Clover
- - - 第14章 闇と魔と6
[ 第14章 闇と魔と5 | CloverTop | 第15章 心の狭間1 ]

「―――――委ねてしまえば、楽になるのに」

耳に入った自分以外の声に、ゆっくりと瞼を開くと、どこから出したのかビロード張りの椅子に腰掛けた兄の姿が見えた。シオンは足元の床に倒れこんだ、乾いた血にまみれた弟を、至極楽しそうに見つめている。

「委ねてしまえば……全てを委ねてしまえば、お前は楽になれるのに」

まるで誘うような、毒のある声に、キールは力を振り絞ってふるふると力なく首を振った。その強情な様子に、シオンはますます楽しそうに瞳を細める。

「何故お前は魔を遠ざける?お前の属性は魔、受け入れるのが道理だろう?」
「……あ……なたの…犬になる気は……ない」
「犬、ね……僕はそんなもの望んでやしないよ」

そう言うと、シオンは椅子から立ち上がり、伏せたままの弟の顔を指で持ち上げた。
同じ紫水晶の瞳が交差する。こうも違う生き方を選んでいるというのに、その色のなんと似通ったことか。

「馬鹿だね……お前は本当に愚かだ」
「……兄上には、わかりません」
「無知というのは愚かなことだよ」

―――――ザシュッ!

シオンはその顔に冷たい、ぞっとするような笑みを浮かべると、キールの胸倉を掴み上げて壁際の魔水晶めがけて叩きつけた。細いその身体のどこにそんな力があったのかと思えるほどのすばやい動きだった。

激しい衝撃と共に、尖っていた魔水晶の一部が背中に刺さって、ただでさえ弱っていたキールはゲホッ!と少量の血を吐き出す。

しかしそんな様子に動揺することもなく、カツカツと音を立てながら、シオンは弟へと歩み寄り、自分と同じ栗色の髪を掴みあげ、グイッと上を向かせる。口の端から伝う血を、その青白くも見える指で擦り取ると、その頬へと塗りつけた。

「―――――教えてやろう。今……この大陸で何が起こっているのか」
「……ッ!」
「教えてやらなければ……愚かなお前は、一生知るはずのないことだからね」

そう言って、笑う兄のその顔は、恍惚とも呼ぶべき感情だけが浮かんだ、狂ったものだった。


* * * * *


「そもそも―――――何故この大陸でノイディエンスタークの大地にだけ、意思というものが存在するのか。それは未だ誰も知らないことだ」

血を吐いたままのキールを、再び無造作に床に叩きつけた後、シオンは手についた血を神経質そうに見つめた。

「そしてその大地が、何故大神官家の血にこだわりを持ち、その祈り失くしては存在できないのかも同じように謎だ」

近くにあった布で、手の血糊をぬぐうと、シオンは再び椅子へと腰掛けた。そして楽し気に虚空を見つめたまま、話を続ける。そんな兄を霞んだ瞳でキールはぼんやりと見つめた。まるでその声は遠くで聞こえる子守唄のように聞こえていた。

―――――けれど。
人は、それを認めることを拒む。自分の中に闇があることを憎む。
それは……大地も同じだった。
長い年月、大地は自らの中にある闇と魔を認めることを拒み続けてきた。自分の一部であるはずのそれを切り捨ててきたんだ。
では―――――切り捨てられた闇や魔は、どうなると思う?

「―――――大地の闇は……千年に一度……一人の人間として、生れ落ちる」
「『反目の印』を―――――持つ者として」
「強力な力を持ち―――――その身を守護する同姓の魔竜と共に生まれるんだよ」

―――――その言葉に。
ぼやけていた思考が、視界が、急激に戻ってくる。
痛みを堪え、床についた手で自分の身体を必死に支えると、キールは強い瞳で兄を見つめ返した。

「……ば、かな。では……反目の印を持つ……者は、大地の意思を受けた者だと……いうのか」
「そうだとも。大地に切り捨てられた、憐れな闇と魔の結晶。それがあの印を持つ者だ」

けれど、反目の印を持つとはいえ……所詮は人の子だ。
何度生まれ、何度倒されても……その闇を完全に昇華することなどできなかった。

「特に……2年前、お前の大切な姫君に倒された魔神官は、頑固な程に意志の強い男でね。己の中で増幅していく闇に、決して屈しなかった。完全な闇になってこそ、倒されて意味があるものを……それをさせなかったのさ」

シオンは自分を睨み付けてくる弟に、にっこりと微笑んでみせる。

「愚かだろう?そう、お前と同じように愚かな男だったよ」
「……ッ!」
「結局、反目の印を持つ者が何度生まれて、消されても……大地の闇を完全に浄化することはできない。それは、ノイディエンスタークに……あの国に淀みを生む」

そんな日々が何百年、何千年と続くうちに……大地の闇はひとつの大きなうねりになり……そしてついに他国へと流れた。
大地に見捨てられた、大地の一部分。それはついにノイディエンスターク以外の国へ生れ落ちたのだ。

「それが―――――どこに生れ落ちたのか。お前にはわかるだろう?」

シオンの問いに、キールの頭に浮かぶ国は、一つしかなかった。





―――――ラドリア。





生れ落ちる―――――闇。
本来ならありえるはずのない……闇の色を纏った王子。





―――――レイン。





「……そんな……馬鹿な……」

搾り出すようにキールは呟く。思わず噛んだ口唇から、じわりと血が滲み出て口内に鈍い鉄の味が広がった。
しかし―――――彼は……闇を飼っているようには見えなかった。魔の波動もまるで感じなかった。そんな人物が、大地の闇を一身に背負っているとでも言うのか。

「お前が誰を思い浮かべているのか―――――僕は知っているよ」
「……兄上……」
「それはある意味正しい。そしてある意味では間違っているんだ」
「……兄上は……一体何を……何を……望んでいるのです!」

―――――わからない。
こんな話を聞かされても……それでも彼自身の意図は見えない。
まるで傍観者のように、時々手を出しては、その歴史を狂わせる者のようにしか、今のキールには兄を捉えることができなかった。

必死な瞳で、自分を見つめてくる同じ色を持つ弟に、面白そうな……それでいて見下したような視線を投げて、シオンは立ち上がる。そしてそのまま、床についていたキールの手を、思い切り踏み潰した。シオンが堅い靴を履いていたのなら、手の骨が砕けていただろう。弟が苦悶の声を上げるのを、ただ聞き流して、シオンは微笑んだ。

「僕は―――――僕さ」
「……兄ッ……上……!」
「僕は僕以外のものではない、僕は僕以外の意思では動かない、動かされない」

痛みを堪えてキールは視線を上げ、兄を見上げる。
―――――その時に気付いた。
彼の瞳の色が、自分とは異なった色をしていることに。





その色は―――――燃えるような、血の色。





「……お前……は……?」
「……」
「お前……誰……だ?」





―――――違う。
これは、あの兄ではない。昔から知っているあの兄ではない。
その視線を受けて、シオンはひどく冷酷な笑みを、弟であるはずのキールに向けた。





「私は―――――――探求者だ」





その声は、キールの知る兄のものよりも、もっと低い大人の男の声だった。