Clover
- - - 第13章 魔竜召喚4
[ 第13章 魔竜召喚3 | CloverTop | 第13章 魔竜召喚5 ]

翌日の早朝に発ったフィアルとネーヤを見送ったのは、アゼルただ一人だった。
それでいい、とフィアルは思う。昨日の今日だ、彼等にも時間が必要なことは、充分分かっているつもりだった。

「帰ってきてください」
「……当たり前でしょ?何言ってるのよ、アゼル」

いつもの軽口で返したのは、アゼルの顔がこれ以上ない程に強張っているのが分かったからだ。自分の決断がアゼルに対して負担をかけるであろうことは予測がついていた。それについて、フィアルは少しアゼルに申し訳ないような気持ちになっている。だからこそ敢えていつもの自分のままでいようと思ったのだ。

「そう……ですね」
「そうよ」
「……お気をつけて」

アゼルは少し安心したように笑い返すと、フィアルの聖獣、セラフィスから一歩離れた。
そんなアゼルの腕を掴んで、フィアルは引き止める。驚いた表情の彼に、フィアルは困ったようにまた笑った。

「ごめんね」
「……姫」
「……ありがとう」

(貴女さえ……ここにいてくれるなら……俺は)

一瞬目をつぶり、腕を握るフィアルの手をそっと外す。そしてアゼルは、聖獣の上から自分を見下ろす彼女に、今度こそ本当の笑顔で答えた。

「謝る必要も……感謝の必要も、ないんです」
「え……?」
「だって俺は、貴女の副官なんですから」

―――――そうだ。
理由なんて―――――それだけでいい。
少なくとも今の自分にとっては、その事実があればいい。

その答えはフィアルには意外だったのか、きょとんとした珍しい表情を一瞬見せる。しかしその真意を悟ったかのように、一度だけ緩やかに頷いた。

「行ってきます!」

隣で天馬に乗っていたネーヤを促して、フィアルはセラフィスを高く舞い上がらせる。
風でその真紅のマントが翻るのを抑えようともせずに、アゼルは徐々に小さくなるその姿をいつまでも見送っていた。


* * * * *


「……よかったのか?」
「何がです」
「このまま、行かせて」

早朝から執務室を訪れた地の侯爵をアークは迎え入れ、お茶を差し出したところだった。その問いかけがどんな意味を持つのか、わからないほど彼は愚鈍ではない。とりあえず自分も椅子に座ると、テラスを渡る風に、その長い黒髪を遊ばせた。

「姫様は、私の意見一つで考えを変えるような方ではありませんよ」
「しかし……」
「そんなことは、私にもわかっていました。けれど……誰かが言わなくてはいけなかったんですよ、ヴォルク。誰も何も言わず、姫様の言うことを全て受け入れるわけにはいかなかったのです」

何故だかわかりますか、とアークは苦笑した。ヴォルクは無言で首を傾げる。

「私の言ったことが、ノイディエンスタークの民が考えるであろうことだったからです」
「……」
「いくら魔の力が悪ではないと言っても、それで我々13諸侯に近しい者が納得できても、民はそうではないのです。民というものは、自分の知らないものを恐れるのですよ……そして一人がそれを恐れれば、他の人間にもそれはまるで呼応するかのように、あっという間に広まります」

アークはいつも穏やかに微笑んでいるその顔をふっと曇らせた。その様子をヴォルクは痛々しく思わずにはいられない。侯爵位を継ぐ者は、13人もいる。しかしその長とも言えるアゼルにはその役を背負わせるわけにはいかないのだ。誰かが悪役にならなければ……その汚れ役を引き受けなければいけないこともある。そしてそれを、アークは敢えて背負うことを選んだのだろう。

「姫様はきっと全てを覚悟していると思います。私が敢えてあの場でそれを口にした意味も、わかってくださっています。それを期待したからこそ、あの方は我々13諸侯に意見を求めたのです。そこまでちゃんと考えた上での行動です。あの方は……本当に恐ろしいほど聡い方ですよ」

ですから、とアークは生真面目な同僚の顔を穏やかな笑顔で見つめた。

「私達は、待ちましょう」
「姫様が……魔竜を連れて戻ってくるのをか?」
「ただ待つだけでは能がないというものです。その後の事態の対処法でも考えながら、待つことにしましょうか」

それが最年長組である我々の仕事でしょう?と言ってのける、誤解されやすいが本当は優しい心根の同僚に、ヴォルクは苦笑した。
そう、今できることをするしかないのだ、我々は。
あの光に―――――忠誠を誓ってしまったのだから。


* * * * *


竜宮の奥にある東屋状のドームを取り囲むように、四頭の偉大なる竜王達は、彼等の愛してやまない人間の娘を迎えた。
ドームの中心には小さな大理石でできた台があり、フィアルはネーヤをそこへ横にならせた後、眠りのルーンをかける。フィアルのすることに決して異議を唱えることの無い、真摯な血の色の瞳は直ぐに閉じられ、深い眠りへと落ちていった。

『……後は、チィが止めている時間を元に戻せば、自然と魔導環は発動する、か』
「うん」

フォルクの言葉がどこか遠くで聞こえたような、そんな錯覚を覚える。眠るネーヤの顔は穏やかで、迷いは見受けられない。ネーヤが恐れるのは、死でも痛みでもなく、ただフィアルがいなくなることだけなのだと、今更ながらに彼女は自覚した。

『迷っているのか?』

ヴェルガーはその深緑の瞳でフィアルを見つめる。その視線から目をそらすことをせず、ただ静かにフィアルは首を横に振った。

「迷いはない……決めたから」
『ならば今、お前は何を考えている?』
「さあ……不思議な気分よ。言葉で言い表すのは、難しいわ」

嬉しいような、悲しいような……切ないような、胸の疼き。
誰よりも何よりも、魔神官に近しい存在の竜が、もうすぐ目の前に現れるのだ。自分がその時空魔導を解除するためのルーンを唱える、それだけで。

『やはり、気持ちは変わらないのだね?竜王陛下を目覚めさせるつもりは、ないのだね?』
「……あの子は、起こさないわ」
『……そうか』

諦めたようなイーファの様子に、フィアルは小さく笑いを漏らした。この優しい竜達が、自分の身を心配してくれているのだと痛い程にわかってしまう。けれど……この決断を―――――止めずに見守ろうとしてくれている。それが正直に言えばとても心強かった。

魔竜とは……ほとんど面識がないと言ってもいい。
内乱が終結した2年前のあの日、魔神官と呼ばれた青年の待つ大広間へ向かう繋ぎの間で、顔を合わせただけだ。ここにいる竜王達とのように、言葉を交わしもしなかった。
―――――ただ。
そう……ただ彼は静かに、静かに彼女を見つめていただけだった。これから自分の主であろう青年と戦いに行くフィアルを前にしても、それを止めるそぶりすら、見せずに。
きっと魔竜は知っていたのだろう。大広間で魔神官の青年が―――――彼女を待っていることを。
彼は待たなければならず、彼女は行かなければならなかった……そしてそれは誰にも止めることはできなかった。もしもその場所に、フィアルの守護竜である神竜がいたとしても、同じことをしたのだろう。二つの翡翠の瞳は、透き通るように綺麗だったと……それだけを強く強く覚えている。

何のために―――――魔竜を召喚するのか。

ファングに魔竜を逢わせてあげたい。
そして―――――どうか自分を憎んで欲しい。
けれど……きっと本当は―――――あの翡翠に、もう一度だけでいい、逢いたかったのかもしれない。
それはもう……どうしようもないほどの、懐かしさと切なさ―――――未練。

(「一番個人的感情に身を委ねているのは姫様、貴女ではないのですか」)

アークの言葉は―――――当たっている。

「……ネーヤ」

フィアルはそっと眠る翼人の少年に近づくと、乱れて額にかかる前髪をそっと掻き上げた。
額に浮かぶ―――――反目の印。
ネーヤが背負うもの、それもまた小さくはないとわかっている。それをフィアルの都合だけで動かしてはいけないことも、知っている。それでも振り解けないのは、その縋る手が、あまりにも純粋だからだ。赤子の手を振り払うことに、躊躇を覚えないほど、フィアルは情のない人間にはなれなかった。

「甘いなぁ……私」

随分と優しいことを考えるようになったものだと、皮肉めいた笑いを彼女は浮かべた。現役で傭兵をやっていた頃は、そんなことを考えたこともなかった。子供であろうと、女であろうと、殺すことに何の躊躇いも感じなかった。我慢とか、そういうことではない。本当に何の感情も、あの頃のフィアルの心の中には存在していなかったのだ。
生まれたばかりの赤子が、生きるために母親の乳を探すのは本能だ。食欲、睡眠欲、排泄欲。目の前の人間をただひたすらに殺していくことは、生きるために人が意識しないで繰り返すその行為と同じレベルでしかなかった―――――少なくともフィアルの中では。

(知らないでいて)
(そんな私を―――――知らないでいて)

それでも心のどこかでずっとそう思っていた。
内乱が起こるその直前まで自分を愛してくれた大切な人達に、そんな自分を知られるのは怖かった。もうこの世にはいない、父親やその親友にさえも―――――知られたくないと思った。

『チィ?』

フォルクが心配そうにその大きな真紅の顔を近づけてくる。いつまでたっても自分を昔のような小さな姫だと思っている彼は、その呼び方を変えようとはしない。

「……大丈夫、なんてことないわ」

その頬に、手を当てて柔らかく撫でる。炎を司る竜であるのに、その鱗は驚くほどに冷たく滑らかで、自然と笑みが漏れた。
そのまま、じっと自分を見つめている他の三頭へと視線を走らせる。
彼等は無言のまま……けれど小さく頷いてくれた。

フォルクの頬から手を離し、フィアルは背筋を伸ばして、横たわるネーヤの身体を見下ろす。
そしてそのまま、その着衣の前をはだけさせると、くっきりと浮かんだ魔導環が露になった。





【―――――時の流れよ】





胸の前で組まれたその手から、白金のオーラが浮かび上がる。それはそのまま柔らかくネーヤの身体を包んだ。





【―――――そこにあるべきもの。正しく形作られる事象……その流れを我に】





止まっていた時間が、急激に元へ戻ろうとするその力が、術者であるフィアルとネーヤの周りにゴオオという音を立てて風を巻き起こした。しかしそれを気にも止めずに四大竜王は静かにその様子を見守っていた。

まるで刺青のように体中に浮かび上がっていたその魔導環は、淡い光を放ちながらネーヤから離れ、空中へと浮かび上がる。空間を漂うようにフィアルの頭上、竜王達の首元あたりまで移動した後―――――。





―――――ピシッッ!!!





音を立てて、それは―――――発動した。
激しい風と、光の奔流……その向こうにある、今までに感じたこともないような魔の波動を、フィアルは何故か静かな心で……けれど確かな現実として受け止めていた。