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- - - 第9章 過去を呼ぶ風5
[ 第9章 過去を呼ぶ風4 | CloverTop | 第10章 アイリオネ1 ]

自分の瞳が赤かったことを、これほど感謝したことはなかった。
元から赤いのだから、泣いたことをフィアルに悟られる心配はない。いや、彼女ならわかってもきっとそ知らぬふりをしてくれるだろうけれども、やはり男のプライドなのか、アゼルはそれを知られたくはなかった。

部屋を出ると、どこか先ほどより青白い顔のフィアルが笑って待っていた。その変化が少し気になったものの、先を促す彼女の後にアゼルは続いた。奥にある階段をゆっくりと下った先には、祈りの間がある。

「―――――やっぱり、一番損傷が激しいわね」
「大神官様が、炎を呼んだということは……この部屋が一番に燃え上がったでしょうし……」

フィアルの光球で照らされた室内は、目を背けたくなるほどの瓦礫と炭化した柱で覆い尽くされていた。その様子を見てもフィアルは特に動じてはいなかった。

「やっぱり一番空気が淀んでる。空気が通る場所が一つもないのね。これじゃ……サーシャは風に還れないはずだわ」

地下のしかも一番密閉された空間ではどうしようもない。しかも未だに炎の精霊が蠢いているらしく、燃え尽きた柱からうっすらと煙が上がっていた。

「―――――生きた炎……本当に召喚されたのですね」
「……そうね……」

命と引き換えに、生ける炎……最上位の精霊を召喚したジークフリート。その炎は明確な意思を持って、全てを焼き尽くした。
自分が炎の魔導を継承しているからだろうか、それがどれほど危険なことであったのかは、よくわかる。それでも彼はそれを呼んだ。おそらくは最初から、この神殿を死んだ者達の墓標にするつもりだったのかもしれない。

「……姫」
「……?」
「俺も……ジークフリート様のことは……好きでした」

いきなりの言葉に目を見開いたフィアルに、アゼルは柔らかく微笑んでみせる。

「穏やかで、優しい方でしたね。姫とは違って」
「……ちょっと」
「姫は……外見はジークフリート様によく似ていますし」
「外見は、が余計なのよ!まぁ……私、昔から母親似って言われたこと、一度もないもの。っていうか顔すら覚えてないし……私を産んですぐに死んだんだから覚えてたら自分を誉めたいところだけど」

フィアルは確かに父親似で、母親の面影はまるでない。アゼルにしてもフィアルの母親はほとんど記憶になかった。けれどジークフリートのことはよく覚えている。頭を撫でてくれた手の大きさや、風竜に乗せてくれたこともあった。

(「アゼル……フィアルと仲良くしてやってくれ」)

ジークフリートの周りはいつも、穏やかに時間が流れているような気がした。美しい大地を護るのにふさわしい、純粋な人だった。父が何故、家族よりも彼を護ろうとしたのか。それもジークフリートを見れば納得してしまいそうになるほどに。


* * * * *


(「―――――一緒に逃げることはできない」)

真紅の髪と瞳に、同じ色の正装を纏った父は、館の者に脱出の準備の指示を出すと確かにそう言った。

(「どうしてですか、父上!一緒に……!」)
(「俺はジークフリートの側を離れることはできない」)
(「家族よりも……大神官様が大事なんですか!」)

責めた。それこそ感情のままに父を責め続けた自分。辛かったのだ、彼を失う恐怖が全身を支配していたから。
けれどそんな父の言葉に、いつも穏やかだった母は黙って頷いた。

(「―――――決めたのですね?」)
(「ああ……決めた」)
(「わかりました……わたくしがこの子を護ります」)
(「母上!どうして……!」)

どうして母は、それを受け入れることができたのだろう―――――。おとなしくて、儚げな女性だったのに。
でも自分にはできなかった、納得ができなかった。必死で抵抗して、乱暴な言葉を何度も叫んで叩きつけた。今ならもっともっと他のことを話せたと思うのに……あの時はどうにもならない感情をただもてあましていた―――――幼かったのだ。
そんな自分に、父は少しだけ悲しそうに笑った。

(「お前にもいつか……必ずわかる時が来る」)
(「お前は絶対に、巫女姫を護るんだ……それがきっとお前を生かすことになるから」)

強く……抱き締められた。右の腕で妻を、左で息子を、彼は抱いた。

(「―――――――――――すまない」)

小さな呟き―――――。
彼はそのままバサリとマントを翻すと、振り返ることなく部屋を後にした。
―――――凛とした後姿。誇り高い、真っ直ぐなそれが、アゼルの覚えている父の最期の姿だった。


* * * * *


「今なら……少しだけわかるような気がするんです。父が……ジークフリート様を護ろうとした気持ちが」
「……へえ、意外」
「……なんです、その含みのある言い方は」
「だってアゼルって普段は私に対して説教大魔王じゃないの。命をかけて護るような姿勢は見えないわよ?」
「―――――説教されるようなことをする方が悪いんです!」

いつもの調子で怒鳴るアゼルに、フィアルは笑顔になる。ここは二人にとってはあまりにも重過ぎる場所で……意図せずに、どんどん感情が過去へと向かってしまうのだ。決して忘れてはいけないことだけれど……10年以上前の傷を掘り起こしてばかりいることは建設的ではない。
二人はいつものように言い合いながら、その部屋の奥へと進んだ。
その場所は祈りの場所であり、大神官しか入ることのできなかった聖域のはずだった。今は真っ黒に焦げた石造りの柱がただそびえ立っているだけである。
そしてこの場所こそが、大神官ジークフリートがその命を散らした場所でもあった。

「……姫……俺は少し……はずしましょうか?」
「なんで?」
「いえ……ジークフリート様と話したいことがあるかと」
「―――――あのね、今回はそっちの目的で来たんじゃないでしょ。墓参りはあくまでも二次的なもんなの。話したいなら日を改めて来るわよ」

そう言ってフィアルはズンズンと進み、祭壇らしきものの上に持っていた花を置いた。

「―――――父様、またね」

小さく笑う。きっとそれだけであの優しい人はわかってくれるだろう。





(「―――――生きてくれ」)



―――――うん、生きてる……心は死んでしまったけれど。
―――――私達は貴方を……これ以上ないくらいに裏切ってしまったけれど。



(「―――――生きてくれ」)



―――――……二人とも、同じことを言うのね。





「―――――姫?」
「……アゼル、こっち」

祭壇のさらに奥には、少し広い平坦な大理石の広間がある。そこは代々、大神官となるべき者と共に生まれた守護竜が鎮座する場所だった。昔はそこに美しい淡い水色がかった銀色の鱗を持った、風竜の娘がいた。
サリヤメナムという名の、ジークフリートの守護竜。

―――――その竜座の中央に、それは静かに浮かんでいた。

「……あれは……―――――」
「……竜珠―――――だわ」
「竜珠?」
「……寿命を迎える前に死んだ竜の身に宿った四大元素の力が結晶化したものよ。その力の発動は、通常は死んだ竜の意思に左右されるって聞いているけど……」

その竜珠からは大きな風の魔導の気配が感じられる。それこそが間違いなくサーシャの残した遺産なのだろう。

「アゼル、悪いけど広間の扉、開けてきてくれる?」
「―――――風の流れを作るんですね?」
「そう。最初の封印の扉は開け放して来たけど、この部屋だけはさっき自動的に閉まったから」
「わかりました」

真紅のマントを翻してアゼルが入り口へと向かうのを見届けると、フィアルはもう一度その竜珠に視線を移した。
その珠の色は彼女の鱗の色と同じで、淡い優しい光を放っている。
サーシャが死んでから、14年。その間ずっとこの竜珠はここで―――――この淀んだ空気の中で待っていたのだろうか。いつか自分を解放してくれる者がこの場所に訪れるのを、ただ待っていたのだろうか。
14年間、変化のまるでないこの場所の空気は、どれだけ辛かっただろう。流れる清浄な空気を命の糧とする風竜にとって、それ以上の苦痛はなかっただろうに。





「―――――ごめんね」

知らず、言葉が零れた。

「―――――ごめん……ね」

―――――けれど。

「最期まで……護ってくれて、ありがとう」

―――――大好きだったわ。





戻ってきたアゼルはその様子を少し離れた場所から見守っていた。
フィアルの竜に対する愛情はとても深い。そのことはアゼルもよく知っていたはずだった。けれど―――――こんなにまで切ない感謝の言葉を聞いたのは、初めてだった。

(俺は……―――――)

胸の奥に、とめどなく広がっていく、熱い想い。
フィアルに初めて逢ったその日に芽生えたこの想いは、今では大きな熱を伴って、アゼルを苦しめる。けれど決して不快ではない、甘美で甘い想いの名を、彼は知っていた。

(―――――ずっと……貴女を……)

瞬間、目を閉じる。それは決して表に出してはいけない想いだから。

「―――――姫。開けましたよ」
「そう―――――ありがとう」

振り返る彼女も、自分もそ知らぬいつもの顔を作って。
一体いつから、こうして心を殺すことを覚えてしまったのだろう。そんな風に思いながら、アゼルは小さく笑った。


* * * * *


フィアルはゆっくりとその竜珠に近づく。
その度に、それを牽制するかのように竜珠の周りに風の防御壁が現れた。しかしサーシャの意思を受けたその竜珠は、決して彼女を傷つけることはなかった。
白い手が、柔らかく伸ばされる。空中に浮かぶその珠は鮮やかな輝きを増して、アゼルは目を細めた。

―――――願わくば。

かの竜の娘の魂が、このノイディエンスタークの風に還れるように。
そんな想いを込めて、アゼルはその光景をしっかりと見続けていた。

「サーシャ……―――――」

もういいの。

「貴女は、風に還って―――――」

何の装飾品もつけていないその指が、竜珠に触れた瞬間―――――。





―――――ゴオオオオオオッ!





突然、ものすごい勢いで吹き荒れた風が天井へ向かう。
フィアルとアゼルは咄嗟に身構えたが、それは二人には何の害も及ぼさず、ただ天へ向かって吹き荒れていた。
しばらくすると風は二つに割れ、その内の一つが、勢いをつけて扉へと向かう。淀んだ空気を全て巻き込んで、真っ直ぐに大気へ還ろうとしていることをフィアルは悟った。
しかし残ったもう一つの風の流れは、緩やかにその場所で旋回を始める。竜珠を取り囲むように……その輝きを反射し始める。

「―――――姫!あれは……!?」

やがて風は、一つの映像を映し出し始めた。そこには今より少しだけ幼い顔立ちの、見知った青年がいた。

「―――――レイン……?」

フィアルの口から呆然とした呟きが漏れた。


* * * * *


「―――――レイン様!」
「―――――ッ……!」

神殿から吹き出したもう一つの風が、中庭にいたレインの全身を絡め取ったのは、その直後のことだった。

(なんだっ……!これは!)

絡み付くように離れない、強いその空気の束縛に、レインはなす術がない。拘束され、必死で身を捩ってもびくともしない。周りでイオ達が何かを言っている気がしたが、どんどん遠くなるばかりで、レインは口唇を噛んだ。
まるで巻き込むような動きを見せるその風の向こうに、レインがそれを見たのは、偶然ではなかった。

(―――――あれは……)

風の向こうに見える、それ。決して忘れることはない……その花。
―――――その色は……流れる血の色。

(―――――や……めろ……―――――!)

引きずり出される――――――。
強い得体の知れないその力に、心が悲鳴をあげた。





(―――――思い出したく、ない……!)
(―――――見たくない……!考えたくない……ッ!)





それはレインが5年間、目を背けつづけてきた、残酷な現実だった。

一つところに留まることを許さない、大気の流れ。
―――――――――――それが、風というもの。