Clover
- - - 第19章 邂逅2
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(あげる)

おずおずと差し出したその花に、彼は一瞬驚いたように目を見開いた。
戸惑ったように、困ったように、その瞳は揺れていた。

(……ありがとう)

しばらくして、花をそっと受け取った彼は、小さくそう言って。
優しく、微笑んだ。

―――――それが、はじまり。


* * * * *


「ジェイド」
『……どうした?』

サクサクと草を踏みながら、フィアルは塔の前に座っている魔竜へと近付いた。
何故奥神殿ではなく、ここへ先にやってきたのか、自分でもよくわからない。レヴィンに言伝を頼んだことで、ディシスが彼を連れてくるだろうという想いも、確かにあったのかもしれない。
けれど本当のところは、わからない、と言うしかなかった。

ただ、無性にこの魔竜の側に行きたくなったのだ。

フィアルは手を伸ばすと、かがみこむように彼女を見つめているジェイドの頬に触れた。
そしてそのまま、軽く組んだようになっているジェイドの前足にそっと座り、身体を預け、目を閉じた。

『テーゼ……?』
「……ファングが来るよ」
『……』
「来てくれた」
『テーゼ』

フィアルは目を閉じたまま、まるで夢を見ているかのように、儚げに微笑んだ。

「嬉しい」
『……』
「あの人は、私を憎んでくれる人だもの」
『それは……』

何かを言いかけた魔竜の言葉を遮るように、フィアルは続けた。

「……わかってる」
『……』
「憎み続けることは、苦しくて、つらいこと……だから本当は解放してあげなくちゃいけないの、ディシスがしようとしているように。でも、私はそれを願ってる」

キールの時も思った。
残酷な、何処までも残酷な、女。

―――――でも。

「それ以外……私に何を望めというの?」

そうして、堕ちていく。
後戻りもできない、その場所へと。
そんなフィアルを、ジェイドは哀し気な瞳で見つめていた。

『……俺は、お前の側にいる』
「……え?」
『リュークの分、そして、神竜の分、お前の側にいよう』

その翡翠の瞳に浮かぶ優しい光に、フィアルはまた、笑った。
本当に悲しい時でも―――――きっとこの娘は笑うのだろう。
それがジェイドには、あまりにも痛々しく思えて、その黒い鱗に覆われた頬を、彼女の身体へと摺り寄せた。
もしもここに、ジェイドの半身が存在していたならば、同じ様に彼女を抱きしめただろうに。

「神竜……か」
『……何故、起こさない?』
「他の竜王にも、耳にタコができるくらいに言われた台詞だよ、それ」
『……テーゼ』
「……知られたくないから」

ジェイドの長い鼻先を、フィアルは両手でギュッと抱きしめる。

「神竜は……アルは……私の半身だから」
『……』
「私の心を、アルに隠すことなんてできるはずもない。私が心で思ったことは、全部アルには伝わってしまう」
『……知られたくなかったのか』
「内乱が起こったあの日……私は光の力を暴走させてしまった。その時の私の中にあったのは、嫌悪や憎悪、悲しみ、絶望……そんな闇に近しい感情ばかりだった。でも……それよりも何よりも……私は、怖かった」

触れているフィアルの手が、小さく震えていることに、ジェイドは気付いた。
それでも彼女は―――――泣かない。
だからジェイドは静かに、彼女の言葉の続きを待った。

「私は、自分自身が怖かった」
『……』
「それがどういうことか、分かる?私が私を恐れるということが、どういうことか」
『……テーゼ』
「私はね……それと同時に、アルを恐れたってことなのよ」

自分の、半身なのに。
理屈ではなく、何よりも誰よりも愛しい存在であるはずの、神竜を―――――恐れた。
そしてその事実に、愕然としたのだ。

「私は信じていなかった……アルを、あの子を」
『……それは』
「自分勝手なだけなの。私はあの子に、あの時感じた負の感情を伝えたくなかった。でもそれと同じ位に、あの子を信じきれない自分を知られるのが、怖かった」
『……それでも、きっと神竜はお前を愛しただろう』
「……知ってる」

ふるふると、フィアルは俯いたまま首を左右に振った。
ジェイドの言いたいことも分かる。彼もまた、半身たる人間を誰より愛していたのだろうから。

「私も、好きよ」
『……』
「アルのことが、大好きなの。理屈じゃない……本当に愛してるの」
『……ああ』
「だから……起こせないのよ」

少しだけひやりとした黒い鱗に頬を寄せて。
それきり、フィアルが口を開くことはなかった。


* * * * *


この場所へ戻るのは、内乱が終わってからは初めてだった。
その風景は変わらない。小さな白い花は、優しく風に揺れていた。

ジークフリートが死んで、その結果、大地は荒廃した。
それでもこの場所だけは、変わることなくその花を咲かせ続けていた。
この場所が大神官家の影響を強く受け続けたからなのか、その詳しい理由はよくわからない。
けれど、彼の知る誰もが、この場所を愛していた。

ファングはふっと視線を動かして、その丘の向こうへと視線を動かす。
リュークがいつもいた、あの塔に、魔竜はいるのだろう。
しかしそこへ続く途中で、フィアルの結界がそれを阻んでいる。

忌々しいと思う。
けれど逆に、この国の国民からあの優しい竜を守るためには、必要だとも思う。

ノイディエンスタークの……そしてフィアル、ディシスのことを考える時、ファングの中には相反する二つの感情が渦巻いていた。
憎いと思う、恨んでもいる。
でも、それでも何処かに、期待している心がある。
リュークはあの二人を、信じ、想っていたから。





……サクッ。





背後で草を踏む音がする。
こんなに近くへ来るまで気配を消せる者はそうはいないだろう。
ファングは一瞬目を閉じ、脳裏にリュークの顔を思い浮かべる。

逃げては、いけないと……自分を戒めるため。

ゆっくりと振り返る。
そこにはかつて、常に共にあったはずの親友、ディシスが静かに立っていた。


* * * * *


柔らかな風に、ディシスの赤黒い髪が揺れる。
ファングを前にして、ディシスは一言も言葉を発しようとはしなかった。
ただ静かに、何も言わず、彼を見つめているだけだった。

アゼルがレヴィンからの知らせを受けて、その場に駆けつけた時も、二人はただ何の感情もなくお互いを見つめているだけだった。

「ファング……様?」

ただし立ちすくんでいるような二人を見たアゼルが、呆然とその名前を口にする。
それにファングはようやく視線をフィアルからアゼルへと移した。

「……ユーノス様の子か……アゼル、といったか」
「はい」
「やはり親子だな……よく似ている」

淡々とそう呟くと、ファングは再びディシスへと視線を戻した。

「……来たんだな、お前」
「お前のために来たわけじゃない」
「んなことは、わかってるよ」
「私は魔竜に確かめたいことがあって来ただけだ。それ以外に理由などない」
「相変わらず頑固だな、お前」

ディシスは軽く肩を竦めて笑った。
口調は軽い。だが、二人の間にある微妙な緊張感に、アゼルは全身を固くしていた。
ファングが内乱時、魔神官の側近であったことは知っていた。
幼心に、ディシスとファングの仲の良さを知っていたからこそ、アゼルにはそれが不思議で仕方がなかった。
あんなにも忠誠心厚かった彼が何故―――――と。

「変わらないだろう?……この場所は」

少しだけ切な気に目を細めて、ディシスは白い花で埋め尽くされたその庭を見渡す。
それに促されて、ちらりとその風景を見やると、ファングはそっとその瞳を伏せた。

「ここは変わらない……だが、人は変わる」
「……そうだな」
「もう、ジークフリート様はいない。ユーノス様もいない。あの方も……いないのだ」
「……ああ」

分家とはいえ、二人とも侯爵家の血を継いで生まれ、必然的に騎士を目指し。
そしてあの人に―――――出会った。
白金の髪と淡い蒼の瞳の、この国を一人で支えていた人。

(「お前達はきっと、いい騎士になるな」)

そう言って、頭の上に置かれた大きな手を、忘れることはできない。
―――――この人を、命をかけて守ろう。
その時誓った気持ちは、今も、二人の胸にある。

「……行くか」

この場所は、あまりにも思い出が多すぎる。
優しい記憶と、感傷を呼び起こす。

「……ああ」

ディシスが静かに歩き出したのを見て、ファングもその後を追った。
その姿を傍観していたアゼルも、ゆっくりと歩き出す。

フィアルが解いたのであろう結界の向こうに、ゆるゆると見えてくる灰色の塔を見ながら、アゼルはずっと抱いていた疑問が胸に蘇ってくるのを感じていた。
―――――おそらく。
フィアルとディシスは、ファングの離反の理由を、知っているのだ。

そしてそれは、きっとどうしようもなかったことなのだろう。
ディシスとファングを様子を見ているだけでも、アゼルにはそれが感じ取れた。

あの内乱で、一体どれだけの人間が、その胸に傷を負ったのだろう。
フィアルやディシス、ファングだけではない、もちろん自分達13諸侯もそれを背負っている。2年がたった今も、それは消えることはなく……未だ痛みを伴って、誰もの中に存在しているのだ。

ラドリアでの不穏な動きを、ふと思い出す。
このまままた、ラドリアで争いが起きれば、あの国の民もみな、その痛みを背負うことになるのだろう。

(ダメだ)
(それだけは―――――止めなければ)

痛みを、そのつらさを知るからこそ。
前を行く二人の大きな背中を見つめながら、アゼルは心の奥で固く誓いを立てていた。