Clover
- - - 第16章 王冠を戴く者7
[ 第16章 王冠を戴く者6 | CloverTop | 第17章 兄と弟1 ]

長く暗い闇の中に閉ざされていたラドリアに以前のような活気が戻ったその日は、民が最も尊ぶ太陽の光が降り注ぎ、自然までもがそれを祝福しているようだったと、後世の歴史家が書くであろうことは疑う余地もない程、晴れやかな日だった。

朝から準備の為にバタバタと辺りを走り回り準備が進められていく中、レインは一人自室で、いつもより豪奢な生地の黒い衣装を身につけて、その時を待っていた。
長兄のセイルファウスは前夜から、王宮の隣にある女神ラーネの神殿で身を清めている。警備は万全にしてはあるものの、レインは多少不安にも思っていた。

「……心配ですか?」
「まぁな……」

レインの隣でこちらも正装に身を包んだイオが、少し笑いながら話しかける。しかしレインはその固い表情を崩さずに淡々と答えた。

「ラーネの神殿におられる間はさすがに近付くことができないからな、一番警備が手薄になる」
「そうですね……」
「無事に終わればいいんだが……」
「いろいろと手回しはしましたが……やはりアイザック殿下のことだけが気がかりですね」
「ああ」

今回は通常の戴冠式とは違い、諸外国からの賓客はほとんど列席していない。そのことだけが救いではあるが、用心にこしたことはない。
そのレインの固い表情に、イオはここのところ忙しさにまぎれて忘れていたある疑問を、そっとレインに問いかけた。

「レイン様は……この後どうするおつもりですか?」
「……この後?」
「ええ……セイルファウス様が無事に王となられた後です」
「……どういう意味だ?」
「姫君との約束通り、ノイディエンスタークへと戻られますか?」

イオの言葉に、レインは少しだけ迷ったような顔をした。
約束とはいえ、すぐにノイディエンスタークへと戻ることはできない。政情はまだ不安定だし、セイルファウス一人をそんな中に残していくのはためらわれた。
それに……―――――ノイディエンスタークへ戻るということは、ノイディエンスタークに永住するということとイコールではない。
それこそ、父王が考えていたように、フィアルと結婚するということなら話は別だが、それ以外でノイディエンスタークへ永住するということはいわば、亡命だ。それも―――――王族の。

「……それは……終わってから考えることにする」
「……レイン様」
「とりあえず今は、今日が無事に終わることだけを考えよう」





―――――ラドリア。
リルフォーネの眠る国。





それは執着だろうか……―――――それとも。


* * * * *


「ユリアティウス……って、なっがいなぁ……」

再びその館を訪れたフィアルは、一瞬舌を噛みそうになって、顔をしかめて見せた。その様子に旅支度を終えたユリアティウスは困ったように苦笑した。

「何でも、好きなように呼んでくれてかまいませんよ?姫」
「姫って呼ぶな」
「……そう言えば、そうでしたね」

姫と呼ばれて、ますます顔をしかめたフィアルに、ユリアティウスはその笑みを深くした。

アンティエーヌは王都へと行ったものの、この館に監視がないとは言えない。それ故にフィアルとそれに随行したゲオハルトは、結界を使ってこの部屋に入室していた。そしてそれを解いてはいない、ユリアティウスにしかその姿は見えないし、その声は聞こえない。ただユリアティウスが乱心してしまったかのように、独り言を言っているようにしか見えないだろう。

「しかしなんでオレを連れてきたんだ?こういう隠密行動はシルヴィラが適任だろ?」

大きな身体で所在なさげに立っているゲオハルトに、フィアルはニヤリとイヤな笑いを見せた。

「そんなの決まってるでしょ」
「へ?」
「荷物持ちよ、荷物持ち。これ以上適任な人、いないでしょ?」
「……おひーさん、暗にそれ、オレの事キールと同じで筋肉バカって言ってないか?」
「やーね、そう聞こえた?」
「……」

ゲオハルトはなんとも言えない複雑な表情を浮かべたが、すぐに諦めたように息をつくと、ユリアティウスの足元にあった小さなカバンを持ち上げた。

「…って、荷物これだけなのか?オレが荷物持ちになる必要、ないじゃねえか」
「あまり、物には執着がなくて……これでも一応大切なものは入れたつもりなんですが」

ラドリアを出るに当たって、ユリアティウスは一応自室に置いてあっためぼしい物をそのカバンに入れたつもりだったのだが、離宮を転々としていたこともあってか、これといった大切な物を持ち合わせてはいなかった。そのせいかゲオハルトの持ち上げたそのカバンは、驚くほどに軽かった。

「まぁ、レインもあんまり物には執着なさそうだったしな……変なところ、似てるんだな」
「レイルアースに、僕が?」
「似てるって言われたこと、ねえのか?」
「……あんまりないですね。昔一度だけ目元が似ていると言われたことならありますが」

少し困惑したように笑うユリアティウスに、ゲオハルトは眉をしかめる。

「あのさ、敬語やめてくれるか?」
「……え?」
「そうよ、敬語はやめましょ。堅苦しいのは性に合わないのよ、特に私とかゲオはね」

肩を大げさに竦めて見せるフィアルを、ユリアティウスはじっと見つめた後、ふっ……とため息をついて、頷いた。

「じゃあ、行くけど……本当に、いいのね?」
「……ああ」

ユリアティウスは迷うことなく頷いた。
そしてふと、厚くカーテンの閉じられたその部屋をゆっくりと見回した。

「おかしいと……思う」
「……何がだ?」
「僕は王族で……これから自分の国を捨てるというのに、本当に何も、感じない」
「……」

静かな……あくまでも静かな声だった。
それ故にユリアティウスが本心からそう言っているのだと、わかってしまう。

「ユリウスは」

どうやらそう呼ぶことに決めたらしい、答えるフィアルの声もまた、驚くほど静かだった。

「貴方は…・・・何も感じていないわけではないのよ」
「……」
「でなければ、何故……貴方はその真実を誰かに知らせようと思ったの?」
「僕は……」
「真実を知らせることで、貴方はこの場所がどうなることを望んでいるの?」

真っ直ぐなその瞳に、ユリアティウスは戸惑ったように視線をさ迷わせた。

「僕は……ただ」
「ただ?」
「……ただ……救いたいだけだ」

搾り出すようなその告白にも、フィアルはその厳しい表情を変えなかった。
そんな彼女の横顔を見ながら、ゲオハルトは眉を寄せる。
光は時に眩し過ぎて―――――人の心を苦しめることもある。
この姫君は、淡く優しい木漏れ日ではなく、鮮烈な光そのものなのだ。

「ノイディエンスタークが……憎い?」
「……」
「憎い?」
「……」

フィアルの問いかけに、ユリアティウスはゆっくりと首を横に振った。
ゲオハルトには何故ここでノイディエンスタークが出てくるのか、二人の会話の意図が読めない。

「誰もが犠牲者だと思えるから」
「……」
「もしかしたらこの大陸の全てを、世界の全てを、ノイディエンスタークは背負わされたのかも、しれないから」
「……」
「僕は……」

俯いたユリアティウスの下に、ぽとりと小さなしみができるのを、フィアルとゲオハルトは言葉無く見つめていた。
それは次々と増えて、彼が今まで押し殺していた感情が、今、解放されているのを知るのには充分だった。

―――――行き場のない、想い。

それは心の枷になる。
決して―――――忘れることの許されない枷。

「ユリウス」

フィアルは手を伸ばして、声を殺して泣く目の前の青年の頬にふわりと触れた。
もちろんユリアティウスは細身とはいえ、フィアルより背が高かったので、背伸びをする格好にはなったが、フィアルはそれを気にする様子はなかった。

「……いいのよ」
「……」
「もう……いいのよ」
「……よくなんて……ない」
「いいえ、貴方はもう楽になっても、いいのよ」
「僕は……自分の背負うものを、誰かに預けて、自分が楽になる道は……選びたくない」
「そうね」
「……だから僕は行く。見届けなくてはいけない」

たとえそれが―――――ラドリアを捨てることであっても。





その日、ラドリアから―――――一人の王子が、消えた。


* * * * *


あれほどに流行病と絶望に蝕まれていたラドリアの王都セイラスは、活気と希望に満ちていた。

王宮に隣接するラーネ神殿から清めの儀式を終え、神官に傅かれて戴冠式の間へと姿を現した皇太子は、金糸の衣装に身を包み、その凛とした瞳で、列席している貴族達を感心させた。

レインはそんな長兄の姿を見つめながら、警備に怠りが無いかをつぶさにチェックしていた。
一度はセイルファウスが即位する事でまとまったように見える貴族達はいわば砂の城だ。何かが起これば簡単に崩壊する。
特に―――――玉座の周囲には、王族が列席している。
あの多くの兄弟の中に、第ニのアイザックがいないと、誰が言えるだろう。

一番玉座に近い空席は、レイン本人の席で、その隣には末の妹であるアンティエーヌの姿が見えた。

セイルファウスはゆっくりと玉座へと進む。
その先にはラーネ神殿の最高神官が彼を待っている。

―――――その頭上に、王冠を掲げるために。

「……レイン様」
「……どうした?」

その様子を静かに見つめていたレインの耳元で、レインの指示で警備を確認に行っていたイオが突然囁いた。
セイルファウスはもうすぐ最高神官の元へ辿り着くところだった。

「何かあったのか?」

顔を寄せてきたイオに、小声で、しかし鋭く聞き返す。
その鋭さに、イオは一瞬言葉を躊躇したが、誰にも気取られぬようにさらに声を抑えて、報告した。

「それが……」
「……?」
「アイザック殿下が、列席されています」
「……!」
「見えますか?アンティエーヌ様の斜め後ろです」

レインがすばやく視線を動かすと、そこにはいつもの派手な衣装ではない、紫の衣装を身に纏ったアイザックが確かに列席していた。最前列に座っている兄弟達はそれに気付いていない。
しかもレインを更に驚かせたのは、確かに切り落としたはずのアイザックの腕や足が、そんなことなど何もなかったかのような状態でそこにあることだった。

アイザックは神妙な顔で目の前を行く長兄を見つめている。
その顔には悔しそうな感情も、恨みの篭った激情も、蔑んだような笑みも、何も浮かんではいなかった。

「……どういうことだ」
「わかりません……しかし近くに潜ませた者の話では、アイザック殿下は帯刀も何もしていないとのことです」
「……奴の護衛の者は近くにいるのか?」
「いいえ……護衛も誰一人いないとのことです」

何が起こっているのか。
何を……企んでいるのか。

レインは視界に入るアイザックを鋭く見つめたが、アイザックはそれに気付いていないようだった。





「汝の名を―――――これへ」





最高神官の声が響き、ふと目をやると、セイルファウスは玉座の前に静かに、そして優雅に跪いていた。

「我の名は―――――セイルファウス・ラヴィルフェルド。前国王アドニス・ラヴィルフェルドが長子なり」

部屋全体にその声が響く。
しん、と静まり返っている部屋に、低く、静かな声は反響していた。

「汝は―――――この大地へと忠誠を誓うか」
「―――――はい」
「汝は―――――女神ラーネの名の元に、ラドリアに忠節を尽くすか」
「はい―――――この命の限り」

決まった台詞。
しかし―――――意味のあるもの。

最高神官は台座に恭しく置かれたその黄金の王冠を手に取り、セイルファウスの頭上に高々と掲げた。





(「―――――このラドリアを太陽の国と呼んでいたって」)

かつて……―――――。
若き日の父王も、こうしてあの王冠を戴いたのだろうか?





「女神ラーネの加護があらんことを―――――」

純金の幾多の宝石に彩られたその王冠は、ゆっくりと、そして静かに皇太子たる青年の頭上へとその輝きを移した。
それと同時に、部屋中からわあっという歓声が起こる。

玉座から空になった台座と共に退いた最高神官と入れ違うように、セイルファウスは玉座の前へと立ち、その場に設えられていたもう一つの台座から黄金の杓を手にした。
そしてゆっくりと、静かに貴族達へと向き直る。

その顔は自信と誇りに満ちていて、これからのラドリアの未来を信じるにたるものだった。

「ラドリア国王たる私、セイルファウス・ラヴィルフェルドはここに宣言する」

歓声に満ちていた室内が、その凛とした声に一瞬しん……と静まり返った。





「今日……この日より、ラドリアは生まれ変わる。我々は今までの悪習を全て排除し、新たに生まれ変わるのだ!」






広間に声は無かった。
その宣誓に、戸惑っているかのような、そんなもどかしい沈黙だった。

その一言に、どれほどの決意を込めたのか。
レインは感心したように、自らの長兄を見つめる。





そんな沈黙を破ったのは―――――乾いた拍手だった。





レインも、そして玉座のセイルファウスも、儀式を見守っていた多くの貴族達が、その拍手をしている人物を、驚愕の瞳で見つめた。それは間違いなく……セイルファウスの即位を一番憎んでいたはずの―――――アイザックだった。

「素晴らしいことだ」
「……アイザック……」
「ラドリアは、生まれ変わる。そうなのでしょう?兄上」

いつもとは全く違う様子のアイザックに、広間の誰もが呆然としている。
すぐ後ろにアイザックがいたことに気付いていなかったアンティエーヌなどは、顔面蒼白になっていた。

しかしそんな広間の空気をものともせず、アイザックはつかつかと王族の席から歩み出て、セイルファウスの玉座へと進む。その動きに我に返ったレインは、すばやくセイルファウスの元へと走った。

常に命を狙われていた兄と、狙い続けた弟は、一瞬視線を交わす。
セイルファウスの隣へと辿りついたレインは、腰の雷神へすっと手をかけた。

「兄上……兄上の作るラドリアを……私にも見せてください」
「……アイザック……?」

アイザックはそう言うと小さく微笑みを浮かべ、セイルファウスの元へ跪き、その豪奢な朱色のマントの裾に、そっと口唇を落とした。





―――――忠誠を。





この男が……セイルファウスに忠誠を誓うなど、考えたこともなかった。
セイルファウス本人もそれは同じだっただろう。驚愕に目を見開いたまま、戸惑ったようにレインへと視線を動かしたのがその証拠だ。

しかし―――――その様々な思惑の篭った沈黙は、やがて貴族達からわき起こった拍手と歓声にかき消された。





「セイルファウス陛下万歳!」
「国王陛下万歳!」





セイルファウスとアイザックの因縁めいた関係の終わりが、この国の未来のように思えたのだろうか。
その歓声は広間にとどまらず、それは王宮全てへと伝播し、城下で即位を待ちわびていた群衆へと瞬く間に広がった。

―――――国中を包み込む歓喜の声。

その様子を呆然と見つめるレイン達に、立ち上がったアイザックが笑みを向けた。そしてそのまま、自席へと戻っていく。
セイルファウスはその後姿を目で追っていたが、決意したように一瞬目を伏せると、右手に持っていた杓を静かに掲げた。





「―――――ラドリアの未来に!」





正しき心を持つ王の誕生に、歓声は一際大きくなる。
その様子をレインはただ、言葉なく見守っていた。





―――――そしてそれは、新しい悲劇の始まり。