Clover
- - - 第18章 言霊3
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「……様」

呼ぶ声がする。

「イオ様……!」

名前を呼ばれている。聞き覚えのある、優しい声だった。
重い瞼をゆっくりと開くと、ぼやける視界にうっすらと人影が映った。

「イオ様!」
「……メナス……殿?」

自分を見つめて、その紫の瞳からぼろぼろと涙を流している少女に、イオは目を見開いた。そのおかげで視界がはっきりとしてくる。
メナスは自分を見つめながら、ぎゅっと手を握ってくれていた。

「どうし……て」
「コンラートが運んだのよ」

その高い声音は枕元から響いた。
視線だけを上へ動かすと、そこに不敵に笑うフィアルの姿があった。

「姫……」
「説明すると、ここは夜の神殿よ。わかる?」
「夜の……神殿……」
「意識を失ったイオを、コンラートが天馬でここまで運んだの、それもわかる?」
「……はい……」

身体を動かそうとすると、背中に激痛が走った。
思わず呻いたイオに、メナスが叫ぶように言う。

「ダメ!起き上がったりしたらダメです!傷は治せても、痛みは消せないんです!」
「メナス殿……」
「お願い……!」

懇願するようなメナスに、イオは小さく頷くと、再びその身をベットに沈めた。
死にそうな顔で心配している少女に、安心させるように小さく微笑むと、メナスも泣きながらではあるが、微笑を返した。
この少女が、癒しの力を持つ浄の侯爵であることを思い出す。傷を治してくれたのは、彼女なのだろう。

そのままイオは視線だけで、上方のフィアルを仰ぎ見た。

「私は……話さなくてはいけないことが……あります。姫君……貴女に」
「……わかってる」
「メナス殿……外して、いただけますか」
「え……?」
「大事な、話です。私は……姫だけに話したい」
「……イオ様」

メナスはイオとフィアルを交互に見つめる。
戸惑っているであろう少女に、フィアルは微笑んで、一度頷いた。

「わかり……ました。でも……無理はダメです」
「はい……」

イオが首を縦に振るのを確認すると、メナスは一礼して部屋を出て行く。
夜の神殿は、その名の通り、夜にはほとんど火を灯さない。差し込む月の光だけが部屋を薄明るくしていた。


* * * * *


静かな空間に時折付くイオの深い息だけが響く。
傷から来る熱を、呼吸で逃そうとしているかのように。

その暫くの沈黙の後―――――口火を切ったのはイオの方だった。

「……すみませんでした」
「……何に対して?」
「コンラート殿を密かに護衛に付けてくださったのは……貴女なのでしょう?」
「役に立ったみたいでよかったけどね。コンラートは単価高いんだから」

冗談めかして言うフィアルに、イオは小さく笑った。
傭兵として彼を雇った、というわけではないだろうに。この姫君はそういう言葉で自分の心を軽くしようとしてくれているのだ。

「そのおかげで……私はこうして生きて、ここにいる」
「当たり前でしょ」
「……え?」
「勝手に死ぬなんて許さない。レインも同じよ。帰ってくるって約束は果たしてもらわなくちゃ困るわ」

この人はどうしてこうなのだろう。
レインが何故この姫にだけ、心を開き始めたのか……その理由がイオにはようやくわかった気がする。
そのさりげない優しさに、目頭が熱くなった。

この人に、託そう。
そう―――――思った。

「レイン様を……助けたいのです」
「……」
「知っていて、気付いていて……目を逸らしていた私のせいです。私はあの場所に、レイン様を残してきてしまった」
「イオ……」
「たった一人……あんな場所に……!」
「イオ、聞いて」

ベットに横たわったまま、両手で目を覆ったイオの枕元に、フィアルは静かに腰掛けて、落ち着かせるようにその肩に手を置いた。

「今、ユリウスもノイディエンスタークにいるわ。イオと同じ想いを持って」
「……ユリウス?」
「ユリアティウスよ、わかるでしょ、この意味が」
「……ユリアティウス様が……ここに」

ラドリアで、イオ以外にもう一人。
その真実に―――――気付いていた人。

「背中から刺されたのね……庇おうとしたの?」
「……あの時はまだ……確証が持てなかったのです」
「本人に刺されたの?」
「はい……」

フィアルがそっと瞳を伏せる。長い睫が彼女の目元に影を作るのを、イオは黙って見つめていた。





「セイルファウス―――――ね」
「……はい」





品行方正で、賢い皇太子と言われていた、現ラドリア国王。
それが何故と―――――しばらくすれば誰もが気付くことだろう。

ラドリアの玉座に座った者は、狂うのだと―――――人々は思うのだろう。

けれどそれは違うのだ。
セイルファウスは……王になったから狂ったわけでは決してない。
それをユリアティウスは……そしてイオは知っていた。

「……レイン様の過去を、姫はご存知ですか」
「……一応は」
「リルフォーネ嬢が亡くなられた時、いえ、その前から……私は感じていました」
「……」
「あの方は、できすぎている……以前に貴女が言った……とおりです」

まるで絵に描いたような、皇太子。
あまりにもできすぎていて、イオにはアイザックの方がよほど人間くさく思えたものだ。
死神と呼ばれ、誰からも恐れられていた弟にさえ、一度のおびえも見せない。側にいたイオですら、戦場でのレインは恐ろしく感じたというのに、何故あそこまで信頼することができるのか……ずっと不思議だった。
常に命を狙われ、身の危険にさらされていた人間が、あそこまで堂々としていられることに、不自然さを感じた。

「今更ながらに思います……あれこそが、演技だったのだと」
「……」
「セイルファウス様は何かを、しようとしている。それが何なのかまでは……私にはわかりません」





「―――――私は、知ってるわ」





フィアルの強い言葉に、イオは目を見開いた。
そんな彼の髪を、フィアルはその細い指で優しく梳いた。

「知ってる……というより、推測はできる、というのが本当でしょうね」
「……それは?」
「私にはわかりすぎるくらい、わかる。立場は違うけど、似たような想いを、私は抱いているから」
「姫と……同じ?」





「―――――復讐したいのよ」
「セイルファウスは、ただ……ただ憎んでいるのよ」
「自分を生み出したものに、復讐したいだけなのよ」





イオは不穏な響きを持ったフィアルの言葉に、眉を寄せた。
セイルファウスが自分を生み出したものに、復讐したいだけとはどういうことなのか、理解ができない。彼の両親は既にこの世の者ではない。復讐する相手が、そもそも存在しないはずだ。

「闇が……三つ」
「……え?」
「それなのに光は一つ……それがおかしなことだった」
「……何の話です?」

それには答えず、フィアルは小さく笑う。
そして安心させるように、イオの大きな手に、自分の手をそっと重ねた。
……細い白い指は、何故かとても冷たい。

「私達、これからラドリアに行くの」
「……!」
「でも違う、私達はキールを助けに行くだけ」
「キール殿を……」
「イオはこのまま少しここで身体を癒して、コンラートと一緒に王宮へ戻って待ってて」
「しかし……!」
「大丈夫。セイルファウスはレインを殺したりしないわ」
「何故言い切れるのですか?」
「シオンと同じよ。利用価値があるうちは、殺す意味がない」

キールが殺されないのと同じように。
レインもまた、セイルファウスにとっては、利用価値があるのだ。
―――――そして、それはきっと。





「完全なる闇は―――――一人でいい」





―――――だから。
―――――出てこないで。

闇は一人、あの人だけでいい。
他の闇は、いらない、見たくない、会いたくもない。
魔竜であるジェイドの主は、一人だけでいい。

そう―――――ジェイドが選んだのは、ただ一人。
他の誰も、あの人の代わりには、ならない。

「こんなことを言うと、薄情だと思うかもしれないけど」
「……」
「私はね、本当はラドリアがどうなろうと、関係ないって思ってる」
「……はい」
「レインとイオは別。でもあの国そのものには、私は興味がないの。ただ……」
「ただ……?……ッ!」

見上げたフィアルの顔に、怒りにも似た感情が浮かんでいることに、イオは息をのんだ。
それはノイディエンスターク滞在中には、一度も見たことがなかった、彼女の純粋な怒りのように見えた。

「―――――気に入らないのよ」
「セイルファウスの、存在そのものが」

それはとても、個人的な感情だけれど。
同じ闇属性でもレインには決して感じないそれを、フィアルはその男にだけは強く感じていた。

自分のその闇に、あんなにも苦しんだ人を知るからこそ。
―――――それに溺れる者を、自分は嫌悪してしまう。
その立場に、同情しないわけではない。
でも―――――彼が、彼という存在があることそのものが、フィアルには許せなかったのだ。

「……何故ですか」
「……」
「貴女は、セイルファウス様を嫌っている。それなのに、レイン様に対してそうでないのは、何故ですか」
「……レインは、闇じゃないから」
「―――――?」

不思議そうに首を傾げるイオから視線を外して、フィアルは部屋に差し込む月の光を仰いだ。

「レインは……あの人と、同じだから」

月の光に照らされて、フィアルの輪郭がぼんやりと光って見える。
けれどその表情を、イオが見ることはできなかった。