Clover
- - - 第10章 アイリオネ4
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「レイルアース……?お前、どうしたんだ?」
「―――――兄上、聞きたいことがあります」

普段は王宮で暮らしていない弟が、いきなり先触れもなく目の前に現れたことで、書類に目を通していたセイルファウスは驚きを隠せなかった。すばやくその背後にいるイオへ視線を向けると、困ったような顔で首を横に振る。イオにも本当のところはわかっていないということだと、この聡明な皇太子は直ぐに理解した。

「……とにかく座れ。落ち着かなければ話もできないだろう」
「―――――いえ」
「私が落ち着かないんだ。とりあえず、座れ……レイルアース」

促されてレインはしぶしぶ彼の目の前にある椅子へと腰を下ろした。セイルファウスは書類を置くと、レインの前にあるソファーに、優雅な動作で身を沈めた。イオはレイルアースの背後にある壁際に背筋を伸ばして立っている。
それぞれが落ち着いたところで、セイルファウスが苦笑しながら話し出した。

「……どうしたんだ。お前がそんなに感情を露にするのは珍しいな」
「兄上……兄上は何故あの娘を、俺のいる離宮へお預けになりましたか」
「娘……?リルフォーネのことか?」
「そうです。何故、あの娘を俺のところに?」

セイルファウスにしても寝耳に水の話だったらしい。目を丸くして弟を見返すが、レインの瞳は真剣なままだった。

「私は母上から頼まれたと言わなかったか?」
「……本当に、それだけですか」
「―――――どういうことだ?」

レインは敬愛する長兄の顔をじっと見つめる。セイルファウスはその鋭い視線にも臆することはなかった。この弟の信頼を得るためにはどうしたらよいのか、無意識のうちにこの青年は知っていた。

―――――しばらくの間、兄と弟は無言で見つめあう。

先に視線を逸らしたのは、レインだった。

「……わかりました……申し訳ありません」
「……レイルアース、何があった?あの娘が何かしたのか?」

兄が本当に何も知らずにリルフォーネを預けたと悟ったレインは、少しだけ表情を和らげた。そんな弟に、固くした表情を崩さないまま、セイルファウスは問いかける。レインは少しだけ戸惑いながらも、それを口にした。

「……あの娘は……俺の側室になるために離宮へ来たのだと」
「……誰がそんなことを?母上もそんなことは言っておられなかった。というか母上はそんなことに関心がなかったからな、あの人の考えではないだろう」
「今日、あの娘の叔父夫婦が離宮に来ていまして、そのようなことを言っていました」

それを聞いたセイルファウスは眉を寄せた。いつも温厚なこの兄がこんな顔をするのは珍しいことだった。

「なるほどな……地方の下級貴族がなけなしのツテを頼って、娘を王族に縁の場所に行儀見習という名目で預ける。そしてあわよくば王族の誰か、それ以外でも上級貴族の誰かの手付きにでもなれば、というわけか……くだらんな」
「兄上……」
「私の周りにもそんな女は山のようにいる。媚びへつらうような女ばかりだ。嫌気もさすさ」

セイルファウスは心底嫌そうに天を仰ぐ仕草をしてみせた。世継ぎの王子でありながら彼がまだ正妃を迎えていないのはそのためもあるのだろう。彼の正妃の座を巡っては、上級貴族同士で揉めているのだ。

「レイルアース」

不意に呼ばれて、レインは目の前の兄を見つめた。

「お前が望むなら、リルフォーネを実家に帰すようにするぞ?そんな裏のある娘と共にはいたくはないだろう?」
「……」

―――――レインはその問いに、何故だかすぐに答えることができなかった。


* * * * *


その夜遅く、レインとイオは離宮へと戻った。
寝ずに起きて待っていた女官長から、言いつけ通り、あの二人を追い返したと聞かされて、少しだけ複雑な気分になる。

「―――――わたくしは清々いたしましてよ?」

女官長の気遣うような悪戯な言い方が、少しだけレインの心を和ませた。
纏っていたマントを渡すと、フェレ女官長はふと思い出したかのように、話しかけた。

「そう言えばレイルアース王子、リルフォーネ嬢がお話があると待っていますけれど」
「……待っている?」
「ええ、多分叔父夫婦が追い返されたことを気にしているのでは?」

昼間に見た、あの二人の顔が頭に浮かんで、レインはまた気分が下降するのを感じた。それに気付いたイオの瞳に気遣うような光が揺れる。

(……言うなら……早い方がいい)
(……あの娘がいなくなったところで、何が変わる?―――――何も変わらない、元の日常に戻るだけだ)

「……分かった……いつもの木の下に来いと伝えてくれ」
「わかりましたわ」

女官長が頷くのを確認すると、レインはその場所に向かうために窓を開けた。この部屋からあの木の下へ行くには、窓から中庭を突っ切った方が早い。

「レイン様……あの」

イオが戸惑ったように後を追おうとするのを、手で制する。イオが何を言いたいのかは分かっている。自分はそこまで愚鈍ではない。

「分かっている……殺したりは、しない」
「……はい」
「心配性だな、お前は」

その背に月明かりを浴びながら、レインは歩き出した。


* * * * *


ラドリアは太陽を尊ぶ国だ。
だからそれに反比例するかのように、月に関してはいい逸話がない。月食や日食はラドリアでは全て凶兆とされる。二つの月が共に満ちるのは一年に一度あるが、その日は誰も外へは出ない。その月の光を浴びると太陽の怒りに触れると言い伝えられているからだ。

だが、レインは月が嫌いではなかった。

(「どうしてお月様達を嫌うんでしょうね」)
(「とっても、優しい光を放っているのに」)

この間リルフォーネが月を見上げながら言った言葉だ。
けれど今では、彼女の言った全ての言葉が偽りだったように思えて、レインは小さく頭を振った。
裏切りや、偽りは……この国では当たり前のことだと、分かっていたはずなのに。少しでも信用した自分が愚かだったのだ、誰のせいでもない。

いつもの木に立ったまま寄りかかって、レインは月を仰ぐ。二つの月は今、細い状態で絡み合っている。どんなに細くなっても離れないそんな月達の明かりに照らされて、木の下では小さな赤い花が無数に咲いていた。

(―――――アイリオネ、と言うんだったな)

小さいけれど鮮やかな赤。月明かりの下でだけ花開き、血の色をしたその花を、ラドリアの民は嫌う―――――不吉な花だと。
けれど太陽の光のない場所で、こんなにも可憐に咲くこの花を、リルフォーネは好きだと言った。

彼女が好きだと言った。
彼女が笑ってくれた。
そんな一つ一つに、一喜一憂している。
―――――その感情の名前を、レインは知らない。

「レイルアース様!」

その声に、月だけを見上げていた視線を下ろすと、リルフォーネがこちらに向かって走ってくるのが見えた。夜も更けて、少し肌寒いというのに、薄いドレス一枚で必死に走ってくる。フェレ女官長が見たら、『淑女は走るものではありません』と言われそうだが、そんなことは露ほども覚えてはいないのだろう。
彼は徐々に近づいてくるその姿を黙って見つめた。

「……す、すみません……お待たせしま……した……」
「……とりあえず、落ちつけ」

そう言って、レインは彼女の息が整うのを待ってやる。懸命に上下するその肩を見ていると、ますます複雑な気持ちが膨れ上がるのを感じた。

「も、もう、大丈夫です」
「……そうか」

リルフォーネは最後にひとつ、大きな息をつくと、すっとレインを見上げた。その茶色の大きな瞳に、月の影が映る。それを無言で見つめた後、レインは視線を逸らした。―――――その瞳を見ていたくないと思った。

「……俺に、何か話があるのだろう?」
「あ、はい……」

少し言いにくそうにリルフォーネは胸の辺りの服を何度か掴んで、視線をあちらこちらに動かしていたが、やがて心を決めたようにレインをもう一度見上げた。しかし視線を逸らしているレインにはそれを見ることはできない。

「……叔父達が、レイルアース様に何か失礼なことをしたのではありませんか?」
「……どうして、そう思う?」
「それは……」
「衛兵が、俺の命令だとでも言ったか?」
「……」

リルフォーネは言葉を返さなかった。沈黙は、肯定だ。
王宮に行く前にレインは確かにそう命じた。そしてイオはそれを着実に実行させただろう。隠す必要もない。

「……叔父達は……少し横柄なところがあるので……何かレイルアース様のお気に障ったのなら、わたし……お詫びします」
「……お前が謝るのか?俺に?」
「あの人達は……私の血縁ですから」

その答えが、レインの中でくすぶっていた暗い炎を揺らした。自分でもどんどん心が冷たくなっていくのがわかる。
しかしふと、イオの気遣うような視線を思い出し、目の前の娘を見下ろした。
―――――殺すつもりなどない。そこまで自分は傲慢ではないはずだ。

「―――――お前は……何のために……ここにいる?」
「……え?」
「いくらここにいても、無駄だ。俺はお前達一族の望みを叶えてやる気はない」

いきなり話題が変わったことに、リルフォーネは戸惑ったような顔を見せた。自分を見下ろすレインの顔に、何の感情も浮かんでいないことが、ますます彼女を不安にさせる。自分はまた、不用意にこの王子を不快にさせるようなことを、言ってしまったのではないだろうかと。

「の……ぞみ?」
「……はっきり言ってほしいか?―――――俺は、お前を側室に迎える気など、ないということだ」

―――――この人は……何を言っているのだろう?
リルフォーネにはその言葉を理解することができない。

「……どういう……ことです?」
「―――――わからないか?……出て行け、と言っている」

この人は……―――――。
レインは……怒っているのだ。不快にする、というレベルではなく、心の底から、怒っている。
そのことにリルフォーネは気が付いて、先程の言葉を思い出した。

「……わたしが?わたしがレイルアース様の側室になんて、誰が!?」
「お前の叔父夫婦だ」
「わたし、知りません!そんなこと、思ったこともありません!」
「芝居は止めろ。俺は……お前達、田舎の下級貴族の野望を叶えてやる気はない」

―――――行儀見習だ、と。
叔父夫婦は確かにそう言った。あんまりにも熱心に勧めるものだから、両親もいぶかしがりながらも承知した。
でも本当は―――――?レインの言うように、そんな野心のためだったとしたら?自分や両親が何も知らずに利用されたのだとしたら?
そしてそれを、レインに聞かれてしまったとしたら―――――?
この数ヶ月、側にいてわかった。この青年は冷たいようで、本当は情が深い。いつでも緊張してすっと伸びた背中は、彼の誇り高さを感じさせた。
そんな彼にとって、醜い地方貴族の野心は、一番軽蔑するものだろうに。

「わたし、本当に知りません!そんなつもりで、ここにいたんじゃありません!」
「……黙れ」
「イヤです!出て行くのは仕方ないとしても、誤解されたままなのは、イヤです!」
「黙れ!!」





―――――ダンッ!!





彼女の首元を掴むと、レインは、いつも自分達に心地よい木陰を提供してくれるその木の太い幹に、乱暴にリルフォーネの身体を叩きつけた。すばやく抜かれたその剣の刃は、リルフォーネの首に確実に当てられている。月の光を受けて、その刀身は寒々とした光を放っていた。

沈黙が……しばらくの間二人の間を支配した。

「―――――死にたくなければ、このまま出て行け。俺の目の前から……消えろ」

突きつけられた剣は、リルフォーネの首筋ぎりぎりに当てられている。少しでも力を込めれば、その皮膚は切られる。
―――――怖くないはずはなかった……怯えないはずはなかった。こんな風に命の危険を感じたのは、もちろん彼女には初めてのことだった。いつも笑って、からかって話していたはずの青年は、見たこともないほどに冷たい顔をしていた。
きっと、いつも……戦場で戦う時には、彼はこんな顔をしているのだろう―――――こんな顔で、人を殺しているのだろう。
そう思うと本当に恐ろしかった。体が小刻みに震えるのを、止めることなんて出来なかった。

―――――だけど……諦めてしまったら……?





(―――――そこで、終わってしまうわ)





震える身体……それを止めることはできないけれど。
リルフォーネは、目の前で怒りを露にしているレインの顔を真っ直ぐに、見つめ返した。

「……殺して、ください」
「……」
「レイルアース様が……本当に、私を……私を信じられないと言うなら、殺してください」

至近距離にあるリルフォーネの瞳に、大粒の涙が浮かんだことにレインは気付いた。それと同時に突き付けた剣に力が入る。ツンとした痛みが首に走り、少しだけ溢れた血が、彼女のドレスを染めた。

「自分が信じるって……決めたものは、信じるんです。絶対に……わたし、諦めないって……誓ったんです」
「……何を言ってる」
「昔のわたしは、弱虫で……信じられなくて、諦めてしまって……それで大事な人を……傷つけて……」

溢れ出した涙が、柔らかな頬を伝った。その雫は首を伝い、血と混じった淡い紅の水になって、レインの剣に走った。

「兄は……そのために……死んでしまって……だから」
「……」
「だから……ッ!」

それでも、信じられないと言うなら。
―――――死んだ方が、マシだと。

そう叫ぶ前に、リルフォーネの言葉は、レインの口唇に飲み込まれた。

その刃は、リルフォーネの首筋に当てられたままで、まだ彼女から血を吸い続けているのに。
重ねられた口唇は、深く、強く。

どうしてこんなに自分は怒っていたのだろう。
―――――裏切られたと思ったからだ。
信じたいと思っていた……―――――いつの間にか……誰よりも愛しいと思っていた、娘に。

そっと閉じられたリルフォーネの瞳から、また溢れ出した涙が頬を伝う。
薄く目を開けたレインは、月の光に反射するその涙を……とても美しいと思った。