- - - 第10章 アイリオネ8 |
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「その娘を離せ、アイザック」
突然現れた長兄に驚いたのか、動きを止めていたアイザックは、感情を押さえたようなその声にふと我に返ったようだった。リルフォーネを押さえつけていた手を離さぬまま、皮肉気な笑みを浮かべて、目の前のセイルファウスを見返す。
「これは……無粋ですよ、兄上。これからという時に……」
「いいから離せ。その娘はお前が手をかけていい娘ではない」
「―――――ほう……この娘は既に兄上の手付きでしたか?それでしたら申し訳ないことをしました」
アイザックはしぶしぶといった風に、リルフォーネに圧しかかっていた身体を起こして、その横へ立った。リルフォーネもはじかれたように起き上がり、自分の腕で自分の身体をぎゅっと抱きしめる。セイルファウスは自らの羽織っていたマントを脱ぐと、リルフォーネの身体を包むように支えてやった。
「しかし意外ですね……女には興味がないように見えていた兄上にも相手がいたとは」
「この娘は私の相手ではない、レイルアースの恋人だ」
「―――――……へえ……あの死神のね」
アイザックは心底イヤそうな顔をする。自分の王位継承を妨げるのはセイルファウスはもちろんのこと、こと戦いにおいて名声高いレインのことも、アイザックは憎んでいた。今回のノイディエンスターク侵攻も、本当はレインが任命されるはずだったものを、父王に頼み込んで、いろいろと裏工作をしてようやく任されたのだ。
「―――――アイザック」
怒ったようなその声に、アイザックは長兄へと意識を向ける。
「二度と彼女に手を出そうなどと思うな……わかったな?」
「……おや、ずいぶんとご執心なのですね。そんな身分の低い娘……レイルアースでも側室にしかできないでしょうに……」
「お前にそんなことは関係ない。わかったらとっとと行け!」
リルフォーネを支えたまま、セイルファウスが鋭く命令する。アイザックはその剣幕に少し驚きながらも、くるりを背を向けながら、ククク、と笑った。
「この借りは必ず返してもらいますよ、兄上」
「……」
その派手な姿が茂みの向こうに消えてゆくのを、セイルファウスは何も言わずに見送った。
* * * * *
「湯を使うといい……着替えも用意させるから」
あの場所に置いて帰るわけにも行かず、かと言ってこのままメイリーの部屋へ戻すわけにもいかずに、セイルファウスは結局彼女を自室へと連れてきた。セイルファウスの部屋は流石に皇太子の部屋だけあって、小さな湯殿なども備え付けられているので都合がよかったのだ。
しかしそんなセイルファウスの言葉にも、リルフォーネはぴくりとも反応を返さなかった。ただ俯いたままのその姿が気になって、彼は身を屈めて、そっと彼女の顔を覗き込む。
「―――――リルフォーネ……」
―――――彼女は……泣いていた。
―――――声を上げることもなく、ただ静かに、静かに……泣いていた。
そんな彼女を、セイルファウスはゆっくりと側にあったソファーへと座らせた。
「リルフォーネ……大丈夫だ。お前はまだ汚されたわけじゃない」
「……でも」
「レイルアースはこんなことで、お前を嫌ったりはしないよ」
「でも……わたし……」
セイルファウスはそっとその華奢な身体を抱き寄せて、背中をゆっくりと撫でさすってやった。まるで小さな子供に、親がするように。
「大丈夫だから」
「……セイルファウス……殿下」
「我慢するな。不安なら不安だと……怖かったなら怖かったと言ってしまえ。泣きたいだけ泣いてしまえばいいんだ。そうしたら、明日はレイルアースがお前を抱きしめてくれる」
「―――――ッ……!」
―――――怖かった。
とてもとても怖かった、恐ろしかった。
今まで自分の周りにいた男性が、どれだけ良識のある紳士的な人々だったのかを思い知らされる。
「わた……しッ!怖くて!」
「……ああ」
「レインが……レインにこんなこと……知られたら……ッ」
「……リルフォーネ」
後から後から涙が溢れて、リルフォーネはセイルファウスに身体を預けたまま、声を上げて泣き続けた。
涙が口の側へ流れ落ちる度に、殴られた時に切れた傷にしみた。
そんな彼女が泣き疲れて眠ってしまうまで、セイルファウスは優しく背中を撫で続けてくれた。その優しさが……その時、リルフォーネにとっては唯一の救いだった。
* * * * *
翌日の早朝、知らせもなくいきなり訪れたセイルファウスに、離宮は騒然となっていた。側近達も数人しか連れずに来たと聞き、急いで身支度を整え、レインは応接室へと向かった。
「兄上!いかがされたのですか!?」
「レイルアース」
イオと話をしていたセイルファウスが弟を振り返る。その横にすっかり憔悴したような恋人の姿を見つけて、レインは目を見開いた。
「……リル?……兄上……これは……?」
どうして彼女がセイルファウスと共にいるのか。彼女は友人の部屋に泊まったはずで、今日の午後には迎えをやるつもりでいたのに。
訳がわからないといった風な弟の顔を見て、セイルファウスが苦笑する。
「とりあえず、事情の説明が必要だな」
「何か……あったのですか」
嫌な予感がした―――――。
セイルファウスの横に力なく立つリルフォーネの瞳は、泣きはらした後のように真っ赤だった。
そのレインの視線に気付いているのか、リルフォーネは俯き、セイルファウスに促されるまま、ソファーへと身を沈める。
レインとイオもそれに倣い、腰を落ち着けるのを見届けると、セイルファウスは徐に話を切り出した。
「昨夜……アイザックが中庭で彼女に……手をな」
「!?」
「たまたま私が通りかかったので未遂で済んだんだが……」
セイルファウスの言葉は少なかったが、何が起こったのかを理解するには充分で、レインとイオは息を呑んだ。その雰囲気の変化を感じ取って、リルフォーネはビクッと身を竦ませる。
「未遂で済んだんですか?」
「ああ、なんとかな……間に合ってよかった」
確認するようにイオは目の前の皇太子に問いかけた。セイルファウスは緊張している弟とその側近に柔らかく笑いかける。
「しかし……相手が悪かったな。そこらの上級貴族だったらどうでもよかったが、よりにもよってアイツだ。もしかしたら何か仕掛けてくるかもしれない。一応用心しておいた方がいい」
「……そうですね……アイザック殿下なら……何か企んでもおかしくありませんし」
心配気に顔を歪めるイオと兄を交互に見やって、最後にレインはもう一度、リルフォーネを見つめた。そんなレインの視線の動きに気付いて、セイルファウスは隣で俯いたままのリルフォーネの肩に、ぽんと手を置いた。
「あのままにしておくわけにいかなかったから、昨夜はとりあえず私の部屋へ連れて行って落ち着かせた。一晩中泣いていたから、こんなに目が腫れてしまってな」
「……」
「イオ、私達は外そう。それに黙って出てきてしまったから、早く王宮に戻らないといけないんだ」
そう言って立ち上がったセイルファウスに、まるではじかれたようにぱっとリルフォーネは顔を上げて、すがるように見上げた。そんな彼女に、セイルファウスは優しく笑うと、一度頭を撫でてやる。その仕草をレインはよく知っていた。末の妹であるアンティエーヌにこの長兄がいつもすることだった。
「……兄上」
見送るために一緒に立ち上がると、レインは兄に向かって深々と頭を下げた。セイルファウスは驚いて目を見開き、イオと顔を見合わせる。リルフォーネもそのレインの行動に、目をみはった。
「―――――ありがとう……ございました」
「……レイルアース……」
「―――――本当に……ありがとうございました」
もしもこの兄がその場に居合わせなかったら。
そう考えただけでもぞっとする。レインは大切なものを一生失っていたかもしれないのだ。
深く頭を下げる弟を、セイルファウスはじっと見つめていたが、やがてその口唇に、ふっと笑みを浮かべた。
「レイルアース、顔を上げろ」
「……兄上」
「私は何も特別なことをしたわけじゃない。理不尽な行為をしようとしていたのを止めた……それは当然のことだろう?」
優しい言葉。
ゆっくりと顔を上げたレインの目に、聡明で優しい兄の見慣れた笑顔が映る。
「―――――そんな当たり前のことが……この国では特別になってしまっている……それこそが……悲しいことだな」
どうしてこの国は、ここまで狂ってしまったのだろう。
―――――そしてどこまで、この国は狂っていくのだろう。
セイルファウスの笑顔の奥に、常々抱いていた疑問の答えがあるように、レインには思えてならなかった。
* * * * *
「―――――ごめんな……さい」
「……」
セイルファウスとイオが部屋を出て、扉が閉まったと同時に聞こえたその小さな謝罪の声に、レインはゆっくりと振り返った。リルフォーネはドレスの胸元をぎゅっと掴んで立ち尽くしたまま、俯いている。その俯いた顔から、透明な雫が落ちて、毛足の長い絨毯にぽつりぽつりと染みを作った。
「ごめん……なさい……」
「……リル」
レインは扉から離れると、ゆっくりと歩いて彼女の前に立つ。そしてリルフォーネが自分から顔を上げるのを、待った。
「わたし……約束……したのに……」
「……」
「大丈夫だろうって……勝手に思って……それで外に……」
後から後から溢れる涙をいっぱいにためた瞳で、リルフォーネはようやくレインと視線を合わせた。レインは何も言わなかった。おそらくいつもの通り、表情にも出ていないだろう。
「―――――ごめ……」
何度目かになる謝罪の言葉を紡ぎだそうとしたリルフォーネを、レインはそっと抱き寄せた。驚きで見開かれた瞳から、たまっていた涙がぽろぽろと落ちて、レインの肩を濡らす。
「―――――もう、いい」
「……レイン」
「―――――お前が無事なら、それでいい」
左腕で彼女の身体を抱きしめたまま、レインは右手でその長い髪を撫でてやる。自分にそうされることを、彼女が好きだと分かっていて、何度も何度もそれを繰り返した。その胸に、身体を預けたまま、リルフォーネは涙を止めることが出来なかった。
「―――――お願い」
まるでうわ言のように呟くその声に、力はなく。
「―――――お願い……わたしを……嫌いにならないで」
―――――とても……怖いの。
止むことなく髪を撫で続けるこの優しい手を、失うこと。
その恐怖を……リルフォーネはその時、初めて強く、強く自覚していた。
―――――しかし。
その頃王宮では、事態は最悪の方向へと向かおうとしていた。
そのことを……レインもリルフォーネも……そしてセイルファウスでさえもまだ知りえなかった。
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