Clover
- - - 第10章 アイリオネ5
[ 第10章 アイリオネ4 | CloverTop | 第10章 アイリオネ6 ]

―――――大きくて、無骨な手だと思った。

ゆっくりと口唇が離れると、レインはリルフォーネに突きつけていた剣を鞘に収め、自らの首に巻かれていたスカーフを外して、その傷に当てた。ぎこちない動作で止血をしてくれる目の前の青年を、リルフォーネはただぼんやりと見つめていた。
彼は、何も言ってはくれない。
自分を信じてくれるのかも、何故口付けたのかも、何も言ってはくれない。
けれど、その纏っていた空気は、明らかに先程までの荒々しいものではなくなっていた。

慣れない手付きで手当てを終えると、レインはいつもの木の下に座った。それに誘われるようにリルフォーネも彼の隣に座る。
―――――二人の間に奇妙な沈黙が流れた。
レインは膝を立てて、愛用の剣を抱きしめるような格好で顔を伏せている。まるで自分に顔を見られることを厭っているかのようなその姿勢に、リルフォーネは少しだけ不安になった。

「あの……大丈夫、ですよ?」
「……?」
「―――――えっと……だからたいしたことありませんよ?もう血も止まってるみたいですし、ちょっとチクッとしただけで……」

なんだか分からないけれど、沈黙に耐えられずに話し出したリルフォーネにつられて、レインは顔を上げた。
真っ黒なその瞳に、月の光が吸い込まれているような気がする。
この離宮に来てしばらくたった頃、女官達の噂話を耳にしたことがある。夜の闇を纏った不吉な王子、とレインのことを呼んでいた。
―――――けれど、今見れば……彼の瞳は何て優しく美しいのだろう。
どんなものだって、本当に触れてみなければ、その本質なんてわかるはずもないのだ。

自分をじっと見つめたままのリルフォーネの頬に、レインはそっと手を伸ばした。柔らかな頬を滑って、自分が傷をつけたその首に、布の上から触れると、小さく呟く。

(「―――――すまなかった」)

―――――とくん。

小さな呟きだった。注意していなければ聞き取れない程の押し殺した声だった。
けれどその一言が、何故かリルフォーネの心には染み渡るように広がった。鼓動が知らず、大きくなる。

すまないと言うのは、傷のことか、それとも―――――口付けのことか。

生真面目な彼のことだ、きっと両方の意味を込めて言っているのだろうと、彼女は理解していた。けれど後者を謝られるのはイヤだった。どうしても―――――イヤだった。

(―――――ああ)

胸に広がっていく、温かな気持ち。

(―――――わたし……この人が……好きだわ)

不器用で、無口で……でも、優しい人。
けれど優しいだけの人ではないと分かっている。冷酷な面も、恐ろしい顔もある―――――その手は確かに多くの人の血で汚れている。
でも……それでも―――――。

(―――――好き)

信じてもらえないのが、あんなに悲しかったのも、辛かったのも。
剣を突きつけられて、恐ろしくて逃げ出したくて……でも、できなかったのも。

―――――好きだから。

「―――――謝らないで、ください」
「……」
「謝られたくなんてない……そんなのは―――――イヤです」

リルフォーネの首に手を置いたままだったレインは、ふと視線を上げて彼女の顔を見つめた。その瞳には、今までになかった柔らかな艶めいた感情が浮かんでいる。そしてそれに、レインが気付かないはずはなかった。
―――――彼の瞳にもまた、同じ感情が溢れているはずだから。

「―――――好きです……わたし……貴方が……好きです」
「―――――……リルフォーネ……」

―――――二度目の口付けは、真綿のように優しいものだった。


* * * * *


「わたし……母の連れ子なんです」
「え……?」

二人はそのまま、どちらともなくそっと身体を寄せ合っていた。そんな心地のいい沈黙を破ったのは、どこか自嘲的にも聞こえるリルフォーネの声だった。

「だからわたし……本当はここにいられるような身分の娘じゃないんです。叔父達とももちろん血なんて繋がってません」
「……」
「わたしの本当の父は、商家の出でした。だけどわたしが物心つく前に亡くなって……その何年か後に母は今の父に出会ったんです。父も母もお互いに再婚で、父にも亡くなった奥方様との間に息子が一人いました。そんな複雑な家庭でしたけど……父も兄も優しい人で、貴族にありがちな奢りなんて欠片もない人達で、わたしを本当に実の娘のように可愛がってくれたんです」

茶色の髪が、風に煽られてレインの目の前で揺れた。
それを目を細めて眺めながら、レインは黙って彼女の次の言葉を待った。リルフォーネが自分のことを話そうとしていることがわかったから……その邪魔をする気は無かった。

「でも……それまで、本当に普通の家の娘として育ってきたわたしにとって、特に兄はなんだか遠い世界の人のようで。いつまでたっても打ち解けられなくて意地を張って。あんなに優しくしてくれたのに……大切にしてくれたのに……バカだったんです、わたし」

―――――穏やかな人だった。
恐れ多いことだけれど、あの柔らかな雰囲気はどこかレインの長兄、セイルファウスに通じるものを感じる。
剣を握ることより、書物を読んでいるのが似合う、そんな人だった。

リルフォーネはそこでいったん言葉を切ると、無造作に投げ出されているレインの大きな手にそっと触れた。一本……一本、その指をゆっくりとなぞる。その仕草をレインは何も言わずに見つめていたが、やがて焦れたように彼女の小さな手を握って指を絡ませた。
それを見て、少し沈んだようだったリルフォーネの顔に、小さな笑みが浮かんだ。

「―――――そんな時、兄はオデッサとの戦いのために戦場に行くことになって」
「……オデッサに?」

オデッサは学問で有名な国である。
だから……ラドリアが初めてオデッサに侵攻した時、たいした労力もなしに陥落させることができるだろうと誰もが思っていた。
―――――けれど、それは甘い考えだった。
学問を愛する国民性だからこそ、その自由を守ろうとする団結は強かった。また、国土の多くを砂漠に囲まれており、昔から凶悪な盗賊団が存在した関係で、それから身を守る自警団はしっかりと組織されていた。武力も魔法力も思った以上にしっかりとしている国だった。

「最後まで、最後までわたし、素直になれなかった。兄を信じること、できなかった」
「……」
「―――――兄は……そのまま帰らぬ人になりました」

リルフォーネの瞳から、つっと涙が溢れるのを、レインは目を細めて見つめていた。
慰めてやりたい衝動にかられるが、それを今はするべきではないように思った。その代わりに握った手に力を込める。

「覚えているのは、最後にわたしを見て笑った、その淋しそうな笑顔だけです。―――――もっといろんな話がしたかった……もっと仲良くなりたかったって……何度思っても、泣いても、もう兄は帰ってこないから―――――」

涙に濡れた瞳を凛と上げて、リルフォーネは目の前に広がる真紅の花が咲き乱れる様を見つめた。
そこにあるのは、ただ泣いているだけの弱々しい娘の姿ではなく、現実を受け止める強さだった。

「―――――誓ったんです。わたしは、信じたいと思うものを何があろうと信じようって……誓ったんです」
「……」
「だからわたし、貴方を信じます……何があろうと、信じます。だからレイルアース様……わたしを、疑わないでください。わたしを―――――信じてください」

彼女のその言葉は、誓いか懇願か―――――。

真摯なその瞳から視線が逸らせない。初めて会った時から、その瞳だけが印象的な娘だった。
今ならわかる。自分はもしかしたら、あの時に既に捕われていたのかもしれないことが。

レインは小さく頷くと、リルフォーネの細い身体を抱き寄せた。
―――――彼女の髪からは、甘い花の香りがした。





【―――――確かにそう……言っていたのに】
【―――――お前は俺を……信じてはくれなかったな……】





―――――その真実を、知らぬまま。
そして穏やかに、2年の月日が流れた。