Clover
- - - 第17章 兄と弟5
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「もう限界だろう?」

倒れ伏す自分を見下ろしているその顔は、間違いなくあの兄のものなのに。
キールは、そこにいるのが、シオンだけではないことにもう気付いていた。
けれど……それを問いただしたくても、もう声すら出ない。指一本すら動かすことができない。部屋の壁中を埋め尽くすような、赤い魔石は、キールの中のわずかな抵抗力すら根こそぎ奪い取っていく。

「私が誰か、知りたいか?」
「……」
「私はお前の兄と取引をしたのだ。アドラの杖の力から身を守れる術を与える代償に、この身体を使うことをな」

その瞳には、シオンのような、どこか遊びのような感情は欠片も無い。
浮かんでいるのは無。
まるで何も映していないかのような、そんな視線を空に彷徨わせるばかりだ。

「アドラの杖は無限の魔の力を持ち主に与える。だが、それと引き換えに持ち主の命を食らうのだ」
「……!」
「私はそれを防ぐ術をシオンに与えた。簡単なことだ」

シオンの顔をしたその人物は、ぴくりとも動かないキールの目の前に、それをかざして見せた。

「何かわかるか?」
「……」
「これは、翼人の羽だ。強い魔除けの力を持っている」

―――――翼人の羽。
美しい六角形の水晶の中に、確かに一枚の白い羽が輝いていた。
翼人。
それは―――――稀なる存在。

「シオンはこれと引き換えに自分の身体を差し出したのだ。アレのことだ、この羽にもいたく興味があったのだろう」

その物言いは、子供じみたところのあった兄とは違い、既に人生を悟りきったかのような、老齢した人間のものだった。
しかしそれに反論する言葉を発したいと思っても、声にならない。
荒い息ばかりが漏れて、乾いてひび割れた口唇が悲鳴を上げていた。

「言っただろう?私は―――――探求者だと」
「……ッ!」
「私は、この国がどうなろうが、この大陸がどうなろうが、さほどに興味は無いのだ。ただ知りたいだけで」
「……!」
「この世界が―――――何故このように、作られたのかをな」

その人物はシオンの顔で、少しだけ悲し気に笑う。

「何故この世界に、『人』や『竜』などという存在が必要なのか……私にはわからないのだよ」

(やめろ)

絶望にも似た言葉に、意識が遠のく。
必死で保っていたものが、霧散してしまう。

(姫)

もう何も映さない瞳の奥に、白金の輝きが一瞬だけ翻る。

(―――――姫……俺は)





「―――――おやすみ、僕の可愛い弟」





けれど……キールの耳に最後に聞こえた声は、紛れもなくシオンの声だった。


* * * * *


「……どういうことだ?」
「……で、ですから、忽然と消えてしまわれたのです」

そんなバカなことはあるまい。
神隠しなど、物語の中だけの話だ。
フューゲルに程近いユリアティウスとアンティエーヌの住まう離宮を訪れたレインは、使用人達の焦った言い訳を、到底信じる気にはなれなかった。

「ユーリお兄様は、お身体が悪いのです。ここ最近は特に気分が優れないようで……も、もしものことがあったら」

今にも泣き崩れそうなアンティエーヌに、侍女が慰めの言葉をかけるのを、レインは冷静な瞳で見つめていた。

どうにも、おかしいのだ。
セイルファウスが即位した今、身体の弱い次兄を連れ出したところで、得になる者などいるはずもない。
しかも、建物には誰かが侵入した形跡はまるで残されていない。
まるで、正面から堂々と入って次兄を連れ出したか、ユリアティウス自身がこの館を出て行ったようにしか思えない。

(正面から……堂々と?)

何かが、レインの心にひっかかった。

「あの……レインお兄様」
「……なんだ?」
「わたし……ひとつだけ気になることが……」

弱々しい声でアンティエーヌが言い出すのを、レインは無言で待った。
どうもこの妹は、感情を表に表すのは得意ではない自分のことが苦手らしい。どこか視線が泳いでいるのはそのせいだろう。
嫌われているわけではないが、怖いというのが本音か。

「少し前に……あの」
「……」
「ノイディエンスタークの巫女姫様が……ユーリお兄様を訪ねてきたことが」
「……本当か?」

アンティエーヌの言葉はレインには意外だった。
何故フィアルが自分ではなく、ユリアティウスを訪ねるのか。
全くわけがわからず、レインは困惑したように衛兵と顔を見合わせる。

「何かユーリお兄様とお話をされていたようで。帰り際にわたし、巫女姫様にお願いをしました」
「願い?」
「ユーリお兄様の願いを叶えて差し上げてください、と。けれど巫女姫様は小さく微笑まれただけで、何もお答えにはなりませんでした」

―――――フィアルなら。
いや、ノイディエンスタークの魔導の力を使えば、気配を残すことなくユリアティウスを連れ出すことは、可能だ。
しかしわからないのは、何故フィアルが次兄を連れて行く必要があったのかということだ。

(「―――――ちょっとね、ヤボ用」)

レインを呼び出したあの時。
きっとあの前に、フィアルはユリアティウスと何か話をしたのだろう。

だが、一体何処で二人が知り合ったのか、わからない。
身体の弱かった次兄は常に離宮にあり、他国へと行ったことは一度もない。フィアルにしても、現在は落ち着いているとはいえ、内乱後のノイディエンスタークを立て直すのにラドリアへ遊びに来るような余裕があったとも思えない。
もしかして、フィアルが傭兵をしていた時にでも知り合ったのだろうか。
しかし、傭兵だったフィアルが離宮とはいえ、王族の住まう場所へなど近づくだろうか?

それに経過を聞くと、フィアルがユリアティウスを連れ出しただけではなく、次兄自身がこの館を出て行った可能性もある。
いや、おそらくは双方が合意の上だったのだろう。

(……何故だ?)

今この時期に、何故ユリアティウスはラドリアを出る必要があったのか。
いつも穏やかな瞳をしていたあの儚げな次兄は、フィアルと何の話をしていたというのか。
どんなに考えても、本人に確かめない限りそれは推測の域を出ることはない。

「レインお兄様……ユーリお兄様は……」

アンティエーヌの瞳が心細気に揺れる。
ずっと共にいた妹にすら何も告げず、何故次兄は姿を消したのだろう。

「ノイディエンスタークには、兄上を連れ去る理由がない。とにかく近辺の街で聞き込みをさせる」

ポン、と優しくレインはアンティエーヌの頭を撫でてやった。

―――――……ユリアティウスはノイディエンスタークにいる。
それならば心配もない。真実はフィアル本人に問いただせば済む。
とりあえずすべきことは、形だけでも次兄を捜索することだ。
次兄自らがノイディエンスタークへと行ったとなれば、ことは外交問題にもなりかねない。

使用人達に指示を出しつつ、レインは冷静に、これからの対処方法を考えていた。
自身はラドリアの王子だというのに、何故かノイディエンスタークを庇う方へと考えが偏っていることを、自覚はしている。常に隣にいたイオにもそれは分かっているだろう。けれどイオはレインにそのことについて何か言おうとはしなかった。

セイルファウスが即位する少し前から、イオの口数が減っていることに、レインは気付いている。
けれどそれがどういう理由なのかを聞き出すことが、何故か彼にはできずにいた。
だからだろうか、セイルファウスの護衛にと、イオを王宮へ残してきてしまったのは。

ラドリアはセイルファウスという光を得て、長い暗闇から抜け出ることができたはずなのに。

離宮を後にしながら、レインは未だ雲に覆われた灰色の空を、揺れる瞳で見上げていた。