Clover
- - - 第14章 闇と魔と1
[ 第13章 魔竜召喚5 | CloverTop | 第14章 闇と魔と2 ]

「はぁ……はぁ……」

暗い部屋の中で、その息遣いだけが何故か生々しく響いた。
その部屋のちょうど中央で、彼は頭を抱えて蹲っている。自分の身体を支える術を求めたくても、どこにも拠所がない。
壁一面を取り囲む、赤い水晶―――――魔水晶のせいであった。
もともとキールは魔の力を受け継ぐ者であり、その影響を一番に受ける者と言える。特に侯爵位を継いだ今は尚更だ。そんな彼がこれだけの数の魔水晶に晒され続けること、それは魔に魅入られ、自我を失わせるには充分過ぎるものだった。

意識を研ぎ澄ませ、必死で保とうとしなければ、奪われる。
キール・イエル・ファティリーズという名の―――――自分を。

魔の力に屈服するということは、それ以上の強い魔の力に膝を屈することだ。つまり……アドラの杖の持ち主の人形になるということだ。それだけは、絶対に絶対に認めたくはなかった。
自我を失わせた上で、シオンが自分に何をさせようとしているのか……それはわからないが、自分にとって喜ばしくないことであることは一目瞭然だ。だからこそ決してここで、彼の思い通りになるわけにはいかなかった。

(すみません……また俺はあなたの足手まといになる)

力を欲するなと彼女は言った。けれど……こんな時、心の底から思ってしまう。
―――――力が欲しい。
守りたいなんて、思いあがったことは言わない。
だからせめて―――――彼女に負担をかけないでいられる力を、この手に。
それは負の渇望だろうか……―――――?

ダンッ!と床を何度か叩きつけると、その手からじんわりと血が滲み出す。周りから襲い来るその強烈な魔の波動に、キールが対抗する方法はもはやそんな痛みしか残されてはいなかった。脂汗がその栗色の髪を伝って床へと流れ落ちる。今はあの兄と同じその色さえ疎ましい。床に滲んだ血は汗で薄まり、朱色に広がった。
カラン……と乾いた音を立てて、眼鏡が落ちるのを、キールはぼやける瞳でただ見つめることしかできなかった。

いつまで……耐えられるだろう。
甘い誘惑のような、この強烈な魔の波動に。


* * * * *


「ラドリア、か」
「何だディシス、お前も少しは感傷を覚える歳になったのか?」
「……オレより年上の貴方にだけは言われたくありませんよ」

ラドリアの王都セイラスと、その横に静かな水面を湛えるレーゼ湖を見下ろす、少し小高くなっている台地に立ったディシスは、色を傭兵時代のそれに戻していた。からかうようにその横で笑みを浮かべる前風のレグレース侯爵と軽口を叩き合いながら見るその光景は、穏やかで優しい。
しかし―――――この国は既に腐敗しきっている。

「お前がフィールの側を離れるとは、正直思っていなかったよ」
「……オレだって離れる気なんてありませんでした。でもあいつが……フィーナが行けと言ったんです。その言葉にオレは逆らえないんですよ」
「弱い父親だな」
「貴方もでしょう?」

ディシスの切り返しに、ロジャーは小さく笑っただけだった。

「お前にとってフィールは、一体いつまでフィーナのままなんだ?」
「……一生ですよ。アレはオレの娘です」
「ジークフリートの娘さ」
「……それでも、フィーナはオレの娘ですよ」

心が死んでしまったような内乱勃発直後の彼女を……今でも覚えている。
最初は確かに、主であるジークフリートの最期の望みを叶えたい、それだけだった。守ってくれと頼まれたから、守ろうと思った……それだけだった。

「オレは……ずっとあいつは幸せな、誰よりも恵まれた娘だと思っていました」
「……それは大きな勘違いだな」
「ええ……あんなにジークフリート様の側にいたのに、オレは何も知らなかったんです」

あの時は、気づけなかった。
でも、今ならわかる。

(「この場所は……私を閉じ込める、箱庭だった」)

奥神殿であの娘は確かにそう言った。
そう、あの小さな神殿こそが、内乱前までの彼女の世界の全てだった。大切に守られている……そう言えば聞こえはいい。けれど端的に言ってしまえば、フィアルは既に生まれた時から、あの神殿に幽閉されていたのだ。
神竜が守護竜であるから……そして額に祝福の印を持つから。その事実は人々から敬われるのと同時に、畏怖の念を抱かせるのにも十分だった。だから彼女はいつでも人々の好奇の視線に晒されていた。
フィアルが昔から人を簡単に信じないのは、おそらくその辺りに原因があるのだろう。

そんなこともわかっていなかった自分の心に、愛しさが生まれたのは、いつだっただろうか。
彼女は確かにジークフリートの娘で、大神官であり、祝福の印を持つ者だ。
―――――けれど自分にとっては。
彼女はフィーナ・シュトラウスという名の、大切な大切な娘以外のものではありえないのだ、今は……もう。

「だからオレは……あいつの幸せを望みます」
「親だからか」
「親っていうのは、無条件でそう思うものなのでしょう?」
「さあ……私は親としては失格かもしれないからな。お前とは大分違うと思うよ」

風に揺れる柔らかな明るい茶色の髪を、手で押さえながらロジャーは微笑む。

「でも」
「……?」
「シルヴィラには……私より先に死んでほしくはないと……思う」

静かにレーゼ湖の湖面を静かに見つめるその様子を、ディシスはぼんやりと見つめながら思った。
この人も―――――父親の瞳をしている。
ジークフリートが、そしてユーノスもよく見せた、あの瞳をしている。
そして自分もきっと今、同じ瞳をしているのだろう―――――と。


* * * * *


『一緒に行くよ、チィ』

洞窟の出口まで出た時に、フォルクにかけられた言葉にフィアルはゆっくりと振り返った。
彼女の隣に立つ魔竜の背には、今だ意識が戻らないままのネーヤがぐったりともたれかかっている。

「一緒にって……フォルク」
『とりあえず今はオレ達の誰かが一緒に行った方がいい。本当は全員で送ってやりたいところだが、さすがにそれは目立ちすぎるだろう?』

この一番歳若い竜王が、自分と魔竜に気をつかっていることに気付いて、フィアルは微笑んだ。確かにいきなりジェイドだけをつれて戻るのも、乱暴かもしれない。四大竜王の一人であるフォルクが一緒ならば少しはそれも和らぐというものだ。

『じゃあ……俺も行こう』
「シェルも?」
『久しぶりに……あの王宮へ戻ってみたい。懐かしい……遠い思い出に浸るのも悪くないさ』

この竜王達は、かつては大神官の守護竜だった。
内乱時に破壊され再建されたとはいえ、ノイディエンスタークの王宮には、思い入れもあるのだろう。それを感じて、フィアルはフォルクとシェルの好意を受け入れることにした。

そのままセラフィスを召喚しようとしたフィアルを、ジェイドが顔を近づけることで止める。きょとん、とした顔で見上げると、ジェイドは背中に乗れ、と小さく呟いた。無愛想なのに優しいその口調にフィアルはふと、レインの顔を思い出す。よくよく見るとジェイドはあの王子に似ているかもしれない。少なくとも彼の主であった魔神官の青年はこう無愛想ではなかった。
くすくすと忍び笑いをしながらフィアルは頷き、その背に乗る。そしてネーヤの身体をそっと支えてやった。

『【空の子】はまだ目覚めないのだね』
「仕方ないわ……口には出さなかったけど、相当つらかったと思うもの」

ネーヤを覗き込むように顔を近づけてきたイーファにフィアルは苦笑で答えた。
そんな彼女をしばらく無言で見つめた水竜の王は、静かに愛しい娘に問いかける。

『姫……君はこの【空の子】をどうするつもりだい?』
「……どうするって?」
『この子は、君への依存が大きすぎる。君を失えば……生きていくことができないだろうね』

―――――見透かされている。
その水の瞳を見つめながら、フィアルは強くそう感じた。

『その子を置いていってはいけないよ。君はその子に自分と同じ想いをさせてはいけない』
「縛る言葉ね、それって」
『姫』

諌めるようなイーファに、フィアルは少しだけ笑って答えた。

「心配しないで」
『……』
「ネーヤは私とは違う。ネーヤには……選ぶ権利も、勇気もあるはずなの」

自分の未来を決める権利。
それがなかった自分とはネーヤは違うのだ。

『それを君は選ばせるのかい?彼に自分で、その道を?それは残酷だよ』
「私が選ばせるのではないわ……ネーヤが決めるのよ。それがイーファから見てどんなに残酷に見えても、本人が選んだことなら、それは間違いではないと、私は思うわ」

そう言ってふわりと彼女が笑う。
どうしてこの娘はこんな風に笑えるのだろう。
その笑顔はいつも、竜王達の心に切ない痛みをもたらした。
それはきっと、彼女の半身でもある彼らの王、神竜であっても同じなのだろうとどこかで思う。

―――――そんな彼女を背に乗せた魔竜は、何もかもを悟ったかのように、ふっとその翡翠の瞳を伏せた。





―――――しばらくの後。
ふわりとした独特の浮遊感と共に、三頭の竜は並んで高く空へと舞い上がった。
白亜に輝く王宮のそびえるノイディエンスタークの王都―――――フィストへと向かって。