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- - - 第13章 魔竜召喚5
[ 第13章 魔竜召喚4 | CloverTop | 第14章 闇と魔と1 ]

光と風と……その全てが消え去った後。
四大竜王に取り囲まれる形で、静かにフィアルを見つめていたのは―――――この世に一対しか存在しない美しき翡翠で。


* * * * *


深い漆黒の鱗に透き通った翡翠の瞳を持ったその竜は、動じることなく目の前に立つ人間の娘を見下ろしていた。2年前に見た姿そのままの魔竜から、禍々しい気は欠片も感じられない。確かに強大な闇と魔の気を纏ってはいる―――――けれど、それだけだった。

(「私が……分かる?」)

気を使って竜の言葉で問いかけたフィアルに、今までぴくりとも動かなかった魔竜は、静かに一度目を伏せると、人間の言葉で答えた。

『……巫女姫、だな』
「……ええ」
『竜の言葉で話す必要はない。俺はほとんど竜と交流を持っていないから、人の言葉の方が身近だ』
「……わかった」

フィアルは頷くとまたその翡翠をその瞳に捕らえた。吸い込まれそうな色というのはこういうものだろうかと、ふと考える。

『……お前が俺を呼んだか』
「正確には、私ではないけれど……でも今魔導環を動かしたのは確かに私よ」
『いや……もしも再び俺が眠りから覚めるとするなら、お前が呼ぶと……わかっていた。そういう約束で俺は消滅せず、眠りについたのだから』
「……え?」

それはどういうことかと、尋ねようと口を開いた彼女を遮るかのように、魔竜はすっと頭を下げて、彼女の目の前に顔を近付けた。柔らかに触れるその鱗の感触に……フィアルは言葉を失って、身体を硬直させる。
―――――摺り寄せられる頬。
それは、竜族が親愛を寄せる者にしかしない、最高の挨拶だった。





(―――――……どうして?)





そうとしか……言えない、思えない。
フィアルは間近で見る、その魔竜の瞳を呆然と見つめた。





(だって)





『……お前が背負うことはない』
「……」
『お前が背負えば……彼は悲しむ』
「……私」
『彼が望んだのだ……お前に、殺されることを』

魔竜の瞳が柔らかく細められ、そして優しい光を放った。
その時、胸を貫いた感情を―――――なんと呼べばよかったのだろう。溢れ出そうになる想いに、フィアルは口唇を噛んで俯いた。そうしなければ、崩れてしまう。立っていることができなくなってしまう。
魂を分け合って生まれた、魔竜の半身を想って。





(憎んでは……くれない)





魔竜は……この優しい竜は、決して自分を憎みはしない。
―――――むしろ……愛しいと、想ってくれている。
その失った半身と―――――同じ想いで。

『俺は……人の持つ負の感情に囚われやすい。持って生まれた属性が闇と魔だから仕方がない』
「……」
『歴代の反目の印を持つ者も、同じだった』
「……そう……」

魔竜はもう一度、フィアルの身体に頬を摺り寄せる。それは俯いたままの彼女をまるで励ますかのように優しい仕草だった。フィアルはそれに答えるように、そっとその頬へ手を置くと、ゆっくりと撫でた。

『けれど俺は違う……俺は流されなかった』
「……?」
『彼の良心が、優しい心根が、俺という存在を保つものだった。反目の印を持ちながら、彼の心は強く己を律したままだった……知っているだろう?』

―――――知っている。
そう、きっと誰よりも、知っている。ずっとずっと……前から。
だからこそ、苦しい。

「どうして……私を憎まないの」
『……憎む?』
「私が……彼を殺したのに」

魔竜にとって魔神官と呼ばれたあの青年が、どれだけ大切な存在だったのか、知っている。フィアル自身が自らの半身である神竜を想う気持ちも、言葉には言い表せないほど深いものだ。
それを殺される。それは、自分を殺されるのと同じこと。
なのに―――――どうしてそんなに優しい瞳でいられる?
フィアルは顔を上げて、真っ直ぐにその大きな顔を見つめた。これは絶対に、絶対に自分が背負わなければいけない罪なのだからと。
しかし魔竜は、そんな彼女にますますその瞳の光を和らげた。

『……どうして、俺がお前を憎む?』
「……どうしてって……」
『俺がお前を憎むはずはない……どうしてわからない?巫女姫』
「え?」
『彼が愛した者を……俺が愛さないはずがないだろう?』





―――――泣かないと、決めたの。
―――――内乱が終結した日に。
―――――彼を失った、その日に。





―――――泣く資格なんて……ありはしないから。





瞳に溢れそうになるそれを、フィアルはその意思の力で必死に押し留めた。
この魔竜は、やはりあの青年の半身だ。
優しく、しなやかで―――――誰よりも強い心を持っている。

「……言い訳にしか、ならない……けど」
『……』
「あの人を……殺したくなんて、なかったの」
『……ああ、わかっている』

望んだわけではない、結末。
それはフィアルにとっても、あの青年にとっても、同じだったに違いないのだから。


* * * * *


「名前を……聞いてもいい?」

しばらくして、ようやく心を落ち着かせたフィアルは、少しだけ微笑んで魔竜の頬を撫でた。
竜の名―――――それは、魂に刻まれるもの。
親から与えられ、決して人間には明かさないもの。

『彼が……俺にくれた名だ』
「……ええ」
『俺の名は、ジェイルリアード。ジェイド、と呼ぶがいい』
「ジェイルリアード……ルーン語……?」

通常、竜の名前というものは、全てが竜言語によって意味をなす名前となっている。しかしその魔竜の名は竜言語では意味をなさないただの音にしかならない。しかし、ルーン語でなら、意味を持つ。

『そうだ―――――【穏やかな夜明け】という意味のルーンの名だ』
「……【穏やかな夜明け】……」
『俺はヨシュアと同じで、正当な種族の名を持たない。けれどそれでいいと、そう思っている』
「―――――やめて」

フィアルは強い口調で、ジェイドの言葉を遮った。

「私の前で、彼をその名で呼ばないで」

―――――ヨシュア。
それは、魔神官として生きていた彼の名前。けれどそれは彼の本当の名ではない、神官達が勝手に付けた、【統べる者】という意味の名だ。ノイディエンスタークの民にとってその名は憎しみの対象であり、フィアルにとっても忌むべき名だった。
ジェイドはそれを察したのだろう。その翡翠の瞳を伏せて、小さく頷くとこう言い直した。

『では俺は、お前の前では彼を本当の名で呼ぼう―――――リューク、と』
「……ありがとう」
『そしてお前のことも、彼が呼んでいたその名で呼ぼう、巫女姫……それでいいだろうか?』
「……ジェイドになら……貴方になら、それでいいわ」

フィアルはようやくふわりと本心から微笑んだ。
自分には、たくさんの名前がある。フィアルという名も、フィーナという名も、フィールという愛称も。それは全て偽りの名前ではない。
―――――けれど、彼が。
自らの半身である神竜と彼だけが呼ぶ、その名前こそが本当の名前であると、心のどこかでそう思う自分も確かにいるのだ。





『……テーゼ』





2年ぶりに呼ばれるその名に、また泣きたくなるような切なさを感じる。





(「……テーゼ」)
(「俺は……―――――」)





耳元で囁くように漏らしたその声を―――――今でも鮮やかに思い出せる。
そう……その名で自分を呼ぶ、唯一の人……その人こそが。





(―――――私の……愛したひと)