- - - 第19章 邂逅6 |
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キィィィ……。
金具がもう錆びているのだろう、その扉は甲高い音を立てて開いた。
重厚な木の扉には、鍵穴が複数付いている。今ではもう閉じられることもないその部屋に、フィアルは静かに足を踏み入れた。
陽が落ちた部屋は、薄暗く、そして埃だらけだ。
簡素な木の机と、寝台しか目立った家具のないその場所を、フィアルはゆっくりと見回す。
そして机に備え付けられた古びた椅子に座ると、重ねられていた本へと手を伸ばした。
ただの古びた物語であるのに、それはとても懐かしく、愛しく感じられた。
―――――それは、この本が彼の持ち物であったから。
そんなことはわかりすぎるほどに、わかっている。
小さな箱庭。
奥神殿とその庭だけが全ての世界だった彼女よりも、もっともっと彼の世界は狭かった。
小さな窓しかないこの塔の、小さなこの部屋だけが、彼の全てだった。
―――――どんなにか焦がれたのだろう、外の世界に。
―――――どんなに嘆いただろう、自分の運命を。
それなのに―――――どうして彼は、あんなにも優しかったのだろう。
彼を想う時、胸にこみあげるこのどうしようもないほどの切なさを、消す術を彼女は知らなかった。
無意識にその物語をぎゅっと抱きしめる。
そして埃だらけのその机にそのまま頭を押し付ける。
悲しいくらいに愛しいのに、彼を想う時、何故こんなにも苦しいのだろう。
それは……もう彼が―――――永遠に手の届かない場所へと逝ってしまったから。
* * * * *
大神官ジークフリートが、内密にディシス達二人を呼び出したのは、彼等が騎士になって1年が過ぎた頃だった。
近衛騎士としての仕事にも慣れ、その類稀なる強さから、次期近衛騎士団長は二人の内どちらかだろうと囁かれていた矢先だった。
近衛騎士という立場上、他の騎士よりは大神官に会う機会も多い二人だったが、直々に呼ばれたのは初めてのことである。
「……オレ、何かしたかな?」
「心当たりでもあるのか?」
「……いや、ねえけどさ。ジークフリート様に直に会うのも久々だから、妙に緊張する」
「お前があの姫をいじめたからじゃないのか?」
「いじめてねえよ!大体1年近く前のことだろ!?」
「ジークフリート様は、光の姫を溺愛してるってのは有名な話だからな。ないとは言い切れないだろう?」
含みを持たせたファングの言葉に、ディシスは渋い顔をして見せた。
「オレだって子供が嫌いなわけじゃねえよ」
「そうだな、お前、どっちかと言うと子供には好かれるタイプだしな。精神年齢が近いから」
「……さりげなく馬鹿にしてないか?」
「気のせいだろ?」
サラッと流されて、理不尽なものを感じながらも、ディシスはかの姫のことを思い出す。
子供は嫌いじゃない、いや、むしろ好きだし、諸侯達の子供達との関係は良好だ。
けれど何故だろう?あの姫とだけはどうにも相性が悪いような気がする。
「……何ていうか、子供らしくねえんだよな、あのチビ」
「そうか?」
「だってまだ4歳くらいだろ?もっとこう遊びに夢中だったり、無条件に大人に甘えたり、ビービー泣いたりするもんだろ?普通」
「……それは仕方ないんじゃないのか?神殿にいる以上、遊び相手もいないだろうし、帝王学みたいなものも教育係から受けてるはずだろう?」
「そうだけどさ……何ていうか、拒絶されてる気がする。そういうのは好きじゃねえんだ」
それに比べて、ゲオハルト達のなんと無邪気なことか。
剣の相手をしてくれと満面の笑顔で寄ってくる、わかりやすい子供達を普段相手にしているだけに、ディシスにとって小さなあの姫はどうにも理解しがたいものだった。
イライラと髪を掻きむしる親友を横目で見ながら、ファングは内心で小さく笑ってしまう。
ディシスはその考えも行動もわかりやすい。苦手だといいながら、本当はあの姫とも仲良くしたいのだろう。諸侯の子息達はほとんどが男の子であるから、女の子の扱いがわからないというのもあるかもしれない。
かの姫は、神竜の半身。
そして彼等が心の底から忠誠を誓った、あの尊い大神官の愛娘だ。嫌うことなどできるはずもない。
「姫もずっと隔離されているような状態だから、人見知りなんだろうな。実際、ユーノス様にはずいぶんと懐いているみたいだし」
「……アイツのは異常だろ?オレ、本気でユーノスはロリコンなんじゃないかと思うことあるぞ?」
「まぁ、あの外見だしな……」
ファング自身、初めてあの小さな姫を見た時、不覚にも見惚れた程だ。
生きている天使のような、ジークフリートに酷似したその容姿は、人として本能的に惹かれるものだと思う。
「確かに、外見は可愛いけどよ……」
「……お前密かに好みだろ」
「ばっ!馬鹿言え!オレはロリコンじゃねえ!」
慌てて否定するディシスに、ファングは声を立てて笑った。
ここまで馬鹿正直だと、かえって清々しくさえ感じられるものだ。
何というか、自分はこの直情的な男の補佐をするのが性にあっていると、そんな気持ちがいつもファングの中にはある。
「ほら、奥神殿だぞ」
「……わかってるよ」
奥神殿は大神官の住居だ。限られた人間しか入ることは許されていない。
今までの会話が嘘のように、少し緊張した面持ちで、ディシスは重厚なその扉を見つめた。
自分の主であるあの人に、今もどこか魅せられたままの自分を、彼は自覚している。
扉を開けて少し進むと、大神官の身の回りの世話をする者の小さな控えの間があった。ほとんどのことを他人任せではなく自分で行うジークフリートにとっては、あまり使われることのない部屋だ。
そのまま回廊を進むと、いくつかの部屋の向こうに、神官長であるユーノスと、守護竜であるサーシャの部屋がある。
そのまた奥は、ジークフリートと娘であるフィアルの私室と寝室になっていた。
「……どこに来いって言ってた?」
「確か、守護竜様の部屋のはずだが」
その返答に、ディシスの顔に喜色が浮かんだ。
ディシスは竜という存在にとても憧れを抱いている。それが尊敬する主の半身ともなれば、その喜びも倍増するのだ。
「……言っておくが、私達は守護竜様に逢いに来たわけじゃないぞ」
「そ、そんなのわかってるよ」
「……どもったな」
「うっせえ!」
プイ、とそっぽを向いたディシスに小さく笑うと、ファングは目の前にある大きな扉を叩いた。
「……ジークフリート様、参りました」
少しの間の後、「入れ」という答えを確認すると、二人は部屋の中へと歩を進めた。
しかし―――――そこに目的の人物の姿はなく。
「―――――よっ!」
真紅を纏った、陽気な神官長が、満面の笑みで座っているのみだった。
* * * * *
「……だから頼まれて待ってたんだって言ったのに。そんなに怒ることじゃねえだろうが」
「……お前にオレの気持ちがわかるもんか」
ディシスに怒鳴られかなり不本意な顔をしたユーノスの後を、ぶすっとした顔をしながら二人は続いた。
そのまま奥神殿を出て、中庭を横切り、そのまた奥へとユーノスは迷う様子もなく進んでいく。勝手知ったるといった風なのも当たり前で、ユーノスは一ヶ月の半分以上をこの奥神殿で暮らしていると言ってもよかった。
「……お前、ちょっとは館に帰れよな。息子に「この人誰?」ってそのうち言われるぞ」
「うわ、お前気にしてることを言うなよ」
「大体何でここに住み着いてんだよ、妻子持ちのすることか?」
それには答えず、ユーノスは苦笑するばかりだ。
そんなユーノスの気持ちが、ファングにはわかる気がした。
大神官ジークフリートこそが、ユーノスにとっては一番大切な人なのだろう。
ユーノスとジークフリートは幼い頃からの親友同士なのだと聞いている。それはそのままディシスとファング二人にも当てはまる関係だ。時に親友というものは、家族よりも信頼のおける存在になることがあるのだ。
「それに、どこに行くんだよ」
「ジークフリートが待ってるところさ」
「だから、それってどこだよ」
「もうすぐ見える」
「何言ってんだよ、見えるって何が……」
その、瞬間。
―――――ぐにゃり、と空間がゆがんだ気がした。
しかしそれは一瞬で、辺りを見回してみると何も変化はない。
(―――――え?)
また進むと、そのぐにゃりとした感覚が続く。それが幾重にも張り巡らされた結界だということは、ディシスとファングにもわかった。かすかに感じる光の気は、それを張ったのが大神官本人であることを示している。
そしてその結界の向こうには―――――古びた石造りの小さな塔が静かに佇んでいた。
「……何ですか、あれは」
奥神殿のさらに奥に、こんな塔があるなんて。
……しかも、あれではまるで。
「……塔だろ」
ファングの疑問に、ユーノスは淡々と答えた。
塔……―――――確かに塔だ。
しかしそれはまるで……牢獄のようで。
そんな二人の心を見透かしたように、ユーノスは言葉を続けた。
「あの塔は、『幽閉の塔』という」
「……幽閉の塔?」
「決してその存在を知られてはならない者を閉じ込めるための場所だ」
(……存在を知られてはならない者?)
ディシスとファングの頭に疑問符が次々と浮かぶ。
その様子を見て、ユーノスはどこか強張った、いつもとは違う笑みをその顔に浮かべた。
「……行けばわかるさ」
「ジークフリート様が……あそこに?」
「……ああ」
「何であんなところに?幽閉の塔と言うからには、誰かが幽閉されているということなのでしょう?」
「……ああ、その通りだ」
その間もユーノスは歩を緩めない。その石造りの塔は徐々に近付いて、彼らの視界いっぱいに広がった。
それ程大きな塔ではない。
しかし、何の飾り気もそこには存在しない。窓も小さな明り取りの窓が数えられるほどしか見受けられない。
その暗さが、それが何とも言えない不気味さを伴っている。
「……幽閉されてるのって、誰だよ」
塔の前まで来て、扉に手を伸ばしたユーノスを止めるように、ディシスは強張った声で問いかけた。
「……これからお前達も逢える」
「……だから!誰なんだよ!」
「そうだな……子供だ」
「……子供?」
ふっ……とため息をついて、ユーノスは一瞬息を飲み込むと、静かに口を開いた。
「ここに幽閉されているのは、まだ10歳にもならない少年なんだ」
その時、どうしてこの炎の侯爵がそんなにも悲し気な瞳をしているのかを、その時の二人には察することすらできなかった。
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