Clover
- - - 第12章 傀儡3
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サーシャが見せてくれた、彼の過去に意味がないことなんて―――――ない。

四大竜王に会いに行く前から抱いていた小さな疑問を、奥神殿にある私室でフィアルはじっと考えていた。傍らにはぐっすりと眠り込んでいるネーヤの姿がある。
あの時、もしも過去を見せるのなら……一番近くにいたフィアルやアゼルのものでもよかったはずなのに、あの風は何故かレインの過去を見せた。しかもその時、同じ中庭にはイオやゲオハルトも一緒にいたという。
―――――それならば何故、レインだったのか。
たまたまという言葉で片付けることはできない。それには意味があるはずなのだ。自分の父親と似た優しい気質の、あの風竜の娘の意思が。

確かにそれは悲劇だった。レインにとっては思い出したくもない、辛い過去だっただろう。
けれど……それを見せられたフィアルにとっては、それはまるで現実ではないことのようだった。そう、一つの決められた物語のような、現実感を伴わないもののように感じられた。

(できすぎてる……気がする)

そう、それはあまりにも綺麗すぎるものだったような……そんな気がする。
それは何故だったのだろう。それを探るために、あの時に見たレインの過去をフィアルは何回も思い返した。そしてその綺麗な物語の中に一つの疑いと、たった一つの不確定要素を見つけた。そう……それだけには何故か、奇妙な違和感を覚えずにいられない。

「一度……逢いに行ってみようか」

そうすればきっと、この胸に浮かんでいる疑いも解消されるのだろう。肯定という―――――その行為によって。
散々考えを巡らせた後、フィアルは無意識に撫でていたネーヤの額に目をやった。そこに浮かぶ反目の印は、昼はフィアルが目くらましを使って隠しているものの、消すことはできない。ネーヤの身体の魔導環も消すことはできないのと同じように。
魔竜を召喚して、神官勢力の残党と対峙して、浮かんだ疑いを解消して。
その先に―――――何が残る?

(―――――何も……残りは……しないわ)

ならば何故―――――自分はここにいるのだろう。
それはあの内乱の終わった日から、ずっと消えない問いだった。
フィアルはふっとため息をつくと、ネーヤの頭を一度だけ撫でて、近くにあったショールを羽織り中庭へと向かった。きっと―――――今夜は月が美しいだろう。
内乱を終わらせる気など……本当は、なかったのだと知ったら……あの炎の青年達13諸侯は、自分を責めるだろうか。


* * * * *


竜の涙という名の小さな白い花が咲き乱れるその中庭に、フィアルは自分以外の気配を感じてふと視線を動かした。
まるで花に埋もれるように、手には分厚い魔導書を持ったままで静かな寝息を立てているその青年を見つけて、小さな苦笑が零れる。起こさないようにゆっくりとその横に腰を下ろすと、フィアルは月を見上げた。
予想通り、鋭敏な二つの月はとても美しい。そのほのかな光はいつも尖っている心を少しだけ癒してくれる。
栗色の髪を風に靡かせながら、規則正しく上下する胸は、彼が深い眠りの内にあることを如実に示していた。ネーヤといい、キールといい、他人の前では決してこんな姿を見せはしないのに、自分の前でだけはこんなにも無防備になる。信頼されているのだとわかっているが、どこかフィアルはうしろめたさを感じずにはいられなかった。その向けられる想いに答える心を、自分は持っていない。
羽織っていた薄いショールを、フィアルはそっとキールの身体にかけてやる。どちらかというと夜着である自分の方が薄着だとは思ったが、相手は眠っている上に、男性の方が女性より体温が高いのだと、何だか色気のない知識を思い出した。

(「―――――貴女が本当に巫女姫だと言うのなら、その証を見せてください」)

今でも覚えている。十年ぶりにノイディエンスタークに戻って来たフィアルを、一番に拒絶したのは、この魔の青年だった。涼しい顔をしてわりときついことを言うヤツだなぁ、というのが第一印象で、それ以上でも以下でもなかった気がする。
それが……今では横ですやすやと眠られる関係だ。よく考えるとおかしなものである。少なくともあの時のキールは欠片もフィアルのことを信じてなどいなかった。あの頃と変わったことは、その関係の変化と、キールが眼鏡をかけるようになったことだろうか。元々目は悪かったようだが、ここ数年でさらに視力が下がったらしい。誕生日に、目にいいというウバルの実を大量に贈った時の、心底嫌そうだった顔を思い出して、フィアルは思わず笑ってしまった。

視界いっぱいに広がる一面の白い花。それはあのレインの過去の中にあった花とは対極にあるような光景だった。
―――――リルフォーネの最期を鮮やかに彩ったアイリオネ。
彼女の決断を、フィアルは責めようとは思わない。人には生きる権利があるように、死ぬ権利もまた存在する。残して逝く者と、残されてゆく者のどちらが辛いのかなどということを考えるのは愚かなことだ。前者はその瞬間までを苦しみ、後者はその瞬間から後を苦しむだけのことだ。

―――――けれど。

残された者は……考えるのだ。過去のどこでどうすればよかったのか、と。考えても過去が変わるわけではないのに、考えずにはいられない。そして逝った者を責め、そんな自分を責め、苦しむ。悔いる気持ち……深い悲しみ……怒り……嘆き。その嵐を乗り越えて、人はそれを過去へと……思い出へと変えてゆくことができる生き物なのだと、いつか一緒に仕事をした傭兵の一人が言っていた。彼の顔にはそんな深い歴史が皺として刻まれていたことを、今でもフィアルは忘れることができない。

(だけど……それができない人間だって……いるのよ)

そういう人間は、決して薄れない痛みを抱いたまま、ただ空ろに生を刻むことしか、できないのだ。
知らず俯いた顔に、さらりと白金の髪がかかる。その視界に入る儚げな花が、静かな風に揺れている。

(「……本当にこの花が好きだな」)
(「うん……大好き!父様は嫌いなの?」)
(「いいや、好きだよ。この花を見るとお前はとても幸せそうに笑うから」)
(「……?」)
(「お前が幸せに笑うと、父様も幸せなんだ。だから決して忘れてはいけないよ?お前は幸せになりなさい」)

―――――ごめんなさい。
―――――ごめんなさい、父様。
それでも、あの時……差し出された手を取らずにいられなかった。その結末が、幸せな笑顔で終わるはずのないことを―――――知っていても。

「……姫」

その声にはっと顔を上げると、心配そうな紫の瞳が見えた。先程まで熟睡していると思っていたのに、そんなに長い間考え事をしていたのだろうか。大丈夫だと少し笑って見せると、目の前のその顔がはっきりと歪んだ。そのまま彼は戸惑ったように、手を伸ばしたり、握ったり、顎に触ったりを繰り返していたが、やがて思い切ったかのようにすっとその手のひらをフィアルの頬へ伸ばした。

「……泣かないんですね……貴女は」
「……え?」
「俺は……知ってます。貴女は―――――泣けないんですね」

それでも……この花畑にいる時だけは、普段とは違って少しだけその本当の感情の片鱗が見える。それが彼女の綺麗に隠した心のほんの一欠片だとしても、見ることができるのだ。それは表情や声ではなく、ちょっとした瞳の揺れだったり、伏せる視線だったりする些細なものでしかないけれど。

「キール?」
「……いえ……何でも、ありません。俺は……寝てましたか。ここは気持ちがいいから」

ごまかすように話題を変えると、フィアルは悪戯に微笑んで返した。頬に触れていた手が自然と離れていく。

「随分寝てなかったみたいね。しかもまた執務室破壊したらしいじゃない?ヴォルクがものすごーく不機嫌そうな顔をして修繕代を請求してきたわよ?」
「寝ましたよ、塔の中で2時間ばかり。それに部屋は片付けてくれなんて頼んでないのに……」

世話焼きの最年長の侯爵の顔を思い出して、キールはまた顔を歪める。しかし彼が片付けてくれなければ、自分の執務室は完全な魔窟になっているような気がしなくもないので、とりあえず黙っておくことにした。ファティリーズ邸でも似たようなことを女官長にぼやかれていることを思い出したが、それもとりあえずは無視しておこうと思った。どうも片付けは昔から苦手なのだ。

「帰ってきたんですね、角半島から」

マントについていた枯草をはたきながら言うと、フィアルは小さく頷いた。そして、それ以上は語らない。軽々しく口にできるような内容ではないのだろうとすぐにキールは悟った。こんな時だけは自分の頭の回転が速いことに感謝する。

「いろんなことが……動くわ、もうすぐ」
「……」
「内乱は大きな『動』で……内乱後の今は『静』だけど、その奥底に『動』の胎動がある。内乱が終わっても綺麗に何もかもが終わるわけじゃないものね」
「兄は……シオンはその胎動の一部だと、思いますか?」
「思うわ」

きっぱりと言い放つその言葉に、キールは一瞬目をつぶった。仲の良かった兄弟ならともかく、自分とシオンは決してそんな関係ではなかった。目の前の姫君の方がよっぽど大切だと断言できる。
それなのに……どうして自分は迷っているのだろう。
彼女は―――――迷ってもいいと言った。けれどそれがもし彼女を危険な目に合わせるとしたら、キールは自分を許すことはできない。
―――――わかっている。焦っているのだ、自分は……―――――どうしようもなく。

「姫……」
「何?」
「姫は……自分がどうしてこんなに無力なのか、と考えたことは……ありませんか?」

その言葉に、驚いたように目を見開くフィアルの顔を、キールはじっと見つめた。淡い蒼と紫の視線が交差して、そのまま止まる。
普通に考えたら馬鹿な質問だ。彼女はどう考えても無力な存在ではないのだから。
けれどそんなキールの想いに反して、フィアルはふっと微笑むと、小さく頷きながら答えた。

「ねえキール……私ってそんなに完璧に見える?」
「……え?」
「私はいつでも無力よ……縛るものが多い分、もしかしたら他の誰よりもそうなのかもしれない」

ただね、とフィアルは続ける。

「私はきっと、それを隠すのが……人より上手いだけなの」

―――――その言葉に、キールは答えることができなかった。


* * * * *


「ラドリアにいるわ」

フィアルは翌日、シルヴィラとロジャー親子、そしてディシスを自分の執務室に呼んだ。もちろんアゼルも同席している。

「残党の多くが国境近くの森に館を構えているのはわかっているけれど、そんなのはどうでもいいこと。ただ贅沢三昧だった昔を懐かしんでいるような小者を相手にする気はないわ。探すべきなのは―――――二人だけよ」
「シオン・ラウル・ファティリーズと……ジョルド・クロウラですね?」

シルヴィラの問いにフィアルは小さく頷いた。
シオンは元より、ジョルド・クロウラの名を知らない者など、13諸侯には一人もいない。内乱を引き起こした神官勢力の中心人物だった男だ。

「ジョルドはどうやら王都セイラスの近くに潜伏しているようだ。この間セイラスに立ち寄った時に、酒場で面白い噂を聞いたよ」
「噂、ですか?」

ロジャーの発言に全員の視線が集まる。それを気にした様子もなく、彼は言葉を続けた。

「レーゼ湖の北には、女神ラーネの嘆きが生んだと言われる暗い森があってね。知っての通りラドリアは太陽を尊ぶ国、その場所は不吉な場所として近隣の村の民からは忌み嫌われている。そんな場所に古い館があるんだそうだ。一日中陽があたらず、夜のように暗い。そんな場所に顔の拉げた男が暮らしているらしい」
「顔の拉げた男って……ジョルド・クロウラか?」
「奴があの顔を治そうと、あらゆることを試していたのは知っているだろう?おそらく間違いないだろうな」

内乱の際、ジョルドがどんなことをしたのか―――――知らない者はいない。
罪のない人々を犠牲にした生体実験、生贄、人柱。果ては皮膚を剥ぎ、己に移植するということまで繰り返していた。異常なまでの顔への執着。

「しかし……内乱前までは、奴の顔はあんな風じゃなかったはずだが……」

アゼルが覚えている限り、確かに少し神経質そうではあったが、彼は普通の男だった。きちんと整えられた茶色の髪と瞳。そう印象が強い存在でもなかった気がする。

「―――――私が、焼いたの」

静かにその声が響いて、その場にいたフィアル以外の全員が身体を固くした。

「……姫?」
「私が焼いたの。あいつの顔は、私が……あの時、光のルーンで焼いた。どんな魔導を使っても、何をしても、絶対に元に戻ることなんて、ありえない」
「フィーナ……お前……」
「あいつは―――――殺したわ」





―――――殺した。





「殺したの」





―――――そう、殺した。





「ユーノスを―――――殺したのよ」





―――――あの人を。
―――――私の、目の前で……笑いながら。





目を見開いたアゼルの持っていた数枚の書類が、ばさりと床に落ちて散らばった。