Clover
- - - 第14章 闇と魔と2
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フィアルが魔竜を召喚するために、再びあの竜の角半島へ発ったとゲオハルトから聞かされても、レインにとってそれは必然でしかなかった。
それよりもノイディエンスタークの重要な機密であろうその話を、何のためらいもなく、ゲオハルトがしたことに驚いた。

「全然驚かないんだな、レイン」
「……ああ、俺は……」
「もう知ってた……か」

戸惑う様子すらない指摘に、レインは素直に頷いた。その様子にまいったなぁ、とゲオハルトはガシガシと前髪を掻きむしる。

「おひーさんは、話しやすかったんだろうな」
「……何故だ?」
「レインやイオは、オレ達と違って魔竜に対して先入観がないだろ?」

少しだけ切なそうに笑うその様子に、レインとイオは顔を見合わせた。いつも豪快で単純明快なこの剛の侯爵がこんな顔をするのは珍しいことだった。

「オレはさ……どうしたらいいのかわかんねえってのが正直なところなんだ」
「……弱気、ですね」
「そう言うなよ。オレにとってはおひーさんが闇魔導を使うのも複雑だし、魔竜に対してもいいイメージがない。こればっかりはあの内乱を見てきてしまったからどうしようもないんだよ」
「13諸侯の間でも意見が分かれているのですか……?」
「まぁな。手放しで賛成してるのはきっとキールと……イースだけじゃねえかな。他の奴らは戸惑ってたり、反対してたり……まぁいろいろだ」

心地良い風が三人の頬を撫でていく。その風に髪を遊ばせながら、彼等はこの場にいないあの姫君をぼんやりと想った。

「……でも……フィールはもう」
「ああ……行っちまった。後の責任は全部自分が背負うから止めるなって。誰も何も……言えなかったよ」

言えないだろう。
フィアルにはいつも凛とした覚悟がある。すっと伸びたその後姿を、何故か誰も追うことができない。

(―――――ああ、そうだな)

レインは彼女のその強い瞳を脳裏に思い描いた。

(俺達は……似ているんだ)

本当の自分を誰にも見せられない―――――その頑なな心。

(「私とあなた、同じ匂いを感じる」)

彼女がそう言ったのは、フューゲルで竜騎士王が夜這ってくる直前のことだったか。あの時は漠然としか理解できなかったその言葉の意味が、今ならわかった。
自分が失ったように、彼女もきっと何かを失っている。だから自分達は同じ影を背負っているのだろう。

(―――――何を失くした?)

もしかしたら―――――彼女も同じように、一番愛しい何かを失ったのではないのか。
けれど、その真実をフィアル自身が語ることはないだろうと、レインは何故か強くそう思った。

太陽が西へと傾き、もうすぐ二つの月が顔を見せようという時間の風は少し肌寒い。
フィアルはもう―――――魔竜を召喚したのだろうか。
そして……この国の民は、その事実をどう受け止めるのだろう。
執務室からその赤く染まる空を見つめていたアゼルをはじめとする諸侯達の誰もが、その時を不安と共に待つことしかできなかった。


* * * * *


「レイン様は……やはりお変わりになられましたね」
「……?」

その日の深夜になってもフィアルは戻る気配がなく、そのまま眠る気にもならず、レインは夜着にも着替えぬまま窓枠に寄りかかり、ぼんやりと王宮の中庭を見つめていた。そんな時に不意にイオに声をかけられて、レインは怪訝そうに眉を歪める。

「変わった……?」
「ええ、変わられました」
「……俺は何も」
「前に比べれば……本当に柔らかな顔をされるようになりましたよ。ご自分では気づいていらっしゃらないのでしょうね」

イオは小さく笑うと、近くにあったテーブルの上にグラスと酒を並べた。どうせ眠る気にはならないであろう主と、酒を飲み交わすのも今夜は悪くはないだろう。

「あの姫君のおかげかもしれませんね」
「……フィールの?」
「彼女の行動や考え方は、今までラドリアで暮らしてきた我々の常識とは程遠いところにありますから。それがかえってよかったかもしれません」

イオは琥珀色の液体をグラスに注ぐと、そのままレインへと差し出した。レインは納得いかない風ながらもそれを受け取り、口をつける。

「姫君に、この間言われました」
「……何をだ?」
「今のラドリアは、綺麗な物語のようだと」

その言葉に、レインは目を見開いて忠実な副官の顔を見つめた。しかしその視線を避けるように、イオの顔は俯いたままだった。

「できすぎていると……彼女はそう言いました」
「できすぎて、いる?何がだ?」
「私も……そう思いました。……いえ、本当はずっと思っていたのです」

見透かされたと思った。あの淡い蒼の瞳に。
ずっと考えていたことではあった、けれどそれを否定しようとしている自分も確かに存在していた。
そんなはずはないのだと。今自分が見ているラドリアの姿が真実なのだと。何度も自分自身に言い聞かせた。

「ラドリアが綺麗だとは……どういうことだ」

レインの眼光が鋭くなる。イオの、そしてフィアルの考えていることが、彼には想像がつかないのだろう。
―――――それは、当たり前だ。
それが、今までレインの知るラドリアという国の真実なのだから。
だからこそ、イオはそれをレインに語ることができなかった。自分を睨み付けている主に曖昧に微笑むことしかできない。

「レイン様」
「……?」
「変化を、望まれますか」

彼がリルフォーネを失ってから、ずっと止まっていた時を動かすこと。
それが―――――変化だ。
イオの意図を感じ取れずに、レインは戸惑ったように視線を揺らす。

「……変化を、望まないのなら。貴方はここにいてはいけない」
「……どういうことだ?」
「あの姫君は危険です。貴方が望もうと望むまいと、彼女の側にいれば貴方は変わらずにはいられないでしょう。現に今でさえ貴方は変わり始めている」
「イオ、何が言いたいんだ」

遠回しなその言い方に、珍しくレインは苛立ったような態度を見せた。
それこそが、変わったことの証だと彼は気づいてすらいないのだろう。

「……リルフォーネ嬢を、今でも想っていらっしゃいますか?」
「……その名前を、俺の前で言うな」
「―――――レイン様」

彼はまだ逃げている。その事実を受け止め、前に進むことができずにいる。けれど、顔を背けたレインをイオは無言で見つめた。答えを促すように。





「……忘れることなど、ありえない」





その視線に耐えられなかったのか、レインは搾り出すような声で小さく答えた。

「貴方の心に、今もリルフォーネ嬢は生きている。けれど本当に……今でもそれだけですか」
「……何?」
「貴方の心のどこかには、既にあの姫君がいるのではないのですか?」

その言葉はレインを呆然とさせるのには十分だった。この副官は一体何を言っているのだろう。
そんなレインに、イオは真剣な顔で続けた。そうすることが今はどんなに否定されようと、憎まれようと、自分のするべきことだと思えた。

「それはリルフォーネ嬢への想いとは必ずしも同じではないでしょう。恋愛……感情ではないのかもしれません。けれどレイン様、貴方は姫君を人間として愛しく想っていらっしゃるのではないのですか」
「お前……何を」

レインの手からグラスが滑り落ち、カシャンという細い音を立てて、床に飛び散った。それに目を向けることもなく、二人は目を逸らさずに対峙したままだった。

「……不安、です」
「……イオ?」
「正直に言うと、私は不安で仕方がない。あの姫君は……貴方にとって、危険だ。彼女は何か……とてつもない闇を背負っている、そんな気がしてならないのです」

―――――信じきれない。
あまりにも彼女はつかみどころがなさすぎて、その不安を助長させる。

「その闇が、レイン様を今よりももっともっと苦しめるかもしれない。だから最初は……私は貴方に姫君からは離れて欲しかった。近づいて欲しくなかった」
「……」
「けれど最近になって、思うのです。危険であっても、例え苦しんだとしても……貴方が変われるのならその方がいいのかもしれないと」

イオは一歩レインの元へと近づいた。砕けたガラスが足元でジャリ……という音をたてたが、二人ともそれを気にする余裕はない。
窓枠に座ったレインは、自然とイオを見上げる形になった。

「お前は……俺に、どうしろというんだ」

幼い頃から、ずっと側にいた存在。レインはイオを時にうるさく思うことはあっても、信頼している。
その彼が……こんなにつらそうな顔を見せるのは、初めてではなかったか。
イオはそのまま自分の手をレインの両肩に置くと、まるで許しを請うかのように深く頭を下げた。

「レイン様……」
「……」
「……忘れることは、罪です。貴方は決して、リルフォーネ嬢を忘れることはできない」
「……当たり前だ」
「けれど……」

ずっと、ずっと苦しんできた。
心を殺して、泣くことすらできず……どこにも居場所のないままに。
そんな彼を見守ることはつらかった。何もできない自分が歯がゆかった。

―――――けれど。

あの姫君といる時、彼の顔が変わることに気付いた。
無表情なのは相変わらずだが、その語らない口の端がわずかに上がるようになり、少しとはいえ微笑をみせるようにすらなった。言葉が増え、纏う雰囲気が柔らかくなった。

彼女は彼を憐れまない。彼を傷つけるのではないかと自分達が今まで躊躇していたような言葉を、迷わずにぶつける。それどころか傷をえぐるようなことを平気でする。
そのことが―――――逆に救いになることもあるのだと、この国に来てイオは初めて知った。

「忘れることはできなくても……それを思い出に変えることは……決して罪ではないのです」
「……イオ」
「……もう、いいのです。貴方は……変わってもいいのです、レイン様」

それは―――――ずっと……ずっと言いたかった言葉だった。
リルフォーネが死んでから、レインだけではなく、自分の時も止まってしまっていたことに、ようやく気付く。
―――――もう、いいのだ。
自分も、レインも……少しずつでも、変わっていいのだ。





顔を伏せたままの副官の瞳から溢れた涙が、毛足の長い絨毯に、割れたグラスの中の液体とは違う染みを作っていく。
それを、レインは言葉なく見つめることしかできなかった。