Clover
- - - 第10章 アイリオネ6
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「綺麗」
「……お前、本当にその花が好きだな」
「だってとっても綺麗だもの。レインは嫌いなの?」

摘んだアイリオネの花を左手に握ったまま、リルフォーネはふわりと微笑んだ。肩までだった髪は腰まで伸びて、丸く女性らしくなったその身体を柔らかく覆っている。その変化と、更に伸びたレインの身長が、いつもと同じ場所にいても、時の流れを感じる理由の一つだった。

「フェレさんは、この花は不吉だからって渋い顔をするんだけど、わたしは好き」
「……そうか」
「レインが戦場に行く度にこの花にお祈りするの。まるでレインの血を守ってるみたいだっていつも思うのよ?」

月明かりの下でリルフォーネがそう言って笑う。
アイリオネの花は月の下でしか咲かない。
目の前で風に揺れる彼女の茶色の髪を、レインは遊ぶように指に絡ませた。

この2年の間に父王の命令で、何度か戦場へ向かったことはあったが、大事はなかった。
この場所で彼女が待っていると思うと、どうでもいいと思っていた命が、奇妙に大切に思えるものだと知る。実際、リルフォーネはいつも、瞳に涙をいっぱいに浮かべて出迎えてくれていた。

(―――――行かないで)

本当はそう言いたいに違いないのに、彼女は決してその言葉を言わない。
そして自分も、それに気付かないふりをしている。

「―――――リル」
「……なあに?」

言葉にしても、どうしようもないと……二人ともわかっているから。
だから、名前を呼んで―――――身体を寄せた。


* * * * *


新しく見つけた侯爵家の末娘に、夢中になった父王が開いた晩餐会には、珍しくレインも招待された。
理由は簡単だ。この間のオデッサとの戦いで、ラドリアの国境線は大幅に広がった。その功労者であるレインを呼ばないわけにはいかなかったのだろう。レインとしては嬉しくもなんともなかったが、ついこの間から社交界にも顔を出すようになったリルフォーネの付き添いと、久しぶりに兄に会えるというので、足を運ぶことになったのだった。

リルフォーネは社交界で何人か友人もできたらしく、楽しそうである。それを遠目で見つめていたレインの目の前に、不意にグラスが差し出された。

「久しぶりだな、レイルアース」
「ユリアティウス兄上……来ていらしたのですか?」

目の前の儚げな容姿の青年は、同腹の兄であるユリアティウスだった。生まれつき病弱なこの次兄は、どこか達観したような不思議な雰囲気の持ち主である。見るからに騎士であるレインや毅然とした風格のある長兄のセイルファウスとは、全く以って似ていないので、言われなければ兄弟だとは思われないだろう。

「今日は絶対出席だと、固くセイルファウス兄上に言われたんだよ」
「……兄上に?」
「ああ、お前が恋人を連れてくるっていうんでね、見物だってさ。あの人も思った以上に茶目っ気があるよな?」

そんなことになっているとは―――――。
レインは眉根を寄せたが、その表情がおかしかったのか、ユリアティウスは満面の笑みを見せた。そのまま視線を動かし、どこかの令嬢と話しているリルフォーネを柔らかな視線で見つめる。

「あの娘だろう?お前の想い人は」
「……」
「どうして放っておくんだ?さっさと室に迎えてしまえばいいのに」
「俺は……リルフォーネを愛人扱いする気はありません」

最近になって、イオやセイルファウスからも強く言われていることだった。
―――――リルフォーネを側室に迎える。
それを考えなかったわけではない。けれどこの2年間、レインはそれを実行に移すことができなかった。

リルフォーネの叔父夫婦がどうだとか、そんなことは関係なかった。
ただ、レインは彼女を……どうしても側室、にしたくなかったのだ。

―――――身分が違う。

言ってしまえば確かにそうだ。地方の下級貴族の娘であるリルフォーネを、王族である自分の正妃にはできない。正妃はいつか、父王が上級貴族のどこかの令嬢をあてがうと、頭ではわかっている。結婚というのはそういうものだ。家と家の繋がりを保つもの、権力の適度な牽制を促すものだ。
けれどレインは、大切に想っているリルフォーネを愛人のような立場には絶対に置きたくはなかった。例え形だけとはいえ、彼女以外の妃を持っているという状態を作りたくなかった。

(「―――――……ただ一人だけでいいのに」)
(「―――――他に、誰も望んではいないのに」)

そうこぼした自分を、イオが複雑に見つめていたことを、ぼんやりと思い出した。

「気持ちはわからないでもないけど、お前は忘れてはいないか?」
「……何をです?」
「―――――ここは、王宮だよ」

ユリアティウスの言葉を理解できず、レインは顔をわずかに歪めた。目の前の次兄は窓から、鬱蒼とした森を見つめている。
―――――相変わらず、わからない人だと思う。

「お前は忘れないことだ。ここが狂った王が治める、狂った国の、狂った王宮だということをな」
「……兄上……言っている意味がわかりかねるのですが」
「―――――すぐに、わかるさ」

含みのある言葉。
確かにわからない人ではあるが、レインは何故かこの次兄が嫌いではなかった。
―――――ふと視線を動かすと、遠巻きに自分達を見ている人々の姿が目に入った。正室腹の王子二人が共にいるのに誰も近寄って来ようとしないのは、レインを恐れてのことだろう。その気配に気付いたのか、ユリアティウスも会場へとその瞳を向けた。

「お前といると、うるさい虫が寄って来なくていいな」

レインより背が低く、線の細いその青年は小さく苦笑する。

「……俺は、虫除けですか?」
「ああ、こんな病弱な王子にまで群がる虫を追い払うには最高の虫除けだ」
「……」

悪びれないその態度に呆れながらも、レインはその目を和らげた。セイルファウスとは違う、独特の柔らかなこの空気。それがユリアティウスを嫌いではない理由の一つなのかもしれない。

「……そう言えば、聞いたか?アイザックがノイディエンスターク侵攻の指揮を取るそうだ」
「……はい」
「ノイディエンスタークは……廃墟になってしまうかもしれないな。あいつはお前と違って、略奪や虐殺を禁止するような人間じゃない。しかも今あの国は、大神官を失ったことでどんどん植物が枯れ、荒野になっていると聞いている。それにアイザネーゼも侵攻を始めたらしい」

アイザックは側室腹の第二王子であり、間違いなく暴君、と呼ばれる類の人間である。ユリアティウスは正室腹では第二王子だが、他の兄弟も含めた中では四番目、レインは五番目だ。第一王子である皇太子、セイルファウスの命を狙っているのは殆どがこのアイザックの息のかかった人間だと言われている。狡猾で残虐なその性格から、王宮でも恐れられている存在だ。

「……今ノイディエンスタークは魔神官という人物が治めていると聞きましたが?」
「反逆を起こした神官連中に担ぎ上げられただけの存在だろう?実際民が飢えているというのに、神官達は贅沢三昧だそうだしな」
「……滅びますか」
「……さあ……どうかな……?」

ノイディエンスタークという国のことを、レインは多くは知らない。
ただこの世界において、竜や精霊といった人外の存在に一番愛されている国であることは伝え聞いていた。そう、ラドリアの人々は皆、かの国を御伽の国のように考えている。

「アイザックのことだ……侵略すればそのままノイディエンスタークを自分の領土のように扱うだろうな。搾取するだけ搾取する……今の神官達となんら変わらない。民は……救われない」
「侵攻を決めたのは父上ですか?」
「そうらしい。ラドリアの女だけでは飽き足らなくなったかな?」

そう言いながら、ぼんやりと会場を見つめていたユリアティウスが、突然表情を消した。その視線の先には今しがた話題になっていた人物、第二王子のアイザックが酒を煽っている姿があった。短く刈り込んだ茶色の髪に派手派手しい金色の衣装を纏っている。

「遺伝というのは……恐ろしいな。あいつを見る度に、父上が二人いるような気になってくるよ」
「……」
「あれと半分血が繋がっているとは信じたくないな」

ふっと自嘲的に笑うと、ユリアティウスは隣に立つ弟に視線を戻した。

「まぁ僕は、戦争にはあまり興味がないし……関わるつもりもないからな。お前もアイザックにはあんまり近づくな、無視しておけよ?」
「……はい」
「あと、退出するなら早い方がいいぞ?」
「……?何故ですか?」

首を傾げたレインに、ユリアティウスは柔らかく微笑んだ。この弟の固い部分を彼は気に入っていたのだ。

「さっきも言っただろう?」
「……え?」
「ここは……狂った王が治める、狂った国の、狂った王宮だ」


* * * * *


その後姿を見送っていると、何時の間にか横にリルフォーネがいて、彼の顔を覗き込んでいた。

「レイン?」
「どうした……?」
「あの方は、誰?」

そう言えばリルフォーネは、セイルファウスにしか会ったことがないことをレインは思い出した。ずっと離宮にいて、王宮へ来るようになったのは最近のことだ、無理もない。

「ユリアティウス兄上だ。俺とは同腹の…第四王子だ」
「お兄様だったの?とても……儚げな方なのね」
「病弱なんだ。いつもは別の離宮で静養している」

そうなの……と少し顔を曇らせたリルフォーネに小さく笑うと、彼女も微笑み返した。

「……リル、もういいのか?」
「あ!あの……それがね?メイリーが泊まっていかないかっていうんだけど」

メイリーと言うのは確か、リルフォーネが社交界に顔を出すようになって、初めて出来た友達だった。同じ男爵家の娘だったことから意気投合したらしい。
しかし、泊まっていくと言うことは、各貴族に与えられている王宮内の部屋に、ということだろう。
―――――何が起こるかわからないようなこの場所に、リルフォーネを一人残していくことは、レインにはどうにも納得できかねた。

「リル……ダメだ、離宮へ戻るぞ」
「……えっ?ダメ、なの?」
「王宮は危険だ……お前を置いていくわけにはいかない」
「だったらレインも一緒に泊まってくれたら……ね?」

そうしたいのは山々だったが、オデッサへの再侵攻を控えている今、レインは明日もイオと一緒にその準備をしなくてはならない。責任者を集めた打合せは明日の朝から始まるため、王宮に泊まることは出来なかった。レインはため息をついて、リルフォーネを説得する。

「リル……明日は朝から打合せがある……知っているだろう?」
「あ……そう、だった」
「だから、もう退出しようと思っていたところだ。お前も友達に挨拶を済ませて来い」

そのレインの言葉に、リルフォーネはシュンと肩を落とした。いつまで話しても話題が尽きないなんて、無口なレインには理解しがたいことだが、彼女にはそうではないのだろう。

「どうしても……ダメ?」
「ダメだ」

その大きな瞳を潤ませながらリルフォーネはじっとレインを見上げていた。この瞳に自分が弱いことを、彼女は知っていてやっている。それがわかっているのに、レインは惚れた弱みか、その願いを聞いてやらなかったことがない。彼女の願いはいつもささやかなもので、豪華なドレスや装飾品を欲しがるような真似は決してしなかったからだ。

「リル……」

レインは困り果てて目の前の恋人を見下ろした。しかしその様子は顔には出ないので、どちらかというと怒っているように見える。周りから見たら怖く見えるだろうが、リルフォーネにはちゃんと彼の心がわかっていた。

「メイリーの部屋からは出ないようにするから!」
「……」
「ちゃんと鍵もかけるし、目立たないようにするから!……ね?」

その懇願するような様子に、レインは大きくため息をついた。
リルフォーネにしてみれば、初めて出来た同年代の同性の友達だ。話したいこともたくさんあるのだろう、と思う。このまま今夜帰ったところで、用事があるレインはリルフォーネの側にはいてやれないのだ。

―――――長い沈黙の後、レインはじっとリルフォーネの瞳を見つめて、諭すように言った。

「……絶対に部屋からは出るな」
「うん」
「……鍵もしっかりかけろ。不用意に王宮内を歩くのは絶対ダメだ。いいな?」
「うん!」
「何かあったら、セイルファウス兄上のところに行け。明日の15時には迎えをよこす。それまでは絶対に気を抜くな」
「……レイン、心配性」
「―――――王宮じゃなければそんなに心配はしていない」

そう、ここが王宮でなかったら。
絶対約束すると何度リルフォーネが言っても、心配になる。ユリアティウスも言っていた。
―――――ここは、狂った王の治める、狂った国の、狂った王宮なのだ。

それでも、嬉しそうなリルフォーネの顔を見ると、それでいいかとも、思ってしまう。

(―――――俺は……やっぱり、過保護で甘いのか?)

最近イオに言われて否定した言葉が、あながち間違いではなかったかもしれないと、レインはふと思った。