- - - 第18章 言霊1 |
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(「分かっているんでしょう―――――?」)
頭の中を繰り返す声に、彼はゆっくりと目を開けた。
ピチョン、と水の落ちる音がする。肌を刺すように寒く、身体の感覚が奪われているのが分かった。
視線だけを動かして辺りを見回せば、そこにはごろごろと死体が転がっている。遠くに見える死体は既に白骨化しているものもあった。
むせかえるような、血の臭いと腐りゆく肉の臭い。
かつて戦場で何度も感じていた、死臭。
それに心の方が負けてしまいそうになる。
背中と脇腹に感じる生暖かい感触は、きっと自分の血だろう。
しかし麻痺しているかのように、ただ熱いだけで痛みを感じるということはなかった。
(そう……分かっていたんです、姫君)
霞がかかったような頭で、イオはぼんやりとフィアルの言葉を反芻していた。
分かっていて、その気配を感じ取っていてなお、何もしなかった自分を責めることしかできない。
(レイン様……)
あの人を―――――守りたかった。
無表情の下に隠された、繊細な心を、守りたかった。
だからこそ、言えなかったのだ―――――。
フィアルが何故あんな風に、思わせぶりな態度をとっていたのか、今なら分かる。
彼女は守らせようとしたのだ。
自分に―――――レインを守らせようとしたのだ。
彼女のことを危険だと思っていた。レインの心を揺らすのをやめて欲しいと思った。
けれど……本当にレインを守ろうとしていたのは、自分ではなくあの姫君の方だったのかもしれない。
(「イオ……お前には分かっているはずじゃないのか?」)
ユリアティウスがいなくなったと聞いた時、自分は驚きを感じなかった。
彼が一度だけ口にしたその言葉を、自分は忘れることができずにいたから。
あの病弱に見えた青年は、きっと知っていたのだ。
だからこそ、フィアルと同じように、たった一度だけ、自分に警笛を鳴らしてくれたのだろう。
目を逸らしてしまった。
間違いであったらと願ってしまった。
―――――その結果が今の現状ならば、それは逃げていた自分への罰なのかもしれないと思った。
武装した貴族達が、玉座の間に踏み入ってきた時。
咄嗟に庇ったその人に。
背後から、刺されることなど……想像もしていなかった。
禍々しい気が、その部屋を満たして。
狂ったようなアイザックの笑い声と、人々の断末魔の叫びを聞きながら……自分は確かに。
かの人が、楽し気に笑うのを―――――見たのだ。
* * * * *
「……い」
声が聞こえる。
「おい……イオ」
ついに幻聴まで聞こえるようになったのだろうか。
自分は着実に死に近付いているのだろうか。
それにしては、妙な現実味をもって、それは耳に響いた。
そう思っていたのに、次の声で、イオは急激に現実へと引き戻された。
「……派手にやられたな、おい……生きてるか?」
また意識を失っていたらしい。ここは王宮の地下深く、鍾乳洞のようになった迷宮じみた場所だ。しかしその声は徐々に近づいてきて、倒れ伏していた自分の頬を少し強めに打った。
「……?」
「おい、意識あるか?大丈夫か?」
「……あ……」
ぼんやりと目を開けると、そこには見覚えのある顔があった。
「……あ、なた……は」
「わかるか?コンラートだ」
フィアルの傭兵時代の仲間で、家族のように過ごした一人。
何故そんな人間がここにいるのか……ここは、ラドリア王宮の地下のはずで、彼のような傭兵が出入りできる場所ではない。
「何でとかそういう説明は後だ。とりあえず応急だが手当てするぞ」
コンラートはイオの大きな身体を引き上げるように起こし、血と泥に汚れた服を、持っていたナイフで切り裂いた。
目の前に現れた傷口は大きく、深い。
しかしコンラートは動じることもなく、持っていた入れ物から酒を口に含み、背中と脇腹の傷に吹きかけた。
それにより走った激痛にイオは呻き声をあげたが、気にする様子もなく、コンラートは持っていた布で傷口を拭いていく。そして腰につけている布袋から銀色の入れ物を取り出し、その中身をベタベタと塗りつけた。
「痛ぇのは当たり前だ。刺されてんだからな」
「……ッ!!」
「この血止めの軟膏は効くんだよ、オレやディシスやフィーナもだいぶ世話になってる。安心しろ」
話しながら、手際よくくるくると包帯を巻いて、止め終わると、コンラートはイオの身体を抱き上げて、死体達の間を抜け、少し風通しのいい岩陰へと運んだ。イオがほっとしたような息をつくのを見て、小さく笑うと、持っていた水入れを口に運んでやる。
力なくその咽喉が動いて、少しずつではあるがイオは水を飲んだ。
「……なぜ……」
「―――――わからねえか?」
「……はい……」
「お前達がラドリアに戻った時から、オレはずっと付いてきてたんだよ。そういう契約でな」
「けい……やく?」
「雇い主はフィーナだ。わかるだろ?」
その言葉に、イオは目を見開いた。
―――――ああ。
―――――ああ……あのひとは。
知っていて、分かっていて、自分とレインを守ろうとしてくれている。
こんな状況だというのに、絶望的な事態だというのに。
心が歓喜の声を上げているのが、イオには分かった。
「まも……って」
「……イオ」
「わたし……は……レイン様……を」
「……」
「……姫……ッ」
溢れるのは涙で。
それは嬉しさなのか、切なさなのか、わからずに。
コンラートは黙ってその震える肩を抱いて、言った。
「フィーナはお前達を見捨てたりしねえよ」
「……ッは……」
「ああ見えて、情は深い娘だ。オレをお前達の護衛にと言った時も、ちゃんとあいつには分かってた」
(「コンラート」)
(「仕事を頼みたいの」)
(「……レインとイオを、守ってくれる?」)
後から後から溢れる涙に、イオは頷くしかできない。
このラドリアには誰一人としていないのに、かの国には自分達を守ろうとしてくれる人がいる。
そのことがこんなにも―――――心強いとは。
(守ってください)
(守らせてください)
(レイン様を……どうか)
(―――――助けて)
「行くぞ、そんなに時間はないんだ……立てるか?」
コンラートの腕がイオの身体を支える。
痛みに耐えながら、イオはその一歩を踏み出した。
大切な主を、あの柔らかな檻から助け出すために。
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