Clover
- - - 第10章 アイリオネ9
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「―――――どういうことです!父上!」

謁見の間に高く響き渡る声は、いつもは冷静な皇太子のものだった。
その視線の先には、玉座に座る野心的な瞳の、この国の主たる、国王が鎮座していた。

「……どうしたもこうしたもあるまい。言った通りの意味だ」
「そんなことを受け入れるわけにはいきません!」
「―――――ほう……お前は、この父の命令が聞けぬというのか」

彼こそがこのラドリア王国の独裁者。
そう悟らざるを得ない、高慢なその物言いにセイルファウスはギリリと口唇を噛んだ。

「セイルファウス、お前は誰だ?」
「……言っている意味がわかりかねます」
「お前は私の息子、そしてこの国の皇太子ではなかったか?」
「……それは」
「お前にわからぬはずはあるまい?今、ハンザート公爵家の機嫌を損ねるわけにはいかんのだ」

ハンザード公爵家はアイザックの母親の実家で、セイルファウス達の母親である王妃の実家とは同位の上級貴族だ。この二つの公爵家はいつも何かにつけていがみ合っており、王家は常にそれに挟まれる形になっている。だからこそ、そのバランスを崩すようなことをしてはならないのは分かる。けれど、今回に関してはそれをはいそうですかと鵜呑みにするわけにはいかなかった。

「それにお前がその娘と一晩過ごしたのは事実なのだろう?」
「別に何かあったわけではありません!……アイザックですね?ヤツが父上とハンザート公爵に余計なことを……!」
「セイルファウス……何をそんなにイヤがる。お前にとっては大したことではあるまい?」
「それでは……レイルアースはどうなります!」

ここ数年で一気に老けたような感がある父王だが、その瞳だけは荒々しい生気に満ちている。そのぎょろりとした瞳に剣呑とした光が浮かぶのを、セイルファウスは見逃さなかった。

「レイルアース……―――――あの死神か」
「父上……」
「アレは役に立つ。だから生かしている。だが……アレが幸せである必要はない」
「……何を……言っておられるのです」
「死神は死神のままでよい。アレの存在は、自国にも他国にも、誰に対しても脅威でなくてはならん。孤独の中にあって、神経を研ぎ澄まし、いつでも殺気を放っているようでなくては困るのだ」

―――――レインには幸せになる権利などないと、そう言っているのか。
実の父親が、それを言うのか。レインはただの駒でしかないと……そう言うのか。
セイルファウスは絶望的な諦めを感じた。
この父にとって、レインだけではない、アイザックも、ユリアティウスも……もちろん自分も、王妃である母も、数多き寵姫も、ただ自分のためだけに存在する道具でしかない。
そんな息子の心などかまいもせずに、父王は最期の言葉を投げつける。

「わかったな……セイルファウス?例の娘は……お前の側室に迎えよ」

―――――セイルファウスに、返せる言葉はなかった。
―――――目の前にいる、絶対的なその支配者に。


* * * * *


―――――何が起こっているのか。
実家から届いたその手紙に目を通したリルフォーネは、その内容を理解することが出来ずにいた。

アイザックとの一件があってから、2ヶ月後のことである。

しばらくはショックから立ち直れなかった彼女だったが、レインの態度はまるで変わらず、離宮では今まで通りの穏やかな日々が流れていた。あの一件以来、流石にレインも考えたようで、リルフォーネを正式にこの離宮に迎えることができるよう、準備をしていた矢先のことだった。

(―――――どういう、こと?)

父からの手紙には、王宮から届いたという直々の書状の写しが同封されていた。
そこには間違いなく、『御息女を皇太子殿下の側室として迎える』と記されている。

(……わたしが……セイルファウス様の側室に?)

何かの間違いではないのか、と父の手紙にも綴ってある。リルフォーネの両親は、娘がレインと愛し合っていることをよく知っていたからだ。リルフォーネ自身が間違いではないかと思うのだから、両親はますますそう思ったに違いない。

「確認……しなくちゃ」

呆然としていた頭をブンブンと振って、リルフォーネは自分に喝を入れた。何かの間違いに決まっている、そうでなければ……おかしいのだから。

手紙を手に持ったまま、リルフォーネはレインの部屋へと向かう。離宮の一番奥に位置するその場所は、もう通い慣れた道だった。大きな、それでいて温かみのある、自然のままの木材を使用した扉が見えると、リルフォーネは何故かほっと安堵を覚えた。

そう、こんなのは、間違いだ。
自分はこれからもずっと、彼の側にいるのだ。

いつものように軽く扉をノックすると、しばらくの沈黙の後、ガチャリと開けられた扉の向こうに、困惑したようなイオの顔があった。

「リルフォーネ嬢……」

どこか戸惑ったような彼の態度に、リルフォーネは眉根を寄せる。いつもとは何かが違っている。

「レインは……?」
「……とりあえず、お入りください」

イオはリルフォーネを中へと招き入れる。促されるまま部屋に足を踏み入れたリルフォーネは、ソファーに座り、頭を抱えて俯いている恋人の姿を見つけた。

「……レイン……?」

―――――ドクン。

嫌な、予感がする。
2ヶ月前のあの時と同じように。

それを否定するように視線を泳がせると、レインの目の前の机の上に、無造作に投げ出された手紙があった。
その中の一枚には王家の紋章が押してある。それは今、自分が手にしている手紙に同封されていた書状にもあった押印だったような気がする。

(―――――まさか)

持っている手紙をリルフォーネは無意識に握り締めていた。

(―――――まさか……本当に)

「……レイン」

リルフォーネはぐるぐると回る思考を何とか押し止めながら、レインの隣に座った。レインは頭から手を離して、横に座った彼女へとゆっくりと視線を動かす。

「レイン……あのね……変なのよ?」
「……」
「お父様から手紙が来たんだけどね?……おかしな書状が届いたって言うの」
「……書状……?」
「わたしを皇太子様の、セイルファウス様の側室にするって、書いてあるの。……ね?おかしいでしょう?」

リルフォーネの言葉にレインは目を見開き、その背後に立っていたイオをすばやく見やった。イオは顔を歪めたまま、小さく首を横に振る。

「……王家の正式な書状にも間違いってあるのね」
「……リル」
「ほんとにおかしいでしょ?笑っちゃう間違いでしょ?」
「……リル……それは……」
「間違いでしょ!?間違いなのよね!?」

最後は涙声になる。
―――――言って欲しいのだ、彼本人の口から。
―――――そんなのは間違いだと、言って欲しい。
そうでなかったら……そうでなかったら―――――?

自分を潤んだ目で見つめてくるリルフォーネに、レインは言うべき言葉が見つからなかった。
レイン自身、その知らせを聞いたのは今朝だった。セイルファウスからの急ぎの手紙と共に、まるで用意されていたかのようにすばやく届けられた王家からの書状には、間違いなく王の勅命としてその事実が短く綴られていたのだ。愕然として、共に届いた長兄からの手紙を見てみると、それが事実であること、王に何度も申し開きをしているが全く聞き入れてもらえないこと、この件にアイザックが関与している等の様々な王宮でのやり取りや思惑が事細かに書かれていた。

―――――最後まで、諦めないでほしい。私も最大限の努力をする。

セイルファウスが、どれだけ自分達のために力を尽くしてくれているかは、その最後の一文からも分かる。
―――――けれど。
この事実に……どう対処していいのか……今のレインには全く以って分からなかった。
あの長兄が申し開きをしても、聞き入れられない。自分などおそらく会ってすらもらえまい。父王が自分を疎んじていることを、レインはこの20年間でよくわかっていた。アイザックにしても同じことだ。

「……リル」

そんなことは間違いだと、言ってやりたい。
自分達はこのまま、変わることなどないのだと……安心させてやりたい。
その笑顔をずっとずっと、守ってやりたい。

―――――けれど。

「……間違いじゃない……それは、事実だ―――――」

現実とは……なんて残酷なものなのだろう―――――。

「……事実……?」
「……そうだ」
「間違いじゃ……ないの?」
「―――――ああ」

(―――――そんな言葉が欲しかったんじゃ、ないの)

レインの腕が強くリルフォーネを抱き寄せた。そのぬくもりがいつもなら嬉しいはずなのに、今は何も……何も感じられない。

「……アイザックが手を回したんだ。あの夜、お前が兄上の部屋にいたことなどを吹聴して、母親の実家である公爵家を動かし、兄上の側室にと働きかけたらしい。アイザックは兄上や俺を嫌って疎んじている……その腹いせにこんなことをしたんだ」
「……わたし……たち……どうなるの」
「兄上が父王に再三申し開きをしてくれている。俺も、受け入れてはもらえないだろうが……努力はする」

何度も申し開きをしている。
あの、セイルファウスが何度も申し開きをしなければいけないほど……国王の意思は固いということなのか。

「もし……だめだったら?」

状況は絶望的だ。このままなら、間違いなくリルフォーネはセイルファウスの元へ行かなければならないだろう。
そのすがるような言葉に、レインは黙って彼女を見つめた。

―――――暗い……何処までも暗い世界だった……彼女と出会うまでは。
生まれたことが間違いのように感じていた。いつ死んでも構わない、そんな気さえしていた。

光をくれたのは、リルフォーネ。
―――――決して……離してはいけない手。

「―――――もしも……許されなかったら」

「二人で……どこか遠くへ……行こう」

それでも構わないと、強く強く、思う。本当に大切なものを、自分は間違えたりはしない。
驚きに見開かれたリルフォーネの瞳が、絶望の色から喜色に変わっていくのを、何故だか穏やかな満たされた気持ちでレインは見つめていた。





―――――しかし。




「―――――そんなことは……できませんよ」

その場の空気を変えたのは、レインでもリルフォーネでもない、低い声だった。
扉の近くに控えていた長身の副官に、レインはゆっくりと視線を向ける。

「―――――なら……お前はこのまま、リルフォーネを兄上の元へ行かせろと言うのか?」
「そうは言いません。でも今のお二人は現実を見ていないとしか思えません」

怒りの篭った主の視線を真っ直ぐに受けても、イオは動じることはなかった。

「二人でどこかへ逃げる……その意味を、考えていますか?」
「……意味?」
「リルフォーネ嬢の実家は、王への反逆罪で確実に取り潰されるでしょう。ご両親、一族郎党はみな斬首です」
「―――――!」
「そしてこの離宮に住まう全ての人間も首を切られるでしょう、私も含め。……レイン様、あなたが知らないはずはありますまい……国王陛下はそんなに甘い方ではありません」

――二人で、逃げれば。
おそらくイオの言葉は真実になるだろう。それが容易に想像できて、レインは口唇を噛んだ。リルフォーネは流石にそこまでは想像していなかったのか、血の気が引いた顔をしている。

「……それに、失礼な言い方かもしれませんが、二人が生活していけるとも思えません」
「……どういう意味だ」
「貴方達は、世界を知らな過ぎます。20年間、食べる物に不自由したことも、金に困ったこともない貴方達が、どうやって生活をしていくのです?多少の金品を持っていったところで、そんなものはすぐになくなります。そうしたらどうするおつもりですか?―――――奇麗事だけでは、生きていくことはできません」

二人は世間知らずだと、イオは暗に言っていた。それを否定できるほど、二人の世界は広くはない。
イヤというほど分かっているのだ……自分達がどれだけ周囲に守られて過ごしてきたのかは。

「お二人がどの道を選ぶのか……それに私は口出しはしません。けれど、その決断によっては、多くの人間の命が失われることを忘れないでいただきたい。その犠牲の上にでも叶えたい想いなら、それにも何か意味があるのでしょう」
「―――――イオ……」

迷ったようなレインに、イオは小さく微笑んで見せる。
苦言を呈した上で、それでもイオは決断を二人に任せると、そう言ってくれている。選ぶ道によっては、自らの命が消えるとわかっているのに、それでも答えを委ねてくれている。
―――――キシリ……と心が軋んだ気がした。

「もう一つ……道を示すとしたら……待つ、ということでしょうか」
「―――――待つ?」
「……国王陛下が崩御されて、セイルファウス様が無事に即位されれば……この国は変わるでしょう」
「……その時まで、待てと……そういうことか」
「……セイルファウス様がリルフォーネ嬢に手をつけるとは思えません。ただ……先の見えない答えですが」
「……」
「選ぶのは、お二人です」

イオはそれだけ言うと、一礼して部屋を後にした。
それを見送りながら、リルフォーネの肩を抱く手にレインは力を込める。結論を出さなければいけないのだ……いずれにせよ、時間があまりない。

―――――諦めか、犠牲か、先の見えない未来か。

「逃げたら……本当に……お父様達はみんな……殺されてしまうの?」
「―――――……そう……なるだろう」
「離宮の人も……皆?」
「……俺達を逃がしたと、責任を問われるだろうから……おそらくは」

リルフォーネの肩は小さく震えていた。
優しい娘だ……自分のために他人が傷つき、殺されることを受け入れられるような気質の持ち主ではない。

「好きな人と……ただ一緒にいたいだけなのに」
「……」
「誰も……わたし達を……祝福してくれないのね」





―――――きっともう、答えは出ている。
考えるまでもない……先の見えない未来を二人は選ぶことになるだろう。
リルフォーネの瞳から零れる涙は、それを確信しているようだった。