Clover
- - - 第18章 言霊8
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あれだけの魔に晒されて、正気を保っていられる人間は、ほとんどいない。
なのに何故―――――何故。
フィアルに抱きしめられている弟に、シオンは驚愕の瞳を向けていた。

「お前の負けだな……シオン」

ゲオハルトの静かな言葉に、ふっと我に返る。
―――――負けた?誰が?
そんなはずはない。

「……何を言っている。まだ事態は何も変わってはいないさ」
「……」
「お前達はその結界の中にいて、姫から剣が抜けることはない。キールが正気に戻ろうが、事態が好転したわけじゃない。それなのに僕が負けたなんて言わないで欲しいね」

確かに―――――その通りではある。
どう見てもキールとシードは虫の息で、フィアルに至ってはその剣で貫かれたままだ。
この結界内にある限り、ゲオハルト達は力を使えない。状況は絶望的と言ってもいい。

でも何故だろう、ゲオハルトはそれを悲観する気になれなかった。

フィアルが何の抵抗もしなかったのは、キールがシオンの手にあったからだ。そうでなければ刺されてそのままになっているような、大人しい性格を彼女が持ち合わせていないことを、ゲオハルトは良く知っている。

(我ながら、嫌な確信だと思うけどさ)

フィアルは、動くだろう。
その純粋な―――――怒りと共に。


* * * * *


(―――――さて)

いい加減にこの不本意な状況を打破したい。
通常の人間から考えれば、かなりの大出血だ。しかし悲しいかな、慣れというのは恐ろしい。
だがこのままこの剣を刺し続ければ、笑えない事態になることは自分でも分かっていた。

(私はアンタとは違うのよ、シオン)
(簡単に死ねるなら、苦労なんてしない)

自分が死ねば―――――半身の神竜も死ぬのだ。

「……キール」

力が入らず、未だフィアルに身体を預け荒い息を繰り替えすキールに、フィアルは静かに話しかけた。

「つらいと思うけど……苦しいと思うけど……お願い」
「……」
「この剣を……抜いて」

キールは瞬時に目を見開いた。
剣を―――――抜く?
まるで身体に力の入らない状態で、しかもシオンの作った特別な剣が抜けるはずはない。

「……ひ……め……?」
「方法はあるの……私、さっき言ったでしょう?」
「え……?」
「『この花が、好き?』って」

さすがにつらくなってきたのか、フィアルは少し青ざめた顔で小さく微笑んだ。
二人の身体の間では、確かにあの日、キールが贈った竜の涙が輝いている。

―――――シオンの持つアドラの杖の力で、強い魔を帯びた、生気を吸う剣。
抜く方法は……ない。





―――――抜けないのなら?





「ひめ……」
「お願いね」

決して抜くことが、できないのならば。





―――――壊してしまえばいい。


* * * * *


異変が起きたのは、その少し後だった。
フィアルとキールから、急激に淡い紫の光が放たれる。それは、極限まで弱った身体で、それと反するように蓄積された強大な魔の力をキールが使った確かな証だった。

「……な……に?」

シオンも、そして結界内にいたゲオハルト達も、目の前で起こっていることに目を見開く。
その視線の中で、フィアルの身体に覆い被さるように倒れ伏したキールは、必死で手を伸ばし、その剣の柄を掴んだ。

逆の手にはキール自身が彼女に贈った、水晶の花が握られている。
その手に柔らかく、フィアルの白い手が重ねられていた。

それは、彼女に笑って欲しくて……それだけのために使ったはずの力だった。
けれど今、その力は、フィアルを―――――救う力になる。

(「強すぎる力は―――――必要ないのよ」)

そうかもしれない。
本当にそうなのかもしれない。
気を抜けば、消えてしまいそうなその意識の中、キールは強く、そう思う。
―――――握っているその剣の柄が、少しずつ変化を見せたのは、その時だった。

パキ……ッ……。

鈍い銀色に輝いていたはずのその剣は、緩やかにその材質を変えていく。
美しい―――――透明な、水晶へと。

竜の涙。
そう呼ばれるあの小さな白い花を、彼女が愛していることを知っていた。
それを水晶化して、身につけてもらおうと思った。
喜んでくれるだろうと―――――そう信じて。

それだけで、古文書の中から見つけたその力が。
魔を帯びたその剣を、ゆるゆると水晶へと変えていく。

くしくもフィアルに贈ったその花から、デーヌの葉と同じ力を得て。
シオンによって蓄積された強大な魔の魔導力を使うことで、それは可能になった。

「……キール……」

その様を一瞬呆然として見つめていたシオンの顔が、急速に歪んだ。
憎悪にも似た感情を浮かべたシオンの様子に、ゲオハルトは背筋に悪寒を感じる。
自分より劣っていると思っていた者の、その力を見せられることは、彼にとっては許容できない屈辱であるに違いなかった。





パキ……ッ……。
パキ……ッ……。





速度を上げてその剣は確実に水晶化していく。
それと連動しているからか、ゲオハルト達の結界の中心にあった魔石の柱からも、急速にその光が失われていた。
剣が効力を失うことで、シードの聖の魔導力が強く作用し始めたのだ。
イシュタルの肩を強く抱いていたリーフの身体からも、ふっと力が抜ける。あの覆い尽くすような、圧迫感は消えていた。

「シオン」

忌々しげな顔のままのシオンに、ゲオハルトは静かに問いかける。
内乱が起こるその前から、ずっとこの青年とは仲が良くなかった。どうにもウマが合わない。ゲオハルトだけではなく、アゼルもそう思っていたはずだ。
そのせいか、同じ年頃の諸侯の子息達は、顔を合わせることが多かったにも関わらず、シオンだけは一人、いつも離れた場所にいた気がする。

「お前の―――――負けだ」
「……何を言っている、とさっきも言ったはずだよ」
「いや……負けだよ」

ゲオハルトはゆっくりと、倒れ伏したままの二人へ視線を動かした。

完全に水晶化したその剣の中央部に、その白い手は伸びる。
刃先を握っていた手のひらはひどく切り裂かれていたが、水晶化したその剣はもはや彼女の手を傷つけることはない。

刀身を握り締めたその手に、弱々しく傷だらけの一回り大きな手が重なった。
二人はゆっくりと視線を合わせ、小さく微笑んだようだった。





パキィィィィン!!!!!





そして―――――キラキラと光さえ放ちながら、その剣と水晶の花は砕け散った。

同時に、怪しい光を内包していた魔石の柱から、その光は完全に消え去る。
シードが触れているその場所から、赤い石は急激に、彼の瞳の青へと色を変えていった。





それを見たシオンは何も言わずに、パチン、と軽く指を鳴らした。
それはゲオハルト達を取り囲んでいたその淡い紫の結界を解くものに他ならない。

―――――そして、そのまま。
シオンは、何故か静かに、キールを横にして自ら起き上がったフィアルを見つめている。

彼女はその視線に気付きながらも、平静な顔で、自らの肩に刺さった水晶をズブッと抜き放った。
その傷口から新たな血が吹き出て、前身、そして貫かれた背中を伝い、床をさらに紅に染めていく。
―――――尋常ではない出血だ。
いくらフィアルでもそれは明白で、顔色はかなり青白い。

「……キールは、返してもらうわ」
「……そうですね」
「キールだけじゃない、ファングも返してもらうわ」
「……それは僕の知ったことではありませんが?」

軽く肩をすくめたシオンに、フィアルは自嘲的に微笑んでみせる。

「アンタに言ってるんじゃない、その位、わかるでしょう?」
「……」
「私にはもうわかっているって、伝えて」
「……怖いな、貴女は。一体どこまで知っているんだか、わからない」

その瞳から笑みを消したシオンは、無言でフィアルを見つめている。
まるで能面のようなその顔を見ても、もうフィアルは何も感じはしなかった。

「私が何を知っているのか……アンタが何を知っているのか。そんなのはどうだっていいのよ」
「……」
「気に入らないのは、闇に溺れた存在そのもの。それさえなくなれば、他はどうだっていいの」
「……光の巫女姫とも思えない台詞ですね」

シオンは今までの自信に満ちた笑いとは違う、苦笑にも似た笑みを浮かべた。
しかしその言葉にフィアルは珍しく本気で気分を害したように顔を歪める。

「勝手な呼び名よ」
「……」
「私の本当の名を知らない奴等のつけた、適当な呼び名よ……うんざりだわ」

国に戻れば、『光の巫女姫』と讃えられ。
外に出れば、『死の女神』と恐れられる。
リュークが『魔神官』と呼ばれていたのと同じで。

―――――誰も、自分達の本当の名を知ろうとはしなかった。

手に持っていた、元々は剣だったその水晶を、フィアルはシュッとすばやくシオンへと投げつける。
それを意外にも機敏な動作で受け止めると、シオンは水晶をじっと見つめた。

「それだけあれば充分でしょう、アンタが知りたかったことを調べるには」
「……そうですね」
「調べたって闇属性なんて、出て来ないけどね」
「……」
「……とっとと行って、シオン」
「……わかりました」

フィアルは顔を背けて、シオンを立ち去らせようとしている。
それに気付いたゲオハルトは、やんわりとそれを止めた。

「おひーさん、シオンをこのままどこへ行かせる気だ?本来ならここで捕らえるべきだろう?」
「ああ、ここでまた野放しにする必要なんてないぜ」

シードの身体を抱えたまま、レヴィンも強くシオンを睨み付ける。
イシュタルとリーフも、それに同意するようにフィアルをじっと見つめていた。
抱えられているシード本人には、もう意識がないようだった。

しかしそんな4人の視線を受けて、フィアルは小さく笑った。

「いいのよ……ゲオ」
「おひーさん?」
「今は……いいのよ。決着は私達の手でつけなくていい」

立ち上がることもできず、ただ力なく自らの足元に倒れたままのキールに、フィアルは静かに視線を走らせる。
その視線に、キールは薄く目をあけ、もう顔の近くまで流れてきているフィアルの血をぼんやりと見つめた。

「それは、キールの役目だから」

そうでなければ―――――いけないのだ。
イシュタルやリーフは、それを見届けるだけでいい。彼等が手を出してはいけないことだ。
キールはそのフィアルの言葉を、霞む意識の中で聞いていた。





(まだ)
(俺は、まだ)
(必要な―――――存在だと)





彼女は……そう言っているような気がして。
生暖かい感触、かすかな鉄の香り。倒れ伏す自分の頬に、フィアルの血が触れている。
胸が―――――痛くなる。
悲しいのではなく、嬉しいのでもなく、何とも言えない気持ちで、心がいっぱいになっていく。

「だから早く行って」
「ええ……それではまた会いましょう、姫」

ゲオハルト達の視線を受けながら、シオンは静かに扉を閉めた。
足音が遠ざかり、バサバサッという羽音と共に、その気配も急速に消えていく。
それはシオンが精獣を召喚し、どこかへと消え去ったことを意味していた。