Clover
- - - 第10章 アイリオネ1
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思い出したくない、考えたくはない。
だから目を閉じて、耳を塞いで、その事実に背を向けた。
出逢ったことが間違いだったと知ったから。

―――――それは……5年前のあの日……君を彩った鮮やかな赤。


* * * * *


「レイン様!」
「……どうした?イオ」

慌てた様子で駆け寄ってくる側近の青年に、離宮の裏手にある噴水の近くの木陰に座っていたレインは、特に表情を動かすこともなく答えた。別に不機嫌なわけではなく、彼にとってはそれは普通のことである。生まれ持った性格からか、感情を表すことは、彼にとっては大の苦手分野だった。

「今……伝令が来まして……ッ」
「……?」
「皇太子殿下が午後にこちらに参られると……!」
「兄上が?」

皇太子であるセイルファウスは、レインと同腹の長兄だ。
無口で、無愛想でもあり、ましてやラドリアにあってはならない色を持って生まれたレインを特別扱いせず、大切な弟として気さくに接してくれる。凛としているのに、優しい気性の兄を、レインはとても慕っていた。

「いきなり来られるとは……珍しいな」
「王宮で何かあったのでしょうか?」
「―――――王宮で何かない日なんて、あるのか?」
「……いえ……ないでしょうけれど―――――」

レインの鋭い指摘にイオは言い淀んだ。だからこそレインは王宮ではなく、この離宮で暮らしているのだとよくわかっていたからだ。腕で勢いをつけて軽々と立ち上がると、レインはそのまま自室へと向かう。セイルファウス一人なら問題はないが、彼は皇太子、本人が望まなくても護衛の人数は多い。その中にはレインを好ましく思わないものもいるのだ。セイルファウスに少しでも負担をかけるようなことをしたくないというのが、レインの本音だった。
イオが何も言わずについてくるのを、背中で感じる。いつもたいして代わり映えのしない黒い服を着てはいるが、そのままでいるわけにもいかない。上着を着替えた後、外出する時しかつけていないマントを羽織り、レインは兄が到着するのを待った。


* * * * *


「―――――レイルアース」

離宮に到着したセイルファウスは、出迎えたレインに気さくに近づいてきた。ラドリアの民らしい長い茶色の髪を、邪魔だからという理由でゆるく一つに編んである。皇太子なのだから下ろして、高い位置で結い上げるべきだという侍女達の言葉を、さらっと無視しているのがこの兄らしく、親しみを感じた。

「元気そうだな」
「……兄上も」
「はは、なんとか生きている」

冗談なのか本音なのかわからないことを言いながら、セイルファウスは弟の肩をポンポンと叩いた。ここ数年で突然背の伸びたレインは、もうさほどセイルファウスと変わらない身長になっていた。

「イオも、息災か」
「はっ」
「そうかしこまるな。お前だって私にとっては幼馴染のようなものなんだぞ?」
「……いえ……それは」
「まぁその固いところもお前らしくはあるがな」

静かに沈んでいた離宮に、急に光が灯ったように感じる。それだけセイルファウスには圧倒的な存在感があった。だからこそ数多くいる腹違いの兄弟から狙われているとも言えるのだが。
セイルファウスはレインと肩を並べながら離宮の中に入る。周りの側近が慌てたようなそぶりを見せて、後を追おうとするのを、セイルファウスは手を軽く上げることで止めた。

「お前達は控えの間で待っていろ」
「―――――殿下!危険です!」
「心配するな―――――私の弟以上に最高の護衛は存在しないさ」

その言葉に、側近達は反論できなかった。レインは弱冠18歳でありながら、ラドリアでは一番と言われるほどの剣の使い手だ。例えその容姿から複雑な立場ではあっても、セイルファウスとは同腹の兄弟でもある。

「行こう、レイルアース。久々にお前の話でも聞かせてくれ」
「……兄上……」
「どうした……?」
「いえ……何でもありません」

セイルファウスだけは、自分を異端とは見ない。父や母でさえ自分に近づくことには躊躇するというのに。レインにとってこの兄の存在は唯一の救いだった。笑って先を促すセイルファウスに、レインは小さく微笑んで歩き出した。


* * * * *


「王宮は相変わらずだぞ。なかなかにスリリングだ」
「……兄上、笑って言える話ではありませんよ」
「この間は寝室に毒虫が入ってきたし、その前は窓の外から毒矢で狙い撃ちだ。いい加減慣れもするさ」

イオが入れたお茶をなんのためらいもなく口に運んで、セイルファウスはかなり怖い内容をさらっと口にした。いつもは王宮で気を張っているからだろうか、この離宮に来るとセイルファウスは普通以上にくつろいでいるように見える。それだけ自分を信用してくれている気がして、レインは不謹慎だと思いながらも嬉しかった。

「首謀者はわかったのですか?」
「疑わしいのがたくさんい過ぎて、どうにもならんよ。鍛えられたからな……私は目の前に剣を突きつけられても、お茶を飲む余裕を見せるくらいの度胸はついた」

本当は、彼が言うほど軽いことではないのだろうが、セイルファウスが努めて明るく振舞おうとしていることをレインは知っていた。普通なら、人間不信や疑心暗鬼になってもおかしくない状況である。しかしそれに屈しないその強い心もレインにとっては尊敬に値する対象だった。

「それよりお前はどうだ?変わりないか?」
「……俺はいつもと変わりません。最近は父上の熱も冷めているようで、出撃の話もありませんし」
「父上はこの間迎えた・・・何番目かは忘れたが、側室のヴァルクレーヌ伯爵令嬢と一日中部屋に篭っているらしいからな。まぁ飽きればまたお前も戦わなければいけないだろうが……」

少しだけセイルファウスは暗い顔をした。自分が出撃する時はいつも、この兄の顔が曇るのをレインは知っている。
―――――優しい……人なのだ。

「―――――無意味だな、何もかもが」
「無意味……?」
「父上のなさることは全てが無意味だ。昔は……国民に慕われる名君だったものを……」
「兄上……」
「あの方がいなければ私やお前が生まれていなかったというのも皮肉なものだな。両親があそこまで堕落しているのに、とりあえず同腹の兄弟がまともだったというのが唯一の救いと言ったところか?」

おどけて見せるセイルファウスに、レインは苦笑するしかない。正妃である母から生まれた4人の子は、兄弟の中でもまともな人格の持ち主であることも確かなのだ。
レインは手を伸ばしてテーブルの上のお茶を一口飲んで、口腔の渇きを潤した。カップを置くと、カシャンと小さな音が立つ。

「ユリアティウス兄上の容態はいかがです?」
「一進一退だな。王宮にいたらあっという間に殺されていただろうが、今は国境近くの離宮にいるからな。空気も綺麗だし、前よりはいいようだ……ああ、アンティエーヌも一緒に行ったらしい」
「アンティエーヌがですか?」
「王宮はさすがに居心地が悪かったということだろう。結局残ったのは私だけだな」

病弱な次兄や妹の様子を話した後、セイルファウスはどこか乾いた笑いを漏らした。彼も自分の離宮を与えられてはいるが、さすがに皇太子という立場上、王宮にいないわけにはいかない。しかしそれは狙われる確率を大きくすることでもあった。
心配するように眉根を寄せた弟の肩をもう一度軽く叩くと、セイルファウスは思い出したかのように、手に持っていたカップを置いた。

「―――――ああ、そう言えば今日はお前に頼みがあって来たんだった。久しぶりに会ったものだからすっかり忘れていた」
「頼み、ですか?」
「そうだ……実は一人、この離宮で人を預かって欲しくてな」

意外な申し出だったので、レインは思わず傍らにいたイオと顔を見合わせた。

「母上に縁の男爵家の娘なのだが……行儀見習にと言われてな。しかしいくらなんでもあの王宮で預かるわけにはいかんだろう?」
「……娘、ですか」
「母上が勝手に受けてしまったのだよ。本人は何もせずにそ知らぬ顔で押し付けられた」
「セイルファウス様……人が良すぎますよ」
「そういうな、イオ。もう来てしまっているのだ、帰すわけにもいくまい?」

バツが悪そうなセイルファウスにイオが大げさに肩を竦めて答えた。普通なら無礼にあたるその行為だが、この長兄にそういう感覚はまるでないらしい。彼はイオに、控えの間に護衛の者と一緒に待っているはずのその娘を、呼んでくるように頼んだ。
イオが頷いて出て行くと、セイルファウスはレインへと視線を戻す。

「―――――すまないな……厄介事を押し付けるようで」
「いえ……行儀見習というなら、フェレ女官長に頼むだけですから……俺はあまり直接接することもないでしょう」
「ああ、それでかまわん。お前は今まで通りに過ごしてくれればいい」
「わかりました」

レインが首を縦に振るのを見て、セイルファウスは安心したように息をつく。そして彼は柔らかく目を細めた。

「本当はな……その娘を口実に、お前に会いたかったのだよ」
「……兄上……?」
「私があの王宮を出るのには理由が必要だ。今回のことはいい理由だった。王宮にずっと居ると……どうにも心が荒んでな。やはり気の置けない人間とゆっくりしたいと思ってしまう。……弱いな、私は」

この人は強い人だ。
でも、人は……ずっとずっと強くあることなどできないのだ。たった一人で、永遠に戦い続けることはできない。
レインはこの兄を助けたかった。この人がいなければ、自分はきっとここで生きてはいなかっただろうから。

「それでもな……レイルアース」

セイルファウスは遠くを見る。どこか遠く、未来を見ている。

「私は……護りたいんだ」

その瞳の先を、一緒に見たいと思った―――――。


* * * * *


しばらくすると小さなノックの音がして、イオが戻ってきたことを二人に知らせた。

「お連れしましたが……」
「ああ、おいで」

長身のイオに隠れるようになっていたその娘は、呼ばれてゆっくりとセイルファウスの隣に立った。
茶色の髪は下の部分だけ控えめな内巻きになっていて、着ているドレスもそう豪奢ではないシンプルなものだ。見た目はとても平凡であるのに、何故かその大きな瞳だけが印象的な娘だった。

「レイルアース、彼女がレパラータ男爵の娘で……リルフォーネという」
「はじめまして」

人懐っこい顔で笑われても、レインはどう返したらよいのかわからない。とりあえずそのままの仏頂面のまま、こくりと頷いてみたが、彼女は気を悪くした様子もなく微笑んだままだった。

「彼女も18歳でお前とは同じ歳だ……頼んだぞ?」
「―――――はい……兄上」

この長兄の言うことをレインが受け入れないわけもない。ちょうどその時、お茶のおかわりを持ってきたフェレ女官長がノックと共に部屋に入ってきた。ちょうどよかった、とセイルファウスは初老の女官長に、いきさつを説明する。

「ではこのご令嬢をお預かりすればよろしいのですね?」
「ああ、頼むぞ」
「おまかせくださいませ、殿下。立派な淑女にしてごらんにいれます!」

いつになくやる気の女官長を見て、レインとイオはこの令嬢の未来に心の中で合掌した。ただでさえ作法にはうるさいこの女官長にしごかれるのだ……大変な努力を強いられることは一目瞭然だった。それを薄々感じ取ったのか、彼女の顔も微妙に引きつっている。

(別に……特に関わることもないだろうしな)

この時、レインは彼女のことをまだ、他人行儀な気持ちでしか考えてはいなかった。