- - - 第10章 アイリオネ7 |
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想いが通じ合ってから、こうして離れているのは……彼が戦争に行っている時だけだった気がする。
その時はただただ、毎日毎日彼の無事だけを祈った。伝え聞く戦勝の知らせを聞く度に胸を撫で下ろしていた。
そこで―――――気付く。
自分で考えていたよりも、もっともっと―――――自分は彼に依存しているのではないか?
もう彼なしでは、生きていけないほどに。
* * * * *
「メイリーは、好きな人……いないの?」
「わたくし?好きな……というか憧れている方はいらっしゃるけど……」
「何々?どんな人?」
「ダメよ、教えてあげない」
王宮の中、少し離れたその建物の中にある部屋で、二人はお茶を飲みながらのんびりとおしゃべりをしていた。母親が再婚するまでは同じ商家の子供と遊ぶ機会も多かったが、それ以降は同年代の人間が周囲にいなかったので、こんな時間を過ごすのは久しぶりだった。だから、ほんの少し我侭を言ってしまったのだ、彼に。
何にも関心がない様でいて、レインはとても世話焼きで心配症だということも、リルフォーネは良く知っていた。
「貴女こそどうなの?リルフォーネ。レイルアース王子は貴女をずいぶんとご寵愛なさっているみたいだけど?」
「……えっ!」
「貴女が室に迎えられるのも、そう遠い日のことではないと思うわ」
「……室?」
「側室よ。レイルアース王子は王族、正妃になるにはわたくし達の身分では無理ですもの」
メイリーの言葉に、リルフォーネの心は少し沈んだ。それは、レインとこういう間柄になってからずっと分かっていたことだから。
彼が自分を好きでいてくれる、それを疑ったりはしていない。でも、やっぱりレインは王族で、自分は決して彼の一番になれないことは悲しかった。
彼の手が、他の女性を抱くなんて、想像もしたくない。気が―――――狂ってしまうかもしれない。
「メイリーは……もう結婚の話とか、出てるの?」
「ええ、両親の決めた婚約者はいるわ。でも会ったこともないし……ずいぶんと年上だから……愛することはできないと思うわ」
「それでもいいの?本当に好きな人じゃない人と、結婚できるの?」
リルフォーネの真剣な面持ちに、メイリーは少しだけ淋しそうに笑って答える。
「それが、貴族に生まれた娘の運命なのよ?リルフォーネ」
「……そんな」
「貴女は幸運なのよ?正妃ではないけれど、ずっとずっと本当に好きな人の側にいられるのですもの」
―――――幸せ。
貴族の娘の幸せ、女性としての幸せ。
もしも自分が……男爵家の令嬢ではなく、ただの商家の娘のままだったなら。
(わたしの運命は……今とは違っていたかしら?)
(でも……きっとレインと出逢うことはなかった)
(それは……幸せだったと言えるかしら?)
―――――出逢ったことが間違いだったなんて。
そんな後悔はしたくないと思いながら、未だ淋し気な表情のままの親友に、リルフォーネはそっと抱きついた。
* * * * *
その日はまだ春だというのに、とても寝苦しい夜だった。
寝る前にお茶をたくさん飲んだせいだろうか。それともいつもと違う寝台だからか、側にいるべき人がいないからなのか。リルフォーネはどうしても寝付くことが出来ずに、何度も寝返りをうっていた。
それだというのに、隣のメイリーはぐっすりと眠っている。むしろ羨ましいほどに。
そう言えばレインの住まう離宮は、王宮よりも北にある。その土地柄、暑さが少しは緩和されているのかもしれなかった。その上、リルフォーネの実家があるのはもっと北、ノイディエンスターク寄りなのだ。
(わたしって……もしかしたら暑さに弱いのかも)
そんなことを考えてまた寝返りをうつと、豊かなメイリーの髪が目の前で揺れていた。あまり動くと彼女を起こしてしまいかねない。
(少しだけ……風に当たってこようかな)
リルフォーネは寝台から身体を起こすと、そっと親友の少女を起こさないように布団から抜け出し、近くの椅子にかけてあった薄手のショールを夜着の上に羽織った。そのまま静かに部屋のドアへ近づき、ノブを回す。
―――――ガチャ。
そう言えば、鍵をかけたんだった……と、リルフォーネは思い当たった。ノブの下についている小さな金具を、時計とは逆方向へ回すと、施錠は解除された。
* * * * *
メイリーの部屋の外は大きな回廊が続いていて、その回廊の向こう側に小さな噴水が見える。
サアァァと水が流れる音はいかにも涼し気で、誘われるように彼女はそちらへと向かった。もう夜も更けていて、人の気配はまるでない。静かにただ水の音だけが響くその空間は、どこか幻想的だ。
「冷たい……」
噴水にそっと手を浸してみる。その冷たさは蒸し暑いこの空気の中ではとても心地良い。しばらくパシャパシャと手を動かしていると、突然近くの茂みからガサガサガサッという音が聞こえて、リルフォーネは一気に身体を強張らせた。
「―――――誰かいるのか?」
「!」
茂みから荒々しい雰囲気を纏って現れたのは、派手な装いの青年だった。その余りにも突然の出現に、リルフォーネは身を隠すことが出来ず、その場に固まったままだ。
「―――――女か」
青年はズカズカと大股で歩いて、リルフォーネを間近で見下ろした。
呆然と見上げていたリルフォーネの頭に、舞踏会で逢ったセイルファウスの言葉がふと甦って来る。
(「あの会場の中心にいるのが、第二王子のアイザックだ。絶対に近寄ってはいけない」)
(「何故ですか?殿下」)
(「お前が奴に近づいたりしたら、レイルアースの側にはいられなくなる身体にされるということだ」)
「アイザック……殿下?」
「―――――ほう、オレを知っているのか。下働きの娘ではなさそうだな」
機械的に口にした彼女の言葉に、アイザックはニヤリとした含みのある微笑を向ける。それを見た途端にリルフォーネの背に悪寒が走った。
それはもう女性としての、本能だったかもしれない。
―――――この男は、危険だと。
根拠もなく、そう思った。
(―――――ダメ)
(―――――逃げなくちゃ……!)
その一心でリルフォーネが踵を返すより早く、アイザックの手が彼女の両肩を掴んでいた。その事実に愕然としている間に、アイザックの顔はもう、リルフォーネの目の前にあった。
「―――――ッ!!」
無理矢理合わされた口唇に、遠慮や優しさは微塵も感じられない。ただただ荒々しい奪うようなそれに、リルフォーネは必死で抵抗した。しかしその強い力にはそれも敵わない。
(―――――イヤ)
(―――――イヤ!)
先程別れ際にレインがくれたキスは、とても優しくて。自分は……あのキス以外は絶対に欲しくないのに。
腕にありったけの力を込めて目の前の身体を突き放すと、わざとなのか、アイザックはその瞳に笑みを浮かべながらリルフォーネの口唇を解放した。しかし腕は掴まれたままだ。
「光栄に思え」
「―――――なっ!」
「お前のような身分の低そうな女を、抱いてやろうと言うんだ。もう何番目かはわからんが、オレの側室にしてやる。喜ぶことだな」
―――――そんなことは、絶対に受け入れられない。
高慢なその態度にリルフォーネは必死で抗って逃げようとする。しかしそんな様子ですら楽しんでいるように、アイザックは簡単にその華奢な身体を拘束した。再びこじ開けられた口唇に入り込んでくる生暖かい感触に、リルフォーネは吐き気すら覚えた。
そのまま噴水横の芝生へと押し倒される。
どんなに抵抗しても目の前の大きな身体はびくともしない。こう言った行為に慣れているのだと、すぐにわかった。その瞳には残虐な、弱者を見下す光が宿っている。
「イヤ!やめて!!」
必死に叫んでも、建物からこの噴水までには距離があり、誰にも届かない。
アイザックはリルフォーネを押さえ込んだまま、覆い被さるとその首筋へと口唇を動かした。時折チクリと痛みが走るのは、自分の所有印をつけていると分かって、ますますリルフォーネは暴れた。
「やめて!やめてください!イヤ!」
「―――――何をイヤがる……仮にも王族の側室になれるのだぞ?お前達下級貴族の娘には願ったりだろうが!所詮王宮にいる身分の低い女は、みな身分の高い男に身体を与えるためにだけ、存在するのさ」
「―――――そんな!そんなこと絶対にありません!」
「うるさい!」
バシッと頬に熱い痛みが走って、リルフォーネは目の前のこの男に殴られたと分かった。口の端にうっすらと血の味がする。
「王子であるオレに口答えするな!お前のような身分の低い国民など、王族のためだけに存在するのだ!おとなしくしていろ!」
「―――――!」
そう言い放つと、アイザックはリルフォーネの夜着の胸元を掴んで、一気に破き下ろした。素肌に触れる空気は、あんなにも蒸し暑かったはずなのに、何故か氷のように冷たく感じられた。
「―――――ふはは……」
アイザックはそれはそれは楽しそうに、再び彼女の首筋へと口唇を戻した。その感触にリルフォーネは我に返りまた抵抗するが、あっさりとアイザックに押さえ込まれた。
―――――知らなかった。
―――――こんなに男の人の力が、強いものだったなんて。
レインと想いが通じ合った時……そう、あの時も。
レインを怖いと思った、殺されると思った。
けれど……心のどこかでわかっていた。彼が本気で自分を殺すはずがないと。何も根拠はなくても、どうしてだろう……そう思っていたのだ。
―――――でも……今は……そんな希望を抱けるような、相手ではない。
「―――――いやああああああああ!!やめて!レイン!レイン!助けて!」
叫ぶことしかできない。
叫ぶことしか、それしか……できない。
なんて無力な自分。兄を失った時と同じ、何も何もできないままの―――――。
涙で何も見えない視界……けれど今もしこの涙がなかったとしても、目に入るのは、自分を犯そうとしているこの男の顔だけだとわかっているから、必死で顔を背けた。
(―――――レイン!)
(―――――レイン!助けて!)
届くはずがない。彼は今、離宮にいるはずなのだから。
あんなに王宮は危険だからと、一緒に帰ろうと言ってくれたのに。我侭を言って、その言葉を守らずに不用意に外に出た、これがその報いなのか。
溢れる涙を止めることが出来ず、それでも必死で叫び、抗うリルフォーネの耳に、その声は聞こえた。
「―――――何をしている!!」
あの低く響くレインの声ではなかった。
でも、その声を……リルフォーネはとてもよく知っていた。
自分を押さえつけていたその手から、力が抜けるのを感じて、リルフォーネは涙に濡れたその瞳をうっすらと開いた。
―――――そこには間違いなく、見知ったこの国の皇太子……セイルファウスの姿があった。
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