色の4枚の葉の形になった。





「―――――……嘘よ」





嘘だ。
そんなはずはない。この印をまた目にすることなどありえない。
―――――あってはいけない。





「……現実だ」
「そんなはずない……これは途中から浮かび上がるなんてことはないはずよ。生まれつきもって生まれてくるものよ?」

ネーヤの額に浮かんだ印は、フィアルの額にある祝福の印に酷似していた。
しかし、その印が祝福の印と違っていたのは、四枚の葉が全て逆を向いているということと、金色であるということだった。





―――――それは、【反目の印】と呼ばれるもの。
かつて神官勢力を率いていた青年の額に輝いていた印だった。





「それだけじゃねえんだ」
「……?」
「ひよこ、ちょっとお前、上だけ服脱いでみろ」

ディシスに言われて、ネーヤはじっとフィアルを見つめた。そんな少年に彼女が微笑み返すと、ネーヤはおとなしく服を脱ぎ始めた。いつも着ている真っ赤な皮のコートの下は、首の広く開いたノースリーブの黒いtシャツだ。ネーヤは昔フィアルが拾ってくる前まで首輪をされて檻に閉じ込められていたので、首がつまった服や、首にするアクセサリーがなにより嫌いなのである。

ネーヤが黒のtシャツを脱ぐと、その細身の身体には異様な紋様が浮かび上がっていた。
それを見たフィアルは一瞬言葉を失い、立ち尽くした。

「……これ……いつから?」
「一年前くらいから。額のコレも同じ」
「浮かんでない時もあるのよね?」
「……うん、でも最近は浮かんでる時の方が多いくらい」

淡々と答えるネーヤの、その白い肌に浮かび上がる、深い濃紺の紋様。それにフィアルは見覚えがあった。

「……なんだか、わかるか?」
「……これは……魔竜の時空召喚の、魔導環よ」
「……何!?」

どうしてこんなものが、ネーヤの身体に浮かび上がるのか。
どうしてあんな印が、ネーヤの額に浮かび上がるのか。
彼等が、もしもネーヤを利用しようとしていたのなら……―――――。

「―――――フィーナ?」

フィアルはネーヤを強く抱きしめる。すると途端にネーヤは表情を和らげた。
まるで生まれたての子供のような少年。彼女と出逢うまではひどい仕打ちを受けていたに違いないのに、それでもその魂は純粋なままだった。

「ディシス」
「……ああ」
「ネーヤを置いていくわけにいかない。一緒に連れて行くわ」
「……そうだな、その方がいい」
「―――――……私が、護るから」

そう言うと、ディシスは二人の頭を優しく撫でた。
お前がネーヤを、オレがお前を護るんだから、無敵だろ?と笑う。
それはいつものディシスの笑顔で、フィアルをとても安心させた。

―――――……もうすぐ始まるその全てを、だから貴方は見届けて。