- - - 第10章 アイリオネ10 |
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(「彼女は必ず、元のままでお前のところへ返すよ」)
弟である自分に父王を説得できなかったことを詫びながら、深く頭を下げたセイルファウスはそう言ってくれた。
* * * * *
リルフォーネがこの離宮を出て、セイルファウスの住まう王宮の離れへと移る二日前の夜だった。
いつもの木の下で、月明かりを浴びながら二人は過ごしていた。それは二年間、ずっとずっと繰り返されてきたことで、次がいつになるのかは見当もつかない。明日かもしれないし、10年後かもしれない。
ここ数週間はいろいろな準備でごたごたしていたこともあって、二人でこうして過ごすのは久しぶりのような気がした。
―――――少し、痩せたかもしれない。
心労も……先の見えない不安もあるのだろう。リルフォーネの顔はどこか青白く見えた。彼女はいつもの通り、言葉少なに咲き乱れる赤い花を摘んでいる。
「やっぱり……綺麗」
「……不吉だと言われる花なのにか?」
「わたしね……わかったの。いけないとか…不吉だとか、そう呼ばれるものを人は求めるんだって」
「……?」
「許されない恋も……同じね。ダメだと言われるとますます恋しくなる」
自分達のことを言っていると分かって、レインは少しだけ顔を歪めた。リルフォーネはそのまま、ただ機械的にその花を摘み続けている。
その瞳には、いつもの生気が感じられない。あの生き生きした感情が、欠片も浮かんではいなかった。
(「―――――最近、少し心配ですわ」)
フェレ女官長が、最近のリルフォーネを見て、そう呟いていたことを思い出す。
事が事だけに、いくらリルフォーネでも不安だろうし、少し不安定になっても仕方ないとは思っていたが、これは少し重症かもしれないとレインは思った。
「リル……?」
「……なぁに?」
「―――――不安か?」
その問いかけに、リルフォーネはぴたりと手を止めた。ゆっくりと木の下に座っているレインを見つめる。そして少し言い難そうに、小さな声で、呟くように言葉を紡いだ。
「何だか……たくさん、たくさんいろいろなこと、考えてね」
「……」
「疲れた―――――かな」
「……リル」
「いつまで待つのかな、とか……わたしがいない間にレインに正妃様が来ちゃったらどうしようとか……レインがわたしを忘れてしまったら……とか、セイルファウス様の側に行って、本当に平気なのかなとか……いっぱいいっぱい、考えて。でも考えても何も答えなんて出なくて……答えがないから、考えるのをやめられなくて……悪循環、なの」
そっと目を伏せるリルフォーネに、レインはもう何度も行ってきた言葉しか、言ってやることができない。
「―――――必ず、迎えに行く」
「……うん」
「兄上もこれからはお前を連れて、頻繁に訪ねて下さるそうだ……だから、逢える」
「……うん」
「絶対に大丈夫だ……信じろ」
「……うん」
でもね、とリルフォーネは少し悲しそうに続けた。
「レインの言葉に嘘はないって……分かってるし、信じてるの。だけど不安なの、怖いの……それは消えないわ」
「……リルフォーネ」
「兄様が死んだ時に、絶対絶対諦めないって誓ったのにね……どうして人間は、恋をするとこんなに弱くなるのかな」
彼女は持て遊ぶように、手の中の赤い花を一輪、くるくると指で回した。その様子をしばらく無言で見つめていたレインは、立ち上がるとリルフォーネの側に歩み寄り、背中から抱きしめる。彼にされるがままになっていたリルフォーネは、ふと、思い出したかのように、彼に尋ねた。
「―――――ねえ、レインはこの花の花言葉……知ってる?」
「花言葉……?いや、知らないが……」
そうだと思った、とリルフォーネはくすくすと笑った。
どこか―――――乾いたその笑いに、レインが背後から顔を覗き込もうとすると、それを遮るように、リルフォーネはすっと正面を向いて答える。
「『実りなき想い』っていうの」
「……実りなき……」
「花言葉まで、不吉ね……でも、わたしは好き」
「……リル?」
「―――――わたしは……この花が……大好き」
リルフォーネはレインの腕の中で身体を反転させて、そっとその首に腕を回した。長い髪が目の前で舞って、レインは彼女の腰にそっと手を添える。
そんな仕草のひとつにも、彼の気遣いを感じて……リルフォーネは柔らかく微笑むと、レインの耳元でそっと囁いた。
「―――――わたしを好きになったこと、後悔しない?」
耳に当たる、温かな吐息。
「……しない」
低く小さい……それでもキッパリとしたレインの言葉に、リルフォーネはそっと目を開く。その広い大きな肩越しに、鬱々とした暗い森が見えた。本当は、そこには月明かりに照らされた赤い花畑が広がっているはずなのに、その時の彼女の瞳には、確かにその森が見えたのだった。
「―――――ありがとう」
とても、とても好きで……大好きで。
こんなに人を好きになったことなんてなくて……幸せだった。
リルフォーネはレインに完全に身体を預けたまま、そっと……目を閉じた。
―――――けれど、瞼の裏に焼きついた、その暗い森が……彼女の頭から消えることは、なかった。
* * * * *
―――――貴方は……後悔しないと言ってくれたけど。
―――――わたしはね……少しだけ後悔しているの。
―――――こんなに好きにならなかったら、何かが違っていたかな?
―――――『実りなき恋』
―――――『実りなき恋』
―――――『実りなき恋』
―――――大好きな、大好きな……アイリオネの花。
―――――血の色の……花。
―――――不安を抱き続けるのが怖い。
―――――揺れる心を信じきれない。
―――――……ああ。
―――――何だかとても……疲れた……―――――。
* * * * *
その翌朝。
知らせを受けて飛び込んだ、その部屋でレインが見たものは。
―――――いちめんの赤。
―――――赤。
―――――赤。
ベットの上の白いシーツは、散らばった大量のアイリオネの花と、リルフォーネの血に濡れていた。
鏡台の上には、レインが贈った銀の指輪がきちんと置いてあり、それにも赤いアイリオネの花が一輪、添えるように置かれていた。
傷は二箇所。
最初に首を切り、その後に胸に短剣を突き立てたようだった。
―――――リルフォーネは……自らその命を絶った。
その顔は何故か穏やかで、満足そうにすら―――――見えて。
「――――――――――ッ!!!!!」
抱き起こしたその身体はもう冷たくて、ぬくもりを残してはいなかった。
血に濡れた白く細い身体……確かに昨夜まで側にあったはずのぬくもりがもう永遠に失われたことを知る。その身体も、シーツも、枕も、抱きしめる自分の手も身体も、全てが赤に染まっていた。
「リルフォーネ……―――――ッ!」
記憶している限り、レインが涙を流したのはこれが初めてだった。
熱い雫が、後から後から頬を伝うけれど、それは全て赤に染まっていく。
リルフォーネの涙を、美しいと思った……二人の想いが通じ合ったあの夜に見たそれは、まるで水晶のように透明に輝いていたのに。
自分は……涙ですら血に汚れているのかと錯覚するほどに、視界の全ては鮮やかな赤だった。
―――――それは、どうにもできなかったせつない恋の終わり。
レインの慟哭を、その場にいた誰もが……止めることも、慰めることも出来ず……ただ、立ち尽くしていた。
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