Clover
- - - 第10章 アイリオネ2
[ 第10章 アイリオネ1 | CloverTop | 第10章 アイリオネ3 ]

離宮のその木の下は、レインの気に入りの場所だった。
小さな噴水は緩やかに水を運び、飛沫が顔にかかるようなことはめったにない。ラドリアは大陸の南に位置していることもあってか陽射しは強いが、それをいい具合にこの木が遮り、ちらちらと優しく降り注ぐのも、レインがこの場所が好きな理由の一つだった。

セイルファウスが突然やってきてから2ヶ月が過ぎている。

その間に若芽だった葉は青々と茂り、ラドリアの民が愛してやまない太陽の眩しい季節へと移り変わっていた。
しかしレインの生活にさほどの変化はなかった。父王は未だどこぞの伯爵令嬢と怠惰な生活を送っているらしく、しばらくは領土拡大のための戦争には興味を引かれることはないだろう。
剣の稽古や、王子としての学問以外の時間を、レインは自室よりもこの場所で過ごすことが多い。いつものように何冊かの本を持ってその木陰に寝転がる。読む物は戦術書であったり、歴史書が多く、物語などには特に興味を引かれなかった。

見上げる葉の間から漏れる光に、少しだけ目を細める。この一冊を読み終えたら、今日は近くの丘まで遠乗りに行くのもいいかもしれないとぼんやり考えていた時、いつもとは違う何かが視界に入った気がして、レインは眉間に皺を寄せた。

―――――太陽の光の反射ではない、白い何か。

(―――――……足?)

自分の頭上の枝から、確かに白くて細い足が見えている。思わず立ち上がりよくよく見てみれば、誰かがその枝と幹を繋ぐ場所に、微妙なバランスで寄りかかっているのがわかった。

(―――――刺客か?)

自分がこの場所を気に入っているのは周知の事実だ。現にイオもレインを捜す時は、部屋よりも先にここへ来るくらいなのだから。刺客が潜んでいたとしてもおかしくない。―――――おかしくはないのだが。

……全く殺気を感じさせない刺客というのも、珍しい。
と言うよりも。
健やかな寝息まで聞こえてくるのは何故だろう―――――?

思わず手をかけていた剣からそれを離し、レインは手近な枝に足をかけ、器用にその木を登り始めた。長身なのにしなやかなその動作はまるで美しい獣を思い起こさせる。

―――――……そしてしばらく登ったその先に、それはいた。

淡い緑のドレスに身を包み、幹に寄りかかって安らかな寝息を立てている。規則的に上下する胸が、彼女が熟睡していることを肯定している。頬にかかる茶色の髪はゆるく内巻きになっていて、風が吹く度にサラリと揺れていた。

(なんだって、こんなところで寝てるんだ……?)

―――――そもそも。
このリルフォーネという名の娘は、行儀見習いに来ていたのではなかっただろうか。セイルファウスに紹介されてからこの2ヶ月、確かに一度も顔を合わせたことはなかったが……その成果がこれだというのなら、フェレ女官長も無駄な努力をしたというものだ。
多少の呆れを込めてレインが呆然とその姿を見つめていると、そのまぶたが揺れて、ゆっくりと彼女の瞳が開いた。

「……ん……」

まだ半分意識が覚醒していないようだ。ぼんやりとレインの姿を視界に収めた後、きょろきょろと辺りを見回して、もう一度レインをじっと見る。

「……あれ?」
「……あれ、じゃないだろう」

低いレインの声に、一気にリルフォーネの意識が覚醒した。

「えっ―――――!レ、レイルアース王子様!?わ、わたし……ッ!?」
「バカッ!動くな!」

ぐらりと重心を崩したリルフォーネを、とっさに腕を伸ばしてレインは支えた。そうしなければ彼女は地面に叩き付けられていただろう。無関心だったとはいえ、仮にも長兄から預かっている娘に怪我はさせられない。

「す、すみません……!」
「木の上でいきなり暴れる奴があるか。というかお前なんでこんなところに……」

支えている体は思うよりずっと細かった。しかも2ヶ月前に一度会ったきりの王子がいきなり目の前に現れたことで彼女は萎縮してしまっているらしく、シュンと小さくなってしまっている。
離宮の女官達からも愛想がなくてとっつきにくいと言われている自分だ。彼女の反応も当たり前なのだろう。
レインはそのまま、彼女を抱えてゆっくりと木から降りる。地面に下ろしてやるとリルフォーネは、ほっとしたような顔をしてみせた。

「あの……ありがとうございました」
「いや……だがもう登るのはやめておけ。女官長に見つかったら怒られるだけだ」
「えっと……実はもう怒られてまして……ここには入っちゃいけないって言われていたんですけど……逆にここだったら見つからないかなぁと……」
「……」

―――――どうやら、見かけによらずかなりのお転婆のようだ。
バツが悪そうなリルフォーネに、レインは呆れたように溜息をつくと、いつもの場所に座り直した。リルフォーネは、どうしたものかと戸惑っていたが、とりあえずレインの隣に腰を下ろした。

「ここに入っちゃいけなかったのは、レイルアース王子様がいらっしゃったからなんでしょうか?」
「……そうだろう……ここが俺の気に入りの場所だと女官長は知っているからな」
「ああ!でもわかります。だってここ、とっても気持ちがいいですもんね!特に木の上だと風が吹いて本当に……!」
「……登るな」
「……す、すみません……」

楽し気に話し出したリルフォーネを低い声で一喝すると、彼女は慌てたように口を噤んだ。その様子をまるで小動物のようだとぼんやりレインは思ったが、一回だけ横に首を振ると、相変わらずの無表情で彼女に向き直った。

「いいか……もうここへは来るな」
「え……?」
「ここに俺がいることは離宮の中の誰もが知っている。つまりこの場所は……一番王宮からの刺客が忍んでいる可能性の高い場所だということだ。だから、もう絶対にここへは来るな」
「……そんな……」
「そういう国なんだ……今のラドリアは」

間違っていると思う。正しいとは決して思えない。
―――――けれど……それでも誰もそれを止めることが出来ない。自分も……あの兄ですら、できないのだ。

「そんなの、変です」

気が付くと、リルフォーネが納得できないといった顔でレインを見上げていた。大きくて真っ直ぐな瞳。平凡な娘なのにその瞳だけが異質に感じる。

「絶対、変です」

彼女はレインから目をそらさずに繰り返した。
誰もが口にしなかったその事実を、怯むことなく口にする。そんな人間に、逢ったのは初めてだ。
―――――彼女はおそらく、知らない。
あの王宮の惨状も、この国が今どんなに危うい状態であるのかも。知らないということはある意味では最強だ。真実を口にすることも、恐ろしくはないのだろう。

その真っ直ぐ過ぎる視線を受け止めたレインの胸に、何故か不快感が湧き上がった。

「……口にするな」
「え?」
「それ以上……口にするな。お前は何も知らないからそう言えるだけのことだ。それ以上何かを口にすれば、お前は消される」

レインは冷たい瞳で、目の前の世間知らずな娘を一瞥した。
その視線に晒されたリルフォーネが、一瞬ビクッと身体を震わせる。戦場では死神とまで呼ばれる自分に睨まれて、恐怖を感じないはずもない。

「―――――行け……二度とここに来るな」

リルフォーネは小さく震えながら、レインをもう一度見上げた。そしてその瞳に静かな怒りを認めて、俯く。それでも動こうとしない彼女に、ますます気持ちが冷めていくのがわかった。
苛々する……無性に胸がざわつく。

「―――――レイン様?」

ひどく緊張したその空気を、柔らかなものに戻す声は、突然聞こえた。

「どうされましたか……?」
「イオ……」
「貴女は……どうしてここに?女官長からここには入らないよう、伝えてもらったはずですが」
「……あ……す、すみません」

その答えにイオは大体の事情を悟ったらしい。困ったように小さく笑いながら、尖った気配を纏ったままのレインへ視線を移した。

「レイン様、そこまで脅さなくてもよろしいでしょう?」
「……脅してなどいない」
「貴女も、だめと言われた場所に入ってはいけません。ここは貴女の暮らしていた館ではないのです。離宮とは言え、王家の所有する宮殿なのですよ?貴女の領地がどうだったかは知りませんが、ここは安全と言える場所ではありません」
「……はい……」

ますます俯いてしまったリルフォーネを、イオは軽く促した。

「レイン様……私は彼女を送ってきますので……」
「ああ……」
「すぐに戻ってきますから、馬場でお待ちください」

―――――流石というかなんというか。
レインが遠乗りに行きたいと思っていたことを、イオは察していたらしい。ここに来たのも、そのためだったのだろう。その気遣いが嬉しくて、レインはその纏っていた空気を少しだけ和らげた。表情は変わらなかったが、それはいつものことなので、イオは気にした様子もなく、笑いながら頷いた。

遠くなる二人の後姿をしばらく見送って、レインは本を抱えて立ち上がった。


* * * * *


「あの……イオ……様?」
「……?」
「わたし……レイルアース王子様を……怒らせてしまって……」

部屋へ戻りながら、ポツリと話し出したリルフォーネに、イオは困ったように笑った。イオにはもう慣れたことだが、初めてあの怒りをぶつけられた人間は、怯むというより、恐怖を感じるだろう。レインの怒りは解りやすいものではなく、どこまでも冷たいものであるから。

(―――――冷静に見えて……何気に怒りっぽいからな……レイン様も)

普段はあまりそんなことは無いのだが、自分でも苛立っているようなことを人に指摘されたりすると、レインは直ぐに怒る傾向があった。おそらく彼女も無意識にそこをついてしまったのだろう。

「気にすることはありません。しいて言うならあまりあの方には近づかないことですね」
「……でも」
「レイルアース様は、あまり人と接するのが得意ではないのです。そして少し……難しい立場でもありますから」

ラドリアの中でのレインの立場は確かに微妙だった。生まれ持った色のせいで、王の子ではないのではないかと、常に疑われていた。その剣の腕と、優れた軍事的才能、そして皇太子であるセイルファウスがレインを擁護してくれているお陰で、今まで排斥されなかったようなものだ。父王や王妃ですら、レインとは顔を合わせるのを嫌がっている程なのだから。

「でも……わたし……近づかないなんて、嫌です」
「……え?」
「そんなのは淋しいし、悲しいです。わたし……考えが足りなくて、初めてお話できたのが嬉しくて……何も考えずにお話してしまって、レイルアース王子様を怒らせてしまいましたけど……でもだからって、それで終わりになんてしたくありません」

俯いていたリルフォーネが、すっと顔を上げた。その大きな真っ直ぐな瞳には、曇りがまるでない。
その瞳が、おそらくレインを苛立たせた原因なのだろうと、イオは思い当たった。

(―――――不思議な娘だな……)

あの怒りを受けて、もう二度とレインに近づかない人間は大勢いたが、それでも怯まない人間はそうはいない。しかも若い貴族の娘なら尚更だ。イオは珍しいものを見るかのように、まじまじとリルフォーネを見つめた。

「諦めてしまったらダメなんです……そこで終わってしまうから。終わらせたくないなら頑張るしかないんだって、わたし、知ってるんです」
「……リルフォーネ嬢?」
「わたし、頑張りますね」

そう言って微笑む彼女に、イオは驚きを隠せずに、ただただ目を見張るしかなかった。