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- - - 第16章 王冠を戴く者6
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(はやく)
(はやく―――――しなくちゃ)
(きづかれてしまう―――――まえに)

そのことだけで、頭がいっぱいになって。
その後のことは、良く覚えていない。

ただその時に思った。
ユーノスのことは……今は考えてはいけないのだ、と。

(「俺のちっちゃな姫さん」)

あの優しい声を―――――思い出してはいけないのだと。


* * * * *


目の前に山積みになった各領地からの魔竜関係の書類を、フィアルはぼんやりと眺めていた。

ジェイドとネーヤが、自分の半身である神竜の結界に近付いたことはわかっている。
あの場所には、気付かれないように幾重にも結界があり、決して彼女に気取られずに近付く事はできない。そしてジェイドとネーヤが近付いたその場所から先の結界は、攻撃結界であり、侵入者を一瞬の内に消し去る種類のものでもあった。

それほどに、彼女は誰かが神竜に近付く事を、拒んでいた。
例えそれが、リュークの半身であるジェイドであろうとも。

少しでも、神竜を起こす可能性のあるものを、近づけたくはない。
フィアルが奥神殿に人を入れたがらないのは、その理由も大きかった。

「……姫?」
「……え?」
「どうしました?」

ぼんやりと視線を上げると、そこには怪訝そうに自分の顔を覗き込むアゼルの姿があった。
この仕草は遺伝だろうか?ユーノスも同じように、首を傾げながら自分の顔をよく覗き込んでいたような気がする。
そう思って曖昧に笑うと、アゼルはそれを違う意味に捉えたようだった。

「……魔竜のことは……」
「…へ?」
「今は受け入れられなくても、時間をかければ……」
「あ、ああ……違うの、そうじゃないのよ、ごめん」
「では、キールのことですか?それなら今準備を進めていますが……4日後のセイルファウス王子の戴冠式が終わってからでないと……一番警戒が強い時期ですから」
「いや……それでもなくて」

生真面目なところは母親似だなぁなどと、フィアルはのんきに考える。ユーノスにはこういうところはあまり感じられなかった。

「お疲れですか?」
「ううん、そうじゃなくてね……何だかユーノスのことを考えてたの」
「……父上の?」
「そう……さっきの顔を覗いてくるところがそっくりだなぁって思ってたの」

フィアルの言葉を聞いて、アゼルは少し考えこむように首を傾げた。そして手に持っていた書類をパサリと机の上に置くと、ゆっくりと窓の外へと視線を走らせる。
その真紅の瞳は、どこか寂し気な色を湛えていた。

「俺は……そういう父上を知りません」
「……アゼル?」
「昔は、父上は俺達家族よりも、大神官様の方が大事だとそう思って怒っていたこともありましたし……実際、家にいるより神殿にいる時間の方が長いような人でしたからね」
「……まぁ、そうだったかもね」

フィアルは小さく苦笑する。
アゼルのその態度は、親に構ってもらえなかったことを拗ねている子供のように見えた。

「でも、私にはいっつも言っていたけどね」
「……何をですか?」
「俺の息子自慢」
「……は?」

フィアルは肩を竦めて、椅子の背もたれに深々と身を沈めた。
そのまま、呆けたようなアゼルの顔を面白気に見やる。

「俺の息子はこの世で一番可愛いんだって」
「……」
「俺の息子はいじめると涙目で睨んでくるのが一番可愛いって」
「……父上……」

がっくりとアゼルは肩を落とす。
自分の前ではそんなこと言ったことはなかったくせに、よりにもよってこの姫の前ではそんなことを言っていたのか。
フィアルはその様子を微笑みながら見つめると、少しだけ小さな声で呟くように告げた。

「だから……俺の息子と仲良くしてやってくれ、って」

肩を落としたまま、伏せられたアゼルの顔にその時どんな表情が浮かんだのか。
それは見えなくても、フィアルにはよくわかっていた。


* * * * *


セイルファウスの戴冠式は、歴代の国王よりもひどく質素に行われることになった。
本人が望んだこともあるが、近隣諸国の王達が一様に出席を拒否したことが大きかった。

「仕方がないことだ。ついこの間まで自国に攻め入っていた国の戴冠式に出る国王などいないだろう」

セイルファウスは各国の王が送ってきた欠席の親書を見ながら、苦笑した。
もちろんその中には、アゼルの名で欠席を表明してきたノイディエンスタークの親書も含まれている。

「失った信頼はこれから取り戻していくしかないからな」
「……兄上」
「しかしユリアティウスも欠席か……最近病状が思わしくないと聞いてはいたが」

同腹の兄弟であるユリアティウスからの欠席の親書には、セイルファウスも少し残念そうな顔をした。
血の繋がりにそんなにはこだわらないセイルファウスも、やはり同腹の兄弟に対する思いは大きい。この長兄が、虚弱なユリアティウスをいつも心配し、常に気にしていたことをレインは知っていた。

「ユリアティウス兄上も流行病ということはないのですか?」
「いや、あの辺りはフューゲルに近いせいか、山からの風が強くて、流行病の患者はほとんどいないそうだ」
「……そうですか……」
「戴冠式が終わって、流行病が終息したら、一度ちゃんと腕のいい医師を向かわせよう」
「アンティエーヌは?」
「アンティエーヌは出席だそうだ。ユリアティウスに是非にと頼まれたらしい。私も会うのは久しぶりだし、それは嬉しいよ」

屈託なく笑う長兄に、レインも少しだけ表情を弛ませる。
けれど気になっているのは、姿を消したアイザックのことだった。

あの時、怒りで我を忘れていたとはいえ、自分が何をしたのかまで忘れたわけではない。
確かに自分は彼の腕と足を切り落としたし、すぐに手当てをしたとしても、命が助かったかどうか微妙なほどの重傷だったはずだ。
それなのに、父王の遺体を火葬にして戻った時、その場所にはその痕跡すら残っていなかった。確かに飛び散ったはずの血糊も何一つ残ってはいなかった。

―――――そこには何か、明確な意図を感じる。

ノイディエンスタークの魔導力には及ばなくても、ラドリアに魔法使いと呼ばれる人間はいる。
アイザックに近しい魔法使いが何か術を施したのか、それとも何か他の要因なのか。調査はしているが、その場には魔法を使った気配すら残っていない。

しかしレインには確かな確信があった。
アイザックは―――――決して、死んではいない。

セイルファウスが即位した後に、何か災いとなって現れるのではないか。
危惧するべきはそのことだった。
元々アイザックを国王にと望んでいた勢力は、未だにセイルファウスの即位を諸手を上げて喜んでいるわけではないからだ。

しかし実際問題として、戴冠式は3日後に迫っている。
とりあえず今自分にできることは、セイルファウスの身辺の警備を固めることだ。
レインはそんなことを考えながら、親書に目を通すセイルファウスの横顔を、複雑な面持ちで見つめていた。


* * * * *


「本当に戴冠式には参加されないのですか?」
「……ああ……僕は行かない」

森に囲まれた館の窓から見えるのは、溢れんばかりの緑と、遠く立つフューゲルの赤い山肌だけだった。
それを感情なく眺めながら、ユリアティウスは妹の問いかけに静かに答える。

「何故ですか……?ようやくセイルお兄様が王になり、ラドリアにも平穏な日々が訪れるというのに」
「……最近調子が良くないことは知っているだろう?こんな状態で戴冠式などに参加すれば、兄上に迷惑がかかってしまう。折角の祝賀の席に影をさしたくはないからな」
「でも……」

尚も言い募ろうとするアンティエーヌに、ユリアティウスは小さく笑った。

「お前まで僕に付き合う必要はないよ、行っておいで」
「そんな……!ユーリお兄様を置いてなどいけません!」
「いいんだよ。お前だって久しぶりに母上や兄上、レイルアースに逢いたいだろう?」

それでもまだ戸惑ったような妹に、ユリアティウスは微笑むと、そっと椅子の背に身体を預けた。

「僕はここで、兄上の頭上に輝く王冠を想像して祝っているから、行っておいで」
「お兄様……」
「少し疲れた……休ませてもらってもいいか?」
「……はい」

そのまま静かに目を閉じたユリアティウスを心配そうに見やりながら、アンティエーヌは手近にあったブランケットをそっと彼の身体にかける。そして静かな寝息を確認すると、そのまま音を立てないように部屋を後にした。


* * * * *


―――――開け放たれた窓から、時折湿った風が入る他は、何の音もしない静かな空間。

その場所で静かに目を開けたユリアティウスは、何もない虚空に向かって一人、呟いた。

「……わかっているよ、アンティエーヌ」

そう、彼は最初から―――――知っていた。

仲の良い同腹の兄と妹。
身体の弱い兄を心配して、常に側に寄り添い続ける献身的な妹姫。
誰の目にもそう映っているその裏に潜んでいるものを。

「お前はずっと僕を……監視していたね」

ユリアティウスに気付かれているとは、アンティエーヌは夢にも思っていないだろう。

アンティエーヌ一人を責める気にはならない。
アンティエーヌが兄としてユリアティウスを慕っていないわけではない。そのことは今まで側にいた彼が一番良く分かっていた。
演技とはいえ、時折発作を起こして苦しむユリアティウスのことを側でいつも心配していたことも嘘ではない。

―――――ただ。

そう、ただ彼女には、その兄以上に慕っていたものがある。
それだけのことなのだ。

本当はもう少し欺いていなければいけなかったけれど……フィアルが来たことを既に知られた以上、ぐずぐずしている暇はない。
戴冠式―――――その日だけしか、機会はない。

(「本当に―――――いいの?」)

確認してくるその淡い蒼の瞳に、否、と答えるつもりは、ユリアティウスには初めからなかった。
ずっと待ち望んでいたような……それでいて来なければいいと思っていたようなその日は―――――もう目前に迫っていたのだから。

「僕は……それでも誰かに知らせなければいけなかったんだ」

―――――その……たった一つの真実を。

偶然に知ったその真実は、最初は単なる小さなほころびだった。
けれど、ユリアティウスはとても聡い子供で、少しずつ抱いていたその疑問が確信に変わるまで、長い時間を必要としなかった。
そして……それを止めることができないことも、簡単に悟ることができてしまったのは、幸運だったのか、不幸だったのか。

突然発作が起こったように見せかけるのは、そんなに難しいことではなかった。
王宮医師達は原因不明のその発作に首を傾げたが、誰もそれを演技だとは思わなかった。

欺き続けることは、思った以上に大変な事だったが、彼は耐え続けた。

いつか―――――その日が来て、誰かにそれを告げるまで、自分の身を守らなければいけない。
そう思い続けて、もう20年以上の時間が過ぎてしまったけれど。

それも―――――3日後に、ようやく……終わる。

ユリアティウスは目を閉じたまま、深く息をついた。
それはたった一人―――――このラドリアで孤独な戦いを続けていた彼の重すぎるため息だった。