Clover
- - - 第19章 邂逅7
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その閉ざされた部屋に、一日に一回、かの人は必ず訪れた。
どんなに仕事が忙しくても、決して欠かすことはなかった。

「お忙しいのでしょう?俺は大丈夫ですから……」

遠慮、というわけではなく、どんなに疲れた顔をしていてもここを訪れるその人に、少年は申し訳なささえ感じていた。
しかし、その人はそう言うと必ず微笑んで、その手で柔らかく少年の頭を撫でるのだ。

「……忙しくても、何があっても、私はここに来る……いや、来たいだけだ」
「……でも」
「お前が気にする必要はない。私は私のためにここへ来るのだから」

そう言って目を細めるその仕草は、少年を安心させるもので、頭を撫でるその手の優しさに、そっと目を閉じる。

ここにかの人が来るのは、罪悪感からだろうか。
それとも……深い愛情ゆえだろうか。
いつも、思う。
けれど、どちらでも少年にとってはかまわないことだった。

世界に見放され、憎まれる運命の自分を、この人は必要としてくれている。
それだけで充分だ。世界の全てに必要とされるよりも、それは幸せなことのように思えた。

「……私は、お前に」
「……?」
「お前にも、未来を信じる権利があると、思っている」
「……俺に、未来……?」

―――――未来なんて。
そんなもの、夢見ることすら許されない身の上だというのに。
自分はこの人がその祈りによって守っている大地を、滅ぼすと予言された者なのに。

「忘れてはいけない。お前の未来はお前だけのものだ。誰に決められるわけでもない、自分で選びなさい」
「……でも」
「お前も、あの子も……人という存在に生れ落ちたからには、誰にでもその権利がある」

そういうと、大神官ジークフリートは切な気に瞳を伏せた。

「私は―――――そう信じているんだ」

そう、小さく呟いて。


* * * * *


「……私、竜になりたいな」
『……は?』
「竜に、なりたいな」

風にその長い髪を遊ばせた小さな半身の言葉に、竜族の王は、パチパチと瞬きをした。

『竜になりたいって?』
「うん、竜になりたいよ」

まるで懐に抱き込むように彼女を包んでいた神竜は、その意図がわからず首を傾げる。
そんな彼に微笑んで、フィアルはそのひんやりした鱗にそっと頬を寄せた。

「めんどくさいもん、人間」
『……竜も面倒だぞ?特に年寄りがうるさくて仕方ない』
「でも、人間よりマシだよ。竜は嘘をつかないでしょ?」
『……つかないというか、つけないんだ』
「同じだよ、だから竜になりたいの」

ペチペチとその小さな手でフィアルは鱗を叩く。
少しむず痒さを感じながら、竜王は優しく瞳を細めた。

「私が竜だったら、アルのお嫁さんになれたかなぁ?」
『……よ、嫁!?』
「アルのお嫁さんになら、なりたいなぁ」
『……で、でもそれは問題がないか?テーゼ』
「どうして?」

それは可愛らしく自分を見上げてくる大きな瞳に、竜王は苦笑する。

『俺とお前は魂が同じなんだから、自分自身と結婚するのと同じことだぞ?』
「……それって『なるしすと』っていうやつ?」
『……言葉はよくわからんが』

お互いに首を傾げ合っている様は、どこか滑稽でおかしなことに、二人は気付いていなかった。

「でも、アルより好きになる人なんて、いないと思うの」
『俺もそうだが……意味が違うんだろ、多分』
「だって私はアルが大好きなんだよ?」
『俺だってテーゼが大好きだ』

ユーノス辺りが聞いたら笑い転げていたであろう、お互いへの想いの告白もまた奇妙なもので。
近くで一部始終を聞いていた風竜の娘は、ついに堪えきれず、笑いを漏らしてしまった。
―――――それを聞き逃す神竜でもない。
フィアルに向けていた優し気なものとは違う、厳しい視線でサーシャを睨み付けた。

『何笑ってやがる』
『……いえ、あまりにも微笑ましかったもので、つい』
『お前だってジークフリートのことが好きだろうが』
『ええ、それはもう、愛していますわ』

彼は私の半身ですもの、という冗談めかしたその言葉に、神竜はますます渋い顔をした。
竜王とはいえ、実際はまだこの世に生を受けてから4年たらずだ。竜としては赤子に等しい年齢なのである。
そういうサーシャも竜としてはまだまだ子供のような年齢ではあるのだが。
竜の長老達にしてみれば、この竜王はまだまだ危なっかしい守るべき赤子に見えるのだろう。
しかしもって生まれた性格か、この神竜はやんちゃで、粗野な部分が多かった。こうるさい老竜の言葉など聞きたくもないと言うのが態度に出てしまっている。
例外は唯一無二の半身に対してだけで、フィアルへの彼の態度は、優しすぎるほど優しいものだったが。

「サーシャ、私はアルのお嫁さんになれないの?」
『……そうですね、少し、難しいですね』
「……そうなの……」

たちまちシュン、としてしまったフィアルに、神竜は慌てた。

『そ、そんなことはない!俺はテーゼを嫁にしても全然いいぞ!』
「……ほんと!?」
『……けれど王、フィールに卵を産ませるおつもりですか?』
「……たまご?」
『竜は卵で生まれるものなんですよ?フィール』
「でも、アルやサーシャは違うでしょう?」
『私達は特殊ですから。本来は竜は卵で生まれるものです』

自分が卵を産む、ということにフィアルはどうにも困った顔をした。
神竜のことは大好きだが、卵は生みたくない。
そんな彼女の小さな心の葛藤に、当事者である竜王はまるで気付いていなかった。

『テーゼ?』
「んっと……お嫁さんはまだ先でいいや」
『……なんだよ、急に』
「たまごはまだ先でいいの」
『……お前、たまごを生みたくないだけだろ』
「……えへ」

困ったように首を傾げて笑う半身に、神竜は機嫌を損ねたようだ。
あからさまに怒ったような彼に、慌てたフィアルはもう一度擦り寄った。

「でも大好きなのは本当だよ?」
『……たまごは生みたくないけど、だろ』
「だって……まだアルも私も子供だし」
『俺は子供じゃねえよ』
「子供だよ、私と同じ歳でしょ?」
『俺は子供じゃねえの!』
「……なんで子供じゃダメなの?」
『……子供じゃお前を守ってやれないだろ』

そういって背けていた顔を、小さな姫の身体に摺り寄せる竜王の姿の、何と微笑ましいことか。
二人の様子を優しい瞳でサーシャは見守っていた。

自らの半身として生まれた大神官への、竜の愛情はそれはそれは深いものだ。
それはサーシャ自身も常々感じていることだけれど、この神竜のそれはとてつもなく深く、大きかった。

とにかく彼は、フィアルが自分の視界から消えることを嫌がる。
見えはしなくても、気配を感じ取ることはできるはずなのに、それでは満足できないらしい。できるなら今のように、ずっと腕の中にいてほしいと思っているのがありありとわかってしまう。

人よりももっと長い竜族の歴史の中でも、竜王が人と魂を分け合って生まれることなど一度もないことだった。
竜王は―――――孤高の存在。
その存在が生まれるのはただ、光によってのみ。
強烈な光の御柱からそれは形をなし、竜王となる。

けれど4年前、竜宮にしか現れないはずの光の御柱は、かの姫の出生と共に、この地に出現した。
光の御柱が、一人の人間の赤子から立つなどということは、前代未聞であり、竜の長老達がひどく慌てていたのをサーシャは覚えている。

その赤子を見た瞬間の―――――ジークフリートの激しい慟哭も。

(「何故……あいつばかりが」)

彼の親友である神官長ユーノスの言葉は、そのままサーシャが感じていたことだった。
ジークフリートばかりが背負わされる、この運命は―――――なんなのだろうと。
けれど、本当にそれを背負っているのは、この小さな姫とあの少年であることを知る者は少ない。

(「サーシャ」)
(「私は幸せ者だ」)
(「少なくとも私には……お前とユーノスが、いてくれる」)

ジークフリートの言葉は、サーシャの心を締め付ける。
そんなささやかな幸せしか、彼らには抱くことが許されないのだろうか。

「アルはずっと私の側にいてくれる?」
『俺がテーゼから離れるわけないだろ?』
「ずっと?」
『ずっとだ』
「一緒?」
『一緒だ』

その言葉に、フィアルはふわりと笑うと、その鼻先にチュッと音をたててキスを贈る。

「アルと、父様と、ユーノスとサーシャだけいてくれたら、他には何にもいらないのに」
『……何も?』
「みんなで一緒にどこかに行けたらいいのに」
『どこに行きたい?』
「……みんなが幸せで、本当にニコニコしていられる、どこか」

(―――――「めんどくさいもん、人間」)

フィアルが最初に口にした言葉を思い出して、サーシャは悲しげに瞳を揺らした。
この姫はジークフリートが心配していた通り、人という存在を快く思っていない。
むしろその心は、竜に近しいほどで。

『……連れて行ってやるよ、いつか』
「……アル?」

小さな半身に、神竜は優しく瞳を細めた。

『俺が……テーゼをここから、連れ出してやるから』
「本当?」
『ああ……約束だ』
「うん……約束ね」

交わす数々の言葉は、ただただ現実味のないものであったけれど。
それでも二人にとっては、大切な約束に違いなかった。