Clover
- - - 第17章 兄と弟6
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あれはいつのことだっただろうか。
危険と隣り合わせだった王宮で、傷ついた小鳥を見つけた。

(「可哀想に……怪我してる」)

そう言って、兄王子はその小鳥を手で包むようにしながら、力なく鳴く小鳥の背を何度も撫でてやっていた。
その兄の白い手が、小鳥の背を往復していたのを確かに覚えている。

優しく、しなやかな、その手を。


* * * * *


キール救出を明日に控えたその日、ノイディエンスタークには一人の珍客が訪れていた。

「いや、まさか入れるとは思わなかったぜ」
「……アンタね……」
「少なくともオレはノイディエンスタークに害を成さないって大地に認められたわけだ。いや、よかったよかった」

目の前でのんきに笑う男に、フィアルは最大限に顔を歪めて見せた。
そのフィアルの背後には、それ以上に渋顔を隠せないアゼルが仁王立ちしている。
それに気づかないわけではないだろうに、リンフェイはメナスが淹れたお茶をずずっと行儀悪く音を立てて啜った。

『……本当にすみません、竜の姫』
「……いいわよ……今に始まったことじゃないし……」

とてつもなく恐縮しているらしいエウロンに、フィアルは同情にも似た瞳を向けた。
暗にその視線が「貴方も大変ね」と言っているのは、アゼルでなくても分かった。

こともあろうにリンフェイは、事前の連絡も何もなく本当に突然に、ノイディエンスタークへと降り立ったのだった。
いきなり王宮の中庭にエウロンで乗りつけ、ニコニコと手まで振っていたのだから、誰もが呆然とするのは当然と言える。しかもリーレンが着いて来ていないところを見ると、どう考えてもお忍びである。

「んで?何の用なわけ?」
「あっ、冷たいなぁお前!オレがお前に会いに来ちゃいけないのかよ!」
「……少なくとも、他国の王宮の中庭にいきなり乗りつけるのが非常識だってことは、理解してるつもりよ?」
「まぁまぁ、そこらへんは置いておけって」
「……」

確かにフィアルは、リンフェイを責められるほど素行がいいわけではないのだが、後ろから感じる殺気にも似た怒気を、隠そうともしていないアゼルのことを考えると、一応言うだけは言っておこうと思ったのだった。
しかし案の定、リンフェイがそんなことを気にした様子はない。

「ま、ちょっとばかり話をしたくてな」
「……話?」
「オレのフィーナへの熱き愛を」
「帰れ」

近くにあったトレイを投げつけようとしたフィアルに、リンフェイは冗談だよ、と軽く笑った。
しかし本当に冗談だか、わかったものではない。

「んで?オレの方も聞きたいんだが」
「何を?」
「ここにユーリがいるのはどういうわけだ?」

ニコニコと笑ってはいるが、目が笑っていない。
その視線はアゼルと並んで立っているユリアティウスに真っ直ぐに向けられたままだった。
そんなリンフェイに、ユリアティウスは困ったような顔をしている。

「ユーリ……って、リンフェイ、ユリウスと知り合い?」
「おう」
「本当!?ユリウス!?」
「おいフィーナ……何でユーリに確認すんだよ!オレの言うことが信じられないのか!?」
「当たり前のこと聞かないでよ。で?本当?」

リンフェイを軽くあしらってフィアルが発した疑問に、ユリアティウスは「残念ながら」と小さく笑って答えた。

「何その接点、すっごく意外」
「何でだよ」
「だってリンフェイだよ?」
「フィーナ……お前さあ……」

リンフェイはがっくりと肩を落とす。
仮にも一国を治めている者同士の会話とは思えないやり取りに、アゼルはただただ呆れるばかりだった。

「リンフェイのフューゲルと、僕の館は比較的近いところにありましたから。僕も最初は彼がフューゲルの竜騎士王だとは思いませんでしたけどね」
「そりゃあね……」
「フィーナ……」
「僕の館の庭に、いきなり落下してきたんですよ、エウロンと一緒に」

登場の仕方が今日と変わらないではないか、とフィアルとアゼルは、冷たい視線をこの人騒がせな王へと向けた。

「あの時はさぁ、ちょっと散歩してた時に、オレが親切にもエウロンにフューレを巻いてやったんだよ」
『……何が親切だ』

フューレは今もリンフェイが額に巻いている、フューゲル独特の頭布だ。
それをしかも飛行中の飛竜に巻こうというのだから、それは確かにエウロンにとっては迷惑この上ないだろう。

「そしたら風に煽られて、エウロンの前足の爪に引っかかっちまってさ。それと首がこんがらがって、そのまま墜落したってわけだ」
「……」
「いや、中庭でよかったよ、館の屋根とかに落下してたら弁償もんだったからなぁ」

そういう問題ではないような気がするのは、気のせいか。下手をしたら死ぬではないか。
大体、ラドリアの離宮に、許可なく他国の王が落下するのはいかがなものか。
誰もが心の奥でそう思ったが、口には出さずにおいた。

「運が悪かったわね、ユリウス」
「……ハハ」
「何でだよ。それ以来オレ達はめっちゃ仲良しなんだぞ」
「……だから運が悪かったって言ってるじゃない」
「どういう意味だ!」

やれやれといったように肩を竦めたフィアルに、リンフェイは渋い顔をする。
そしてようやく気づいたかのように、彼女の後ろに自分以上の渋顔で立っている真紅の青年に目をやった。

「……派手なのがいるなぁ……」
「……」

ピキッとアゼルのこめかみに青筋が立った。
好きでこの色に生まれたのではないが、アゼルは赤という色がわりと気に入っていたのだ。

「ああ、アンタがあれか。短気でいつも怒っていると噂の神官長だな?リーレンとどっちが口うるさいかな?」
「リーレンでしょ」
「何で言い切れるんだよ」
「だってアゼルは長時間の説教できないもの。頭に血が上って、叫んで終わるから」
「へえ……一瞬の怒りで終わるならその方がいいじゃんか。リーレンは根に持つタイプだからな……話がなげーこと、なげーこと。下手したら食事の間もずっとぶつくさ言ってるぜ?うっとおしいんだよな。ま、聞いてねえけど」
「そうよね」

アッハッハと笑い合う国家元首の二人に、アゼルはめまいを覚える。
逢ったことはないが、フューゲルの宰相も相当な苦労人であることは間違いあるまい。
徐々に怒りメーターが上がっていくアゼルを、ユリアティウスは気の毒そうに見つめていた。

「それで?リンフェイはユリウスについて、口を噤んでくれるの?」
「さあ、どうすっかなぁ?」
「リンフェイは友人を売るような人だったんだ、へえ」
「……いや、言わねえけど」

フィアルの脅しにも似た言葉に、リンフェイは肩を竦めた。
この竜騎士王は、確かに猪突猛進型ではあるが、愚かではない。口を滑らせてユリアティウスのことを吹聴して回ったりはしないだろう。そういう点では、フィアルは多少なりともリンフェイを信用していた。

「そんでさ、本題だけどな」

不意に背後からかけられた声に、フィアルはゆっくりと振り返る。
どこか挑戦的な笑みを湛えたリンフェイは、カップに残っていたお茶を飲み干すと、ゆっくりと立ち上がった。

「ユーリもいるなら、好都合だったかもな」
「……」
「お前、わかっててここに来たんだろう?」
「……ああ」

ユリアティウスの瞳に、一瞬だけ傷ついたような光が走るのを、フィアルは見逃さなかった。
それはリンフェイも同じだっただろう。

「フィーナ、お前もわかってたから、ユーリを受け入れたのか?」
「……そう……リンフェイがそういうってことは、もう始まったのね」
「まあな。お前が言っていることが、オレの予想通りだとするなら、の話だが」

さすがに部屋の中には入ってこれず、開け放した窓の外にいるエウロンへと視線を向けながら、リンフェイは笑みを消した。
どこか厳しい、王としての顔だった。

「ラドリア……やばいことになってるぜ?」
「早かったわね……もう少しかかるかと思ってたのに」
「新王が即位したばっかりだってのにな……まるで前から準備されてたみたいなタイミングだ」

リンフェイはふっとため息をつくと、強張った顔で立ち尽くすユリアティウスを見つめた。
それを逸らすことなく見つめ返しながら、静かに、彼は竜騎士王と呼ばれる青年に問うた。

「……民は?」
「民には何もしちゃいねえよ。だからひどい状態だというのに、国民は歓喜の声で新王を称えている。いつその牙が自分達の方へ向くか、わかんねえのにさ」

リンフェイは呆れたように肩を竦めた。

「民は元来そういうものよ。自分に利益をもたらすものには寛容だけど、そうでないものを逆に糾弾するの」
「そういうこと言うなよ。王やってるのがイヤになるじゃんか」
「でもそれが現実よ」

フィアルが冷たくそう言い放つのを、アゼルはわけが分からず見つめていた。二人の王はちらりとそれを一瞥すると、話を続ける。

「ラドリアの玉座は呪われているのかもしれない、最近そんな風にすら思えるようになった」
「……それに座った人間は必ず狂うって?」

危うい会話に、アゼルは顔を強張らせる。
この二人は一体何の話をしているのだろう。
緊張しきったアゼルに気付いたフィアルは、少しだけ困ったような笑いを彼へと向けた。

「始まっちゃったのよ、アゼル」
「……何が、ですか」
「本当は外れてくれたらって思ってた。でもやっぱり私の予想は正しかった。ユリウスを連れてきたことも、間違いではなかったってことがこれで証明できたっていうのは、皮肉ね」

フィアルの予想。
彼女は一体何を考えていたというのだろう。
この少女は賢すぎて、その思考を察することはアゼルでは困難だった。

「ユリウス」
「……はい」
「……大丈夫?」
「……大丈夫です。僕は……そのためにここにいるんですから」

ユリアティウスが凛と顔を上げるのをじっと見つめると、フィアルはそのまま、リンフェイへと視線を移した。
その視線を分かっているというように、リンフェイは頷き、戸惑ったような顔のアゼルに口を開いた。

「オレが知ってる限りの話だ、それでいいか?」
「……フューゲル王……?」
「ラドリア内部で、虐殺が始まった」
「……虐殺!?」
「勘違いするなよ?虐殺と言っても、国民が虐殺されてるわけじゃない」
「国民じゃない……?」

どういう意味だ?
国民じゃないなら、一体誰が虐殺されているというんだ?

そんなアゼルの疑問に答えたのは、彼の主たる姫君だった。





「―――――王族よ」





「……王族!?」
「そう、長い間国民を苦しめ、搾取し、贅沢の限りを尽くした王族。増えすぎた王の子供達、妾達、そしてその外戚の貴族達。それが虐殺の対象になっているのよ」
「……そんな……誰がそんなことを」

それでは……まるで……内乱の始まりのようではないか。
裁かれるに相応しい行いをしてきた貴族達とはいえ、虐殺など、あってはならない。

「誰が……?そう、誰がそんなことをするのかしらね」
「姫……?」
「違うわ、誰ならそれをすることができるのかしらと言った方が、いいでしょう?」

フィアルとリンフェイの視線が、静かにその青年に向けられるのが、アゼルにも分かった。





「それは―――――」





喉の奥から搾り出すかのような、苦悩に満ちた声で、ユリアティウスは告げる。





「セイルファウス・ラヴィルフェルドという名の……僕の兄です」





口にした真実が―――――決して消えることはないと知っていた。


* * * * *


(「もうこの小鳥はダメだ」)
(「兄上……?」)
(「可哀想に」)

―――――その白い指が。
グシャリとそれを握りつぶすのを。
白い指が、生暖かい血で染まるその様を。

今も、忘れることが―――――できない。