Clover
- - - 第9章 過去を呼ぶ風4
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「……しこたま飲んで満足した?」
「ああ、大満足だよ、おかげさまで」

少しだけ赤い頬を風で冷やしながら、ディシスはその花の中に寝転がった。ノイディエンスタークに戻ってきてから、館を持たないディシスとネーヤは、フィアルの口添えで、普段は誰も入ることを許されない奥神殿で寝泊りをしている。コンラートだけはどうも騎士団の寝所が肌に合うらしく、そこを寝床にしていた。

「アゼルと飲んでるとは思わなかった」
「ま、一番近い血縁だしな」
「ユーノスの思い出話でもしてたの?」
「ああ、何だか懐かしかった」

懐かしい、懐かしい、この場所。
闇に月の光を受けて輝くその花畑だけは、昔となんら変わらない。たくさんの思い出がここにはありすぎて、切なさに少しだけ目を細めた。

「―――――昔は、よくここで遊んだなぁ」

寝転がるディシスの隣に座る彼女は、寝る前だからなのか白い夜着一枚だ。髪も全部おろしているので、いつもとだいぶ印象が変わって見える。

「お前、そんなによく遊んでたっけか?」
「ディシスが知らないだけ。あの頃、ディシスは私の側にはいなかったもん」

―――――あの頃、オレが側にいたのは。
小さな痛みが胸に走る。しかしそんなディシスに気付いていないかのように、フィアルは言葉を続けた。

「ここは……箱庭だった、ずっと」
「箱庭……?」
「そう……私達を閉じ込める、檻」

この小さな神殿に訪れる者は限られていた。
当時、ディシスともめったに顔を合わせることはなかったので、フィアルの世界は父親とその親友、そして自分達を優しく見つめる風竜と、半身でもある神竜だけだった。
小さな小さな世界……けれどそれが全てだった世界。とても不自然で、だけど穏やかで優しかった世界。
―――――……一瞬で崩れ去った、箱庭。

「檻、か……」
「人は自分と違うものを受け入れることができないのよ。私は光の姫なんて言われていたけど、実際はみんな好奇心と畏怖を込めた視線しか感じたことはなかったわ」
「……全く……都合のいい話だな」
「―――――……でもね」





―――――私、ここが好きだわ。
―――――……今でも、ここが好きだわ。





月光の中でフィアルが微笑む。
それは、とても美しくて、儚くて……ディシスの胸を締め付けた。


* * * * *


封印されたその扉の向こうは、未だにどこか焦げ臭い空気が充満していた。
もう10年以上、封印してからは2年も経つというのに、その空気には火の精霊の力を感じる。真っ黒に焦げた石造りの柱、崩れた壁、捲れあがった床。かつての美しかったあの大神殿の痕跡はもう見る影もない。

「空気が……淀んでる」

ゆっくりと進みながら、時々天井を仰いでフィアルは呟いた。ここだけはまるで時間が止まっているかのように、全てが停滞している。アゼルも立ち止まる度に、何か言葉にできない気持ちが湧き上がるのを感じていた。

「……あの日……どれだけの人間が死んだんでしょうね、ここで」
「さあ……もう見当もつかないわ」

大神殿が燃え尽きた後、神官達はそれを再建することはせず、その隣の森を伐採して豪奢な新しい神殿を建造した。そこからこの焼け跡を見下ろして、勝利の美酒に酔ったのだ。だからこそ今フィアルが住まっている奥神殿が無事だったとも言える。
贅の限りを尽くしたその神殿は、2年前にフィアル達によって取り壊され、今は昔のままの森へと姿を変えていた。

「アゼルはあの日は……ここにいなかったのよね?」
「俺は館にいました。父が……すぐに脱出できるように準備をしてくれていたので……メテオヴィース領には実際すぐに敵が襲って来ましたからね。落ちのびる途中で、遠くに燃えるこの神殿を見ました。それで……わかったんです。……父が死んだことが」

周囲の人間が号泣する中、ただじっとその様子を見ていた。
忘れてはいけないと思った。その光景を、何があっても心に焼き付けておかなければいけないと思った。
―――――いつか来る……その日まで。

「私……ユーノスのこと、好きだったな……」

ポツリと、呟くような言葉。
そう言えばフィアルと、二人きりでこんな風にあの日のことを語ったことはなかった。何故だろう……話してはいけないような、そんな気がしていたのだ。二人にとって父親の話は、あまりにも優しく、そして辛い思い出だったから。

「アゼルにとって、ユーノスはどんな存在だった?」
「父は……そうですね……強くて、優しい人でした」
「……はぁ……随分違うもんね……」
「は?」
「私の中でのユーノスは、おちゃらけでおマヌケな楽天家だったけど?」

あまりといえばあまりな言い様に、アゼルは一瞬呆けたような顔をした。そんなアゼルにフィアルは微笑んで、また歩き出す。

「だって来る度に私のこと抱き上げては『よう!俺の可愛いちっちゃな姫さん』ってチューしまくってたし」
「父上が!?」
「あんまりしつこいから、私が嫌がって父様の後ろに隠れると、大げさにため息ついたりしてたわよ?一つのことに熱中すると周囲が見えない性格だったから、書類持ってはそこらじゅうの柱にゴンゴンぶつかってたし。父様は『仕方ないやつだなぁ』っていっつも苦笑いしてた」
「……随分と俺の記憶の中の父上と印象が違うんですけど……」
「実の息子の前ではかっこ悪い姿、見せてなかったんじゃないの?」

ガササッ。
思わず持っていた小さな花束を握りつぶしそうになって、アゼルは慌てて手の力を抜いた。その様子がおかしかったのか、フィアルはアゼルに背中を向けて、クック……と笑っている。

「それでもユーノスは、優しかったわ」
「……姫?」
「最後まで、父様を護ろうとしてくれた。本当に感謝してる」

ピタリとフィアルはそこで立ち止まった。そしてゆっくりと指で左側にある部屋を指し示す。その意味がわからず、立ち尽くすアゼルに、彼女は少しだけ淋しそうに答えた。





「―――――ここが、ユーノスが死んだ場所よ」





神殿の最深部へ続く控えの間だったはずのその場所は、今はもう見る影もない。他の部屋よりも一段と損傷が激しく見えるそこが父親の死んだ場所だと告げられて、アゼルは動揺した。

「……何故……知っているんです?」
「―――――見たから」
「……姫……あなたは」
「私は、ここで見てはいけないものを、見たから」

―――――フィアルは何故かまるで人形のような無表情だった。


* * * * *


(「―――――ごめん、中には入れない……私はここで待ってる」)

そう言って、フィアルはアゼルを促した。アゼルは不安になりながらも、一歩足を踏み入れる。部屋の中は暗く、アゼルは光球を作って部屋の天井中央へ飛ばした。

(―――――ひどいものだな)

何もない部屋。あるのは瓦礫の山ばかりだ。焦げ付いた壁と天井、そして柱。この場所で、一体どんな思いで父は死んでいったのだろう。
―――――……最後まで親友を護りたいと笑った人。
広い部屋の中を進み、一番奥の一段高くなったその場所に、アゼルは持っていた花束を置いた。

「父上……来ました」

答えがないとわかっていながら、アゼルは言わずにはいられなかった。
本当は、あなたのようになりたかった。
最期のその時まで、一番大事な人を護れる力を……心を、その覚悟を。もっともっと側で教えて欲しかった。

(「お前にもいつか、わかる時が来る」)

今ならわかる……あの時の父の想いが……痛いくらいに。

気がつくと、その真紅の瞳から暖かい雫が溢れ出していた。
後から後から、わけもなく零れる純粋な涙を、アゼルは拭おうとしなかった。
父のために涙を流すということを、今まで一度もしなかった自分に、この時までアゼルは気付かなかったのだ。

「……生きていて、欲しかった」

父の最期の覚悟を、とても尊いものだと思うけれど。
けれど、本当は……本当は……生きて……―――――。


* * * * *


(―――――しっかりしろ……)

アゼルが部屋に入った後、回廊で一人、フィアルは自分自身の身体を抱き締めていた。ガクガクと震える身体を、必死で押し留める。よろけてトン、と壁に背中がつくと、そのままズルズルと床へ座り込んだ。

(―――――思い出しちゃ、いけない)
(でも……忘れちゃいけない)
(―――――ユーノス……私を護って)

この場所は、ユーノスが死んだ場所。
そしてこの場所こそが、誰も知らない全ての始まりの場所。
―――――底知れない、憎しみの生まれた場所。

(「―――――ちっちゃな姫さん」)

目を閉じれば、聞こえるのに。
何度も何度も繰り返し、その声は聞こえるのに。
ジークフリートの横にいつもあった、明るい笑顔を、鮮やかに思い出せるのに。





「人間は……―――――」

とても、とても、好きだった。

「愚かで……―――――醜いもの……」

だから。

―――――あんな最期を……見たくはなかったのに。





自分の中に溢れる、その強い真っ黒な闇を、フィアルは必死で押し留める。きつく噛み締めた口唇から、じわりと血が滲んだ。