Clover
- - - 第12章 傀儡5
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隣国のアイザネーゼと接している国境は、特に大地の結界が強い場所でもあった。
―――――リーフが治める、ステラハイム領である。
内乱時はラドリア、アイザネーゼの両国から攻められ、ノイディエンスタークの中でも1、2を争う程被害が多かった土地だ。だからこそ大地自身が結界を強めているのかもしれないと、常々キールは思っていた。

シオンがキールを欲していると報告を受けたアゼルは、キールに他国へ行くことや、国境付近に近づくことを禁じていた。それを破るつもりはなかったのだが、どうしても試してみたい魔導に必要な材料が、ここでしか手に入らなかったのだから仕方がない。黙って出てくるとまた説教を喰らいそうな気がしたので、とりあえず領主と一緒に来た。まぁ文句は出ないだろう。

「アゼル様の文句が出なくても、オレの文句は出るぞ!」

面白くもない材料集めに付き合わされたリーフは不満気だ。しかしその言葉をさらっと無視して、キールは目の前の枝から、若い葉を何枚かそっと摘み取った。

その国境にそびえ立つ木は、デーヌの古木だ。デーヌは普通の樹木とは違い、水の中に根を張る珍しい植物で、大きいものになると全長5m以上にもなる。この古木が根を張っている小さな沼の向こうに、大地の結界はあった。
キールは目的の葉を持っていた袋に入れると、じっとその結界を見つめた。その向こうは草原の国であるアイザネーゼだが、彼はその場所をまだ一度も見たことがなかった。

「……行きたいとか言うなよ?オレがアゼル様と姫に殺される」
「誰も、そんな子供みたいなことは言わない」
「アイザネーゼなんて行ったって、何もなりゃしねえよ……ラドリアと一緒で、汚い国だ」

レインとイオのことは認めたようだが、ラドリアとアイザネーゼを許す気持ちにはまだまだなれそうにないらしい。まだ内乱が終結してから2年しか経っていない今では、それも道理かとキールはその言葉に反論するのを止めた。

「目的は果たしたんだろ?だったら館に帰ろうぜ」
「ああ……そうだな」

デーヌの葉は夕方にならないと開かないので、キールはその日、ステラハイムの館に泊まることになっていた。別にファティリーズ領に戻ってもよかったのだが、ステラハイムの館の女官長が、是非にと言ってくれたので、断るのも気がひけたのだ。まだ歳若い領主であるリーフのことを心配しているのだろう。王都フィストから遠いステラハイムの館に他の13諸侯が訪ねてくるのは稀なことだった。

「しかしお前も物好きだよなぁ。わざわざこんなところまでたかが数枚の葉を取りにくるなんてさ」
「……必要だから来たんだ。仕方ないだろ、この木が一番ノイディエンスタークでは古いんだから」
「魔導の研究ってそんなに面白いか?オレはどっちかっていうと活字読んでると即行で眠くなるんだよなぁ……」
「それはお前があの脳味噌筋肉馬鹿と同じ人種なだけだ」

さりげなくゲオハルトを貶めて会話を終わらせ、キールは自分の精獣である薄紫の一角獣を召喚すると、さっと飛び乗った。リーフはその発言に憮然とした顔をしながらも、口ではかなわないことがわかっているので、とりあえず召喚した自分の天馬に跨る。そして早速飛び立ったキールの後に続いた。
高い空中から見るステラハイム領は、やはりどこかファティリーズの領地とは違って見える。13諸侯が治める領地はそれぞれの特色があり、だからこそこの国は様々な特産物が豊富だとも言えた。

どこまでも続く美しい緑の大地。その全てが、あの姫君一人の祈りで支えられているのだと思うと、キールは感嘆よりも尊敬よりも、むしろ切ないような気持ちになった。
誰も……そのことをどうして疑問に思わないのだろう。
彼女はまるで、大地に祈るためだけに捧げられた人柱のようだ。それを本人がどう思っているのかは別の問題としても。
もしもフィアルがもう祈りたくないと言ったなら、他の13諸侯の誰もがそれを責め、必死で止めるのだろう。けれどキールは、そうは思わなかった。彼女だけが大地の犠牲になる必要は、どこにもない。例えそのせいで、大地が再び死に絶えたとしても、その事実を自分は受け入れる。

(我ながら……危険な思考だとは思うけどな)

―――――けれど自分は、迷うことはないだろう。この心はもう、あの小さな白い花を選んでいるのだから。


* * * * *


ステラハイムの館の暖かい歓迎の後、キールは早々に部屋へと引き上げた。
元々遊びに来たわけではない。小さな明かりをつけて、持参した魔導書を開く。傍らには先程採ってきたデーヌの葉を置いた。
―――――どうしても、これだけは完成させたいと思った。
古い魔導書には先人達の知恵がつまっている。フィアルが良く使う時空魔導は禁断と言われているが、それは裏を返せば先に使った人間がいたからに他ならない。その上で危険と判断されたからこそ、それは禁じ手となるのだ。キールが今完成させたいと思っているルーンは、その魔導書にも途中までしか書かれていない、いわば未完成の術でもあった。いわゆる禁忌と呼ばれる類のものではない。完成してもおそらくは何の役にも立たない。だからこそ未完成で終わっているのか……それをもう知る術はなかった。
―――――けれど。
彼女は……それを喜んでくれるだろう。それで少しでもフィアルの心が休まるのなら、そのための労力は惜しくはないとキールは思った。

ジジ……と蝋燭の炎が揺れる。光球を使っても良いのだが、蝋燭の明かりの放つ柔らかな光が彼は好きだった。
シードも呆れたキールの集中力は極端で、気が付くと3日ほどたっている、と言うことも珍しくない。食べることも眠ることも、その間は全くしなくても支障がない。けれどその分の疲労はその集中力が切れた直後にやってきて、突然倒れることは日常茶飯事だった。それが運悪くいつも、地のフレジリーア候ヴォルクに見つかるのも、不思議な偶然だ。ヴォルクは13諸侯で最年長、そして生まれ持った生真面目な性格も手伝って、世話焼きである。無口で無骨な印象なだけに誤解されることも多いようだが、基本的に面倒見がいいのだろう。

キールが今まさにヴォルクが頭を抱えるその状態に入ろうとしていた時、不意にその蝋燭の炎が不自然に揺れた。目を見張るキールの前で、その炎は急激に色を変えていく。
オレンジから、青へ……そして紫へと。

(―――――紫……)

その色は魔を呼ぶ色だ。ファティリーズの血を引くものが紫の瞳を継承するのがそのいい例で、フューゲルの民が身に付ける魔除けの守り、ハドラル石が青であるのとは対象的だった。

炎の向こうに、うっすらと人影が浮かぶ。
それは徐々に露になり、キールと同じ色を持った青年の姿を映し出した。

「兄上……」

少し癖のあるその栗色の髪を掻き上げながら、魔の青年は微笑んだように見えた。


* * * * *


『お前が火を使ってくれて助かったよ。光球ではこういう芸当はできないんでね』
「……何故……ここはノイディエンスタークの国内のはず……」
『国内であってもお前が自分の手でつけた火には、多少なりとも魔の力が宿る。その力でほんの少し影を送るくらいなら僕にはできるさ』

例えアドラの杖の力でその魔の魔導力が無限であっても、それを扱えるかどうかはまた別の問題だ。おそらくシオンでなければそんな芸当はできない。思わず噛み締めた口唇が切れて、苦い血の味が口内に広がるのをキールは感じていた。

「俺に……何の用ですか」
『ご挨拶だな、久しぶりに弟と話したいと思ってはいけないと言うのか?』

くすくすと笑うシオンを、キールは無言で見つめた。
そんな言葉を鵜呑みにする程、キールは愚かではない。ただ話したいだけなんてことは決してありえない。
糾弾するようなその弟の視線を感じて、やれやれというように兄は肩を竦める。

『……最近ジョルド殿がうるさくてな。魔竜を召喚する為の魔導環を姫に取られた、とね』
「……魔竜……召喚?」
『……知らないのか?ははっ……お前、あんまりあの姫に信用されていないんだな』

おかしくてたまらないという顔で、シオンは大声で笑う。しかしそれよりも、キールには聞かされた事実の方がもっと衝撃だった。
―――――魔竜召喚。
―――――その為の魔導環。
そんなものがあの姫の近くにあるというのか―――――?それはあまりにも危険すぎる。

『魔導環は依代となる、力のある汚れなき人間に現れているはずだ。心当たりはないのか?キール』
「依代……」

不意にキールは、リトワルトで出会ったあの白髪の少年のことを思い出した。
傭兵という生業でありながら……多くの人間を何のためらいもなくその手にかけてきたはずの存在でありながら。ただフィアルに対してだけは、子供のように純粋な愛情を向け続けるあの少年を。

(ネーヤ……あいつ……か)

フィアルがそれを公言しなかった理由もそれで納得が行く。誰かに言うことも、もちろんネーヤを始末することも、彼女は選ばないだろう。一人で何か手立てを模索していたに違いない。魔導環が放つはずの大きな魔の気に、魔の力を持つ自分ですら気付かなかったのは、フィアルがその光の力を以って、ネーヤを保護しているからなのだろう。

『―――――心当たりはあるようだな』

炎の向こうの顔が、にやりと笑みを浮かべるのをキールは見て取った。しかし敢えてそれを肯定することはしなかった。この兄とのやり取りは、難しいかけ引きだ。気を抜いて、自分の意志や事実を気取られるようなことは避けなければならない。

『……まぁいいさ、僕にはどうせ関係のないことだ』
「……関係ない?」
『そう、関係ない。僕は魔竜にはとんと興味がないからね。魔と名が付くもの全てに興味があるわけじゃないんだ。ましてやそんなものでノイディエンスタークに戻れると思っているあの馬鹿な男と一緒にしないでもらいたいな』

シオンは頭が良い。そして、プライドも人一倍高い。ジョルド・クロウラのような小者と一緒にされるのは我慢ならないということか。

「……なら、兄上が今興味を持っているのは、何なのです?」
『そうだな……強いて言うなら、あの姫君には興味があるな』
「姫に?」

キールの眉が不愉快そうに歪められるのを見て、シオンはどこか人を食ったような笑いを漏らした。その視線を遠くへと向け、恍惚とした表情を浮かべているのが、紫の炎を隔てても見て取れる。

『そう……あの存在自体が大いなる奇跡の結晶だ。そうは思わないか?光の者でありながら闇の力まで使いこなし、禁忌と呼ばれる全ての魔導を、あの姫はおそらく使いこなすこともできる。おまけに守護竜は神竜と来ている。ノイディエンスタークという国が長い歴史をかけて作り上げた奇跡なんだよ、彼女は』
「……」
『至高の存在―――――そんなものが目の前にあるのに、惹かれない愚か者がいるか?』
「姫は……至高の存在なんかじゃない……!」

確かに彼女は強い。そして、賢い。大地に愛され、自然に愛されている……そんな存在。
―――――けれど……それでも。





(「私はきっと、それを隠すのが……人より上手いだけなの」)





―――――あの言葉は真実なのだ。
口唇を噛み視線を伏せたキールを、シオンは興味深そうに眺める。そして小さな声でクククと忍び笑いを漏らした。

『お前……そうか……そういうことか』
「……ッ!」
『まぁそれなら話は早い。明日の夕刻にラドリアの国境にある夜の神殿の裏へ来い』
「……夜の神殿に?」

シオンは大地の意思によって、ノイディエンスタークに入ることはできない。その彼が何故自分をラドリアの国境へ呼ぶのか。
いぶかしむ表情を見せた弟に、シオンは笑いを浮かべたまま続けた。

『お前は守りたいだろう?あの姫君を』
「……」
『今ラドリアでは大きな動きがある。ジョルド・クロウラもそうだが、他にも大きなうねりが起こっている。それは遠からずあの姫君へも降りかかるだろう。それを、お前は止めたいと……知りたいと思わないか?』

―――――あからさまな、罠。
そう分かっている。分からないはずもない。絶対にこの誘いに応じてはいけない。キールの理性は間違いなくそう告げていた。
―――――なのに。
どうして……それを―――――素直に受け入れられないのか。
フィアルが言っていた、動の『胎動』……―――――それを知る理由が……きっかけが、少しでもあるのならと考えている自分がいる。

『お前は……必ず来るさ』
「……何故、そう言い切れるのです」
『お前はそういう男だ―――――僕は知っているよ』

炎の向こうで笑うシオンの顔が、風でゆらりと歪む。この兄に……自分の全てを見透かされているような、そんな奇妙な感覚にキールは寒気を覚えた。

『真面目で、優しく、向上心もあるが……お前のそれが一番発揮されるのは、他人のためだ……違わないだろう?』
「……」
『だからこそお前は愚かで、可愛い弟なんだよ……キール』

つっ……と冷や汗が背中を伝う。
―――――もしかしたら。
もしかしたら自分はこの兄を……甘く見過ぎているのかもしれない。
今、キールを支配しているのは……間違いなく本能的な―――――『恐怖』に他ならなかった。

『待っているよ』
「……俺は……行きません!」
『来るさ……お前は必ず来る』

あははははは……と高い笑い声が聞こえたと同時に、目の前の蝋燭の炎は、ボワッと音を立てて天井付近までの火柱になった。しかしそれは一瞬で、すぐに炎は元の柔らかなオレンジになり、部屋をほんのりと灯した。


* * * * *


ジジ……と蝋燭は小さな音を立てて燃えている。そのまま部屋を静寂だけが満たした。

「……ッ……!」

ガタンッと音を立てて、キールは机に寄りかかると、両腕できつく、きつく自らの身体を抱きしめる。伝わる小刻みな震えを、どうしても鎮めたかった。決して認めたくなどない……―――――あの兄へのこの純粋な恐怖を。
ガクガクと震え続けるその腕を見た向こうに、摘み取ったデーヌの古木の葉と……フィアルに許可をもらって、一輪だけ摘み取った白い花が目に入った。

(―――――俺は)
(―――――俺は……ただ……)

この想いが―――――一方的なものだと知っている。
叶うことはおそらくないであろうことも―――――わかっている。
そんなことは望んでいない。ただ……少しだけでもいい。強さの影に隠れた、あの優しい心を……守りたい。
―――――なのに。
どうしてこんなにも、自分の心は……弱いのだろう。

古い魔導書に、うつ伏せるように顔を埋めて、キールはその身体の震えが止まるのを必死で待った。
自然と視界に入る古代のルーン文字をぼんやりと見つめながら、思う。

(明日の……夕刻までにこれを……完成させないと……)

―――――もしも自分に何かあったとしても……これが少しでも彼女の心の慰めになるように。
兄の仕掛けたその罠に……キールは既に応じる覚悟をしていた。