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- - - 第14章 闇と魔と4
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ジェイドを塔へと残して、フィアルはまずネーヤの元へと戻った。
その後にはもう王宮へ行かなくてはならない。フォルクとシェルだけに全てを押し付けたままにするわけにはいかなかった。
できるだけ静かに、その部屋の扉を開けると―――――寝台に上半身を起こした翼人の少年の姿が目に入った。

「ネーヤ?」

ぼんやりと自分へ視線を向ける彼に苦笑して、フィアルはそっと寝台に腰掛け、彼の頬へと手を伸ばす。

「大丈夫……?気分は悪くない?」
「……フィーナ……?」

まだ状況はよく飲み込めていないらしい彼の頬を何度も優しく撫でる。それが心地良いのかネーヤはすっとその血の色の瞳を閉じた。

「僕は……召喚した」
「うん……召喚した」
「魔竜」
「そう、魔竜……覚えてる?」
「うん……覚えてる」

少しずつ記憶が戻ってきて、受け答えが普通になってきたネーヤに、フィアルは内心ほっとしていた。
あれだけの負担が身体にかかっていたのだ。何か彼に悪い影響が残るかもしれないと正直、危惧していた。

「……魔竜は?」
「うん、無事よ」
「逢えた……?」
「うん」
「よかった……」

(……よかった?)

どうして魔竜が無事なことが、よかったのか。ネーヤにとってはよかったことなど一つもなかったはずなのに。
少しだけ疑問が残って、フィアルが首を傾げると、ネーヤは少しだけ大人びた微笑を浮かべた。

「フィーナが、魔竜に逢いたがっていたから」
「……ネーヤ」
「フィーナが嬉しければ、僕は嬉しい。だから魔竜が無事でよかった」

―――――翼人は、聖なる存在なのだという。
人よりも高位にいる存在なのだと。それ故にその存在は伝説のように語られてきたのだと。
そんな存在が、何故こんな自分をここまで想ってくれるのか……そのことがフィアルには以前から不思議でならなかった。
他の人間よりも血に汚れた手を、何故迷うことなく求める?
こんなに心に闇を抱えた自分を、どうして求める?
それはネーヤだけではなく、今自分の立つ、このノイディエンスタークの大地も同じだった。

フィアルは無言のまま、そっとネーヤの額へと手を伸ばす。魔竜を召喚さえすれば、消えると思っていたその反目の印は、未だに残ったままだった。

「これはきっと……私の望みなのね」

人の気持ちに敏感で、感受性の強いネーヤだからこそ。

「だから……消えないんだわ」

それはその場所へ留まる。いつも彼の額に運命のように刻まれていたその印。

フィアルはいつも下ろしている前髪を少しだけ掻き分けて、ゆっくりとネーヤと額を合わせた。正反対の存在であるはずの祝福の印と反目の印は、そうして触れ合っても何の反応もない。

―――――そう……ただ静かにその場所にあるだけだった。


* * * * *


自分の執務室がもぬけの空になっているのを確かめて、開け放されていた大きな窓から、フィアルは中庭へと歩を進めた。あのアゼルがこんな状態で出て行ったということは、よっぽど慌てていたのだろうな、と少しおかしくなる。

アゼルには……きっと一番心配をかけているだろうという自覚はあった。今後、自分と諸侯達、そして国民との間で板ばさみになるのは間違いなくアゼルだ。大変な役目を負わせてしまう。

―――――巻き込む。

結局大神官が何かをしようとすれば、神官長は巻き込まれるのだ。かつて父であるジークフリートが、本人の意思だったとはいえ、神官長であり親友だったユーノスを巻き込んでしまったように。

けれど……やらなくてはいけないことはたくさんある。
フォルクとシェルがいるであろう中庭の噴水へと歩きながら、フィアルは頭の中を整理した。

魔竜の存在によって起こるであろうこれからの事態の収拾。
囚われたキールの救出。
……そして。

(行かなくちゃ……いけない)

ラドリア、あの国に……逢わなくてはならない人物がいる。
逢えば、常々抱いていた疑問は解ける。

(そんなに……時間があるわけじゃ、ないか)

きっとそう、その時はすぐ近くまで来ているだろう。
でもその時、自分はまた巻き込むことになる。いや……もう既に巻き込んでいるのかもしれない。

(―――――レイン)

彼が―――――ラドリアの王子である限り。


* * * * *


やがて赤と銀の巨体が視界に入って、フィアルは思わず苦笑を漏らした。あの熱血な火竜と気まぐれな風竜は、どんな顔で諸侯達に説教じみた説得をしているのだろう。少しだけ悪戯心が働いて、フィアルはそっと手近な木の陰に身を隠した。

「魔竜に逢えば……何が変わるのですか?」

静かな声―――――それは聞き慣れた水の女侯爵のものだった。

彼女は魔を憎む。キールを、ということではない。それはただただ……シオンを憎むが故のことだ。魔竜召喚の事実を告げる前からフィアルにはわかっていた。それに一番反対するのも、嫌悪感を覚えるのも……イシュタルだと。

あの時、自分に対して言葉をぶつけたのは確かにアークだった。けれどそれは、彼が自ら汚れ役を請け負っただけに過ぎず、本心から魔竜召喚に反対していたわけではないことは、フィアルにはよくわかっていた。アークやヴォルクはその立場上そうしただけのこと……彼等は本質的には偏見のない平等な人柄なのだ。

闇や魔に対する偏見は、それによって失ったものの大きな人間ほど激しい。イシュタルやリーフだけではなく、いつもは温厚なメナスやゲオハルトのような人間でさえそれを簡単には受け入れようとしなかったことからも、それは明らかだ。

そして……彼等は知らない。
その心が……新たな悲劇を生むという事実を。

「あたしは……魔竜に逢ったからといって、何かが変わるとは思えません。逢う必要性も感じません」
『……水の娘よ、逢いもしないで何故変わらないと言い切れる?』
「……魔の力は、嫌いです。大切なものを……いつも奪ってゆくから」
『汝からそれを奪ったのは、魔竜ではあるまい?』
「……わかっています。でも、受け入れたくはないんです」

―――――イシュタルも、葛藤しているのだ。
それは、わかる……だから責める気はしない。誰もそんな彼女を責められない。
……しかし炎の竜王はそんな彼女を許しはしなかった。
その瞳に本来の気質であろう、激しく暗い炎が揺れる。

『……ならば水の娘よ。汝は自分が同じ立場に立たされても同じことが言えるのか?』
「……同じ立場?」
『水の力で大切なものを奪われた者に憎まれても、汝は何も感じないか?』
「……それは……」
『力は悪ではない……決して悪ではないのだ』

―――――力を悪と言うのならば。
力の体現ともいうべき彼等、四大竜王の存在こそが悪になる。

炎に焼かれた者が、炎を憎み。
風に切り裂かれた者が、風を憎み。
水に溺れた者が、水を憎み。
地に埋められた者が、地を憎む。

それはあまりにも偏った―――――憎しみのかたち。
誰の目にもそれは明らかなのに……闇と魔の力に関しては、それを人は疑問にすら思わない。


* * * * *


『……いつまでも隠れているのはずるいのではないかな?』

風竜王の不意の言葉に、フィアルは我に返った。
自分がここにいることは既に二頭には知れていたらしい。笑いを含んだ視線が共に投げられた。
緊迫していたその場の雰囲気が、ふわりと柔らかなものへ変わるのを、誰もが感じたことだろう。

『隠れていないで、出てきたらどうだい?小さなお姫様』
「……なんだ、バレてたの?つまらない」

しぶしぶと姿を見せた彼女に驚く諸侯達の視線をさらりとかわして、フィアルはつかつかと二頭へと歩み寄り、その頬に手を当てた。

「……で?お説教は終わったの?」
『説教なんてしてないぞ』
「説教じゃなきゃ何なのよ、フォルク?皆渋い顔してるわ。まるでアゼルに説教された後の私みたいな顔よ?」

そこで引き合いに出されて、アゼルの顔が最大限に歪んだ。いつも通りのその様子に、諸侯達から力が抜けるのをフィアルは視界の端に捕らえていた。

「……フィール」

炎の竜王と先程まで対峙していたイシュタルに、フィアルは少し困ったように微笑む。自分を見る彼女の視線が、まるで途方にくれた子供のように見えて仕方がなかった。
仕方がない―――――そう、イシュタル一人を責めても、何も解決などしない。

「フォルク……あんまり女の子をいじめちゃだめよ」
『いじめてなんてない』
「じゃあやっぱり説教でしょ」
『お前な……誰のために俺が慣れないことしたと思ってるんだ』

心外だ、というようにプイと横を向いてしまったフォルクに苦笑いしながら、フィアルは横にあるシェルの顔を覗き込んだ。

『やれやれ、適わないね……我等の小さなお姫様には』
「適ってもらっちゃ困るわよ……でも、ありがとう」

小さくそう告げるフィアルに、フォルクとシェルは顔を見合わせて柔らかくその瞳を細める。とりあえず自分達の役目は終わったらしいと敢えて言葉にしなくてもわかったようだった。

二頭の頬に置いていた手をそっと外すと、フィアルはその場に並んだ諸侯達に向き直る。
顔には笑顔を湛えたまま、けれどその瞳だけが奇妙に冷静なのが不思議だった。

「魔竜を―――――召喚したわ」

まるで宣言のようなその言葉に、誰も何も返せない。

「これが―――――私の決断よ」

そこにあるのは―――――その事実だけ。
凛とした淡い蒼の瞳に―――――迷いは微塵もなかった。