Clover
- - - 第9章 過去を呼ぶ風3
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「お前結構いける口か?アゼル坊や」
「―――――ディシス様……俺はもう子供じゃありません……その呼び方は……」
「何言ってんだ、お前はいつまでたったって、ユーノスのところのガキんちょだ。少なくともオレにとってはな」

めったに使わない自分の執務室で、アゼルは久々に会ったディシスと酒を酌み交わしていた。ディシスはアゼルの父、ユーノスの従兄弟にあたる縁もあり、幼い頃はよく相手をしてもらったものだ。
その彼が……死んだと思っていた彼が、まさかあの姫君を連れて逃げたとは、さすがに驚いたが、久々の再会はやはり嬉しい。

「いい月だ」
「そうですね……」

頭上に輝く2つの月は細く尖って重なり合い、なんとも優しい光が辺りには降り注いでいる。アゼルの執務室の前には針葉樹が多く植わっているためか、冴え冴えとしたいい趣があった。

「あのじゃじゃ馬を制するのは大変だろう?神官長殿」
「―――――……ええ……もう……本当に」
「……お前ね、オレが少し冗談めかして言ってるのに、そんな思いっきり疲れきった顔で肯定するなよ」

ディシスの変わらない明け透けな笑顔に、アゼルも知らず微笑んだ。空になったグラスに柔らかなメテオヴィース領特産の赤い果実酒を注ぐ。

「ユーノスも……この酒好きだったな」
「……そう、なんですか?」
「ああ、よくジークフリート様とオレと……ファングの4人で飲んだもんだ。ユーノスは好きなくせに滅法弱くて、すぐ真っ赤になってなあ……髪も目も赤いのに顔まで赤いもんだから、みんなでからかって遊んだもんだ」
「……からかってって……父上はディシス様より随分と年上だったはずですが……」
「無礼講ってやつさ、あいつはそういうの、気にする性格じゃなかったろ?」
「確かに……そうですね」

アゼルの父である前神官長ユーノスは、よく言えばおおらか、悪く言えば人の目を気にしない性格だった。ずっと神殿にいてあまり家に帰ってこなかったが、優しく、強い、尊敬できる父親だったとアゼルは記憶している。おそらく息子である自分よりも、もっと多くの時間を共に過ごしてきたディシスが聞かせてくれる父親の話は、アゼルにとってはとても嬉しいものだった。

「あいつはな……ほんっとーにジークフリート様命!って奴だったからなあ。父親としてはあんまりよろしくなかっただろ?」
「母上は、結婚を申し込まれる時に言われたそうです。『自分にとっての一番は親友で、それは一生変わらない。だけど生涯女で一番なのはお前だけだ。それでもよければ結婚して欲しい』……と」
「―――――なんだそりゃ……イケてない告白だな」
「でも母上はその正直さに惹かれて結婚したんだと笑ってましたよ」
「……できた嫁さんを持って、あいつは幸せもんだったな」

グラスを揺らして、中の赤い液体が波立つのを楽し気に見ながら、ディシスは笑った。

―――――もう、いない。
―――――どこにもいないのだ、その人は。

まず事実があって、だからこそ二人はこうして向かい合っているのだから。
それでも時々、こうして亡き人に思いを馳せるのは、悪いことではないように思えた。

「……で?どうなんだよ」
「何がです?」
「お前はジークフリート様にとってのユーノスみたいな存在になれそうか?―――――ま、まあ相手があの穏やかなジークフリート様じゃない分、お前の方が苦労は多いだろうけどな」

ディシスの言葉は苦笑いを含んでいた。それもそうだろう。あの姫を育てたのは彼本人なのだから、少なからず影響がないとは言えない。だが、その言葉にアゼルが少し複雑な顔をしてみせた。

「どうした……?」
「……俺は……父上のようには……なれないと思います」

アゼルは持っていたグラスをテーブルの上に置くと、すっと空を仰いだ。月の光とは相反するような真紅の髪がさらりと揺れる。その色は間違いなく、ディシスの記憶の中のユーノスと同じ色だった。

「弱気だな、アゼル坊や」
「そうかもしれませんね……でも俺は、父上のようにはなれない。姫の本当の意味での支えには……きっと誰もなれない」
「……どうして、そう思う?」
「壁があるんです、絶対に越えられない壁が。ディシス様は感じたことがありませんか」

真剣に見つめてくる真紅の瞳に、ディシスもグラスを置いた。
今目の前にいる青年は、ユーノスの息子。決して……愚鈍ではない。

「フィーナは……あれは昔からああなんだ」
「……」
「何でも自分で背負い込んで、絶対に他人に頼らない。裏を返せば……あいつは誰も信用なんてしてないのさ。お前だけじゃない、オレもその中の一人だ」
「……ディシス様も?」
「ああ、オレもだ」

ずっと一緒に暮らしても、どんなに側にいても。フィアルが心の底から笑うのを、ディシスは一度も見たことがなかった。
14年前、二人でこの国を脱出した時から既にそうだったのだ。それまでのたった6年のフィアルの人生の中に何があったと言うのだろう。

「だから気にすんな……お前はお前のできる範囲であいつを支えてやってくれ。ユーノスもそうだったと思うぜ?」
「……できないんです……父上のようには」

アゼルは瞳を伏せて、自嘲的に笑った。その表情に含みを感じて、ディシスはアゼルの次の言葉を待った。この青年が今、心の中で必死に葛藤しているように思えたからだ。
―――――アゼルはしばらく無言だった。
夜の風は穏やかで、寒くもなく、暑くもなく、肌に心地いい。それはあの内乱が起こるまでのノイディエンスタークのそのものだった。あの穏やかな大神官がその力で支え、慈しんでいた大地の姿だ。フィアルは確実にこの大地を昔の姿そのままに甦らせたのだ。

「ディシス様」
「……ん?」
「俺は……やはり父上のようにはなれません」
「……何故だと……聞いてもいいのか?」
「俺が……男で、姫が……女だからです」

自分の言葉に目を見開くディシスを、アゼルは何故だか落ち着いた気持ちで見つめていた。
―――――もしかしたら。
本当はずっと誰かに、聞いて欲しかったのかもしれない。これから先ずっとずっと一人で抱えていくはずだった想いを。

「アゼル……お前……」
「わかってます。バカなことです、許されないことです……わかっているんです」

わかっていた。
もう少し再会するのが早かったのなら、状況は変わっていたのかもしれない。でもそんなことは考えても仕方のないことだ。だからアゼルはいつからか、過去を後悔することをやめた。消そうと思っても消えない想いなら、一生抱えて生きていくと、決めた。

「俺は姫を愛してます」
「……」
「だから父上のようにはなれない。俺にとって彼女は親友ではありえないからです」
「お前はそれでいいのか?」

ずっと、ずっと想いを押し殺して、彼女の側で生きていくこと。
―――――きっとそれでも、いいのだ。
それが自分に与えられた罰なのだ。大切な人を裏切った自分の罪の報い。

アゼルは答える代わりに、ディシスの視線を真正面から受け止めて、笑った。
その微笑の中に揺れる炎のような想いに、ディシスは痛ましい視線をむけるしかない。アゼルはもう決めているのだ。自分自身に枷をつけて、その想いが溢れ出さないように、固く固く心を縛り付けているのだ。

「何事にも遅すぎることなんてないって……昔は思ってたんだ、オレは」
「……」
「でも今はそう言いきれない。散った命は戻らねえし、起こってしまった事実も消えない」
「はい……―――――」
「時々思うんだ。そう言い切れてた頃の自分に戻れたらいいのに、ってな」

そんなことはもう不可能なのだと。
わかっているのだ、誰もが……イヤというほどに。

ディシスは苦笑しながら、右手でグラスを持ち、目の高さまで上げた。アゼルもそれに倣って、グラスを掲げる。音を立てて合わされるグラスの中で、赤い液体がポチャン、と小さくはねた。


* * * * *


「どこに行ったかと思えば……また飲んでるし」
「よぉ、フィーナ」

しばらくして、ワサワサを草を掻き分ける音がしたかと思うと、木の間からフィアルがネーヤを連れて現れた。最近酒量多すぎ!と眉根を寄せる娘に、ディシスはわざとグラスを掲げておどけてみせる。アゼルはそんな二人の様子を穏やかな顔で見守った。

「姫もどうですか?」
「……どうしたのアゼル」
「……俺が優しいのがそんなに珍しいですか?」
「いや……そういうわけじゃないんだけど……」

アゼルはフィアルの前にグラスを置くと、手にしたビンの中の果実酒を注いだ。次いでネーヤにも同じように酒を注いでやる。フィアルは納得がいかないような顔をしながらも、とりあえず目の前のグラスに手をつけた。

「あ、そうだ。アゼルに話があったのよ」
「俺に?」
「明日、執務はナシにして……」
「―――――認めません」

ピシャリと言い切られて、フィアルはむっとする。その横で何故かネーヤもむっとしている。

(おいおい……この反応面白すぎるぞ)

仕方ねえなと思いつつ、ディシスは手を伸ばしてネーヤの頭を撫でてやる。こうもくだらないことで他人に殺気を向けられてはたまらない。

「人の話は最後まで聞きなさいよ。明日執務はナシにして、ちょっと付き合ってもらいたいところがあるんだけど」
「……どこです?」
「―――――地下」

ニッコリ笑って告げる姫君に、アゼルは固まった。

「地下って……まさか」
「そう。あの封印した地下神殿」
「……どうしてですか。あそこは……」
「わかってる。でも風竜王と飛竜王から頼まれたのよ。眠ってるあの子の魂を解放してあげて欲しいって」
「あの子……?」
「サーシャって言えば、わかるわよね?」

―――――サーシャ。
前大神官の守護竜だった風竜の名前。

「風竜の……魂を解放する?」
「あの子は風だから……空気の通らない場所にいつまでも留まることは、死ぬより辛いことだからって」
「……」
「いいでしょう?」
「―――――……そういうことなら……わかりました」

納得した風なアゼルに、フィアルはほっと胸を撫で下ろす。あの場所は二人にとってはあまりにも因縁深い場所で、反対されるのを覚悟していたからだ。
そんな二人に、ディシスが低い声で問いかけた。

「なぁ……それ、オレも一緒に行ってもいいか?」
「ディシス様も……?俺はかまいませんけど」
「―――――ダメ」

肯定しようとしたアゼルの言葉を、フィアルは遮る。

「―――――ダメ。あそこに行くのは私とアゼルの二人だけよ」
「……姫?」
「今回は遠慮してディシス。ネーヤも……連れて行けない」

ビクッと身体を震わせて、ネーヤがその大きな瞳でフィアルを凝視する。フィアルがネーヤに甘いのはよく知っているディシスは、少しばかり驚いた顔をした。

「ごめん……でもあそこは特別だから」

地下神殿は、墓所なのだ。二人の父親が……死んだ場所。
そんなフィアルの様子を悟ったディシスは、仕方ねえなという風に笑って、頬杖をついた。

「―――――行って来い。ネーヤはその間、オレが見ててやるから。な?ネーヤ」
「……わかった」

ネーヤはとても人の感情に敏感で、絶対にフィアルの嫌がることをしない。着いていきたいと駄々をこねるようなことはないのが救いだった。

「じゃあ明日、とりあえずいつもの時間に執務室に行くから」
「わかりました。……花を、用意しておきます」
「……そうね、ありがとう」

あんまり飲みすぎるんじゃないわよ、とディシスに釘を指して、フィアルはヒラヒラと手を振って去っていく。その後ろをネーヤが追っていくのをぼんやりと見送った後、アゼルは目の前のディシスにまた向き直った。

「―――――墓参りか」
「……そうですね」
「ユーノスも、喜ぶだろう」





―――――喜ぶだろうか。

ああ、きっと喜んでくれる。
何故だか強く、アゼルはそう思った。