Clover
- - - 第19章 邂逅11
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この世の中に、自分の父親ほど綺麗な人はいないだろうと、フィアルは思っていた。
眠りに落ちる瞬間に髪を撫でる手も、掠めるような額へのキスも、小さな身体を抱き上げるその腕のぬくもりも、フィアルにとっては大切で、絶対になくしたくはないものだった。

愛されているのがわかる。
その優しい瞳が、更に細められるのを見るのが、フィアルは好きだった。

(大好き)
(大好き、父様)

それを見たくて、愛しい気持ちを口にする。

(ああ)
(私もフィールが大好きだよ)

言葉が人を幸せにすることができるのだと、知ったのはその時だった。
―――――この人は特別なのだと、知ったのも。

誰かに必要とされているのだと、愛されているのだと、それさえあれば人は生きてゆける。
ジークフリートがフィアルに与えたのは、理由などなく理屈でもない、無償の愛情。
人が―――――生まれてから一番最初に受けるべき、親の愛情だった。


* * * * *


最初に感じたのは、強い違和感だった。
奥神殿から離れた庭の奥、フィアルのお気に入りの菩提樹の丘を越えたその先は、ジークフリートやユーノスから、決して近付いてはいけないと言われていた場所だった。
だからこそ、神殿の人々の自分への扱いに傷ついた時、泣くのに都合のいい場所でもあった。

「ねえ、アル」

中庭で摘んだ小さな白い花を、花束のように手に持っていたフィアルは、傍らの神竜に聞いてみた。

「ここ……変」
『……ああ、変だな』
「いやな感じなのに、その向こうに父様の気配を感じるよ?」
『……結界ってヤツだな。誰かがずいぶん前に張った結界の向こうに、ジークフリートが張った結界がある』
「ここに来ちゃダメって……これのせいなのかな?」
『……だろ?』

さほど興味のなさそうな神竜だったが、フィアルはどうにも気になるらしく、その結界の一歩手前で行ったり来たりしている。

「ここ、通れる?」
『通りたいのか?』
「……なんとなく。でも通るとそれがバレちゃったり、する?」
『……俺が何とかしてやろうか?』
「父様にもわからないように、できるの?」
『……あったりまえだろ!?俺は竜王だぜ?』
「すごいすごい!」

えへん、と胸を張る神竜を見て、フィアルは手を叩いて喜んだ。
ただ―――――花束を持っていたので、少し篭ったような鈍い音だったが。

神竜が祈るように瞳を閉じると、彼の白金の鱗が淡く発光する。
しばらく待っていると、フィアルの目の前に、今まで見えていたのとは違う風景が広がりだした。
ずっと続いているように見えた森ではなく、そこには石造りの古びた塔がポツリと立っていたのだ。

「……これ……」
『塔だな』

こともなげにいう竜王に、フィアルは思わずそっとその身を寄せた。
父親に守られていた場所に、こんなものがあるとは思わなかったのだろう。

「何だか……怖い……けど」
『怖いなら戻るか、テーゼ?』
「……でも……何か」

何の飾りもなく、ただそびえているだけの塔を見上げて、フィアルはポツリと呟く。





「呼ばれてる、みたい……」





それは―――――直感であり、予感だったのかもしれなかった。


* * * * *


今日はディシスもファングも騎士団の仕事でメテオヴィース領へ行っているという。
ジークフリートも近々行われる儀礼祭の準備に追われているようで、最近の訪問は深夜といってもいい時間だった。

リュークは部屋で一人、本を開いていた。
ジークフリートが時々持ってきてくれる以外にも、この一年、ディシスが持ってくる怪しげな雑誌やファングが持ってくる真面目な書籍で部屋は少々手狭になってきている。
だが、この部屋以外に居場所のないリュークにとって、本を読むことは唯一の楽しみと言ってもよかった。

知識を得ることは、楽しいことだ。
行くことが許されない場所にも、本の世界の中でなら許される。
しかし……そろそろ整理はした方がいいかもしれない。
最近ではディシスが剣の稽古をつけてくれるのだが、このままでは危険な域にまで、本の山は迫ってきていた。

最近は地図を見つつ、ノイディエンスタークの各領地のことを調べるのにリュークは夢中になっている。
今日ディシスが話してくれた場所はここ、父親が話してくれたのはここ、というように印をつけていくのも楽しかった。

かなり使い込んでいるそのペンを見て、ファングが新しいものを持ってきてくれたのだが、愛着があるのとまだ使えるのとで、リュークはそのペンを使い続けていた。
王子なんだからもっと贅沢しろ、とディシスには笑われたが、リュークは自分を王子だなどと思ったことはない。
生きているだけでも、奇跡なのだ。それ以上の一体何を望めというのだろう。

「……ここが、竜瞳湖、と」

インクをつけたペンで丸をつける。
すると不意に、風が彼の前髪を揺らした。





(―――――風?)





この部屋に窓はあるが、単なる採光のための小さなもので、開けることはできない。
この部屋に風が吹くのは、重く硬く閉ざしたその扉が開かれる時だけだ。

だが、今日ディシス達は来ないはずで、食事を世話してくれている女官が来るには早すぎる。





(―――――父上?)





そう思って振り返るが、扉は開いた気配がなかった。

「……?」

不思議に思ってそのまま見つめていると、扉は一瞬だけ開きそうになるものの、すぐに閉じてしまっている。
あまりにも不自然なその様子に、リュークは椅子から立ち上がり、警戒しながら扉へと近付いた。

―――――相変らず、扉は開いたり閉まったりを繰り返している。
開けて原因を突き止めたいと思ったものの、この扉を自分から開けることは、リュークにはためらわれた。
それほどに、リュークにとってこの扉は重いものだった。彼と外の世界とを遮断する境界線なのだ。

しかし、伸ばしかけた手を引こうとしたその時、リュークの耳に小さな声が聞こえた。

「……んっ」

いつも野太い声に囲まれているからだろうか、その声はとても高く彼には感じられる。
何か力をこめているようなその声が数回聞こえた後、わずかに開いた扉の隙間から、小さな白い手が見えた。
しかも、リュークから見ても相当低い位置に、その手は差し入れられている。

……これはやっぱり、開けようとしていて開かない、という状態だろうか。

リュークはそう思うのだが、やはり扉に手をかけることはできない。
差し込まれた手は扉を必死で押そうとしているようだが、うまく行っていないらしい。





(子供……だよな)
(何でこんなところに、子供が?)





自分も子供ではあるが、まずそのことがリュークには不思議で仕方なかった。
手はブンブンと無意味に動かされている。それでは扉は開かないだろうに……ただでさえ頑丈にできているのだから。
リュークは少しだけ考えた後、グッグッと押されている扉を手を当てることで少しだけ助けてやることにした。

これなら……開けたことにはなるまい。
少しでも、あの優しい父親の負担になるようなことはしたくないのが本音だった。

しかし手の主はそれでずいぶん助かったらしい。
ギギギ……と音を立てながら、少しずつ扉は押されていく。

そしてようやくそれが全部開ききった時。
リュークの瞳は、信じられないものを映し出していた。





肩で息をついている―――――その小さな少女は。
彼と彼の愛する父親と、全く同じ色を、纏っていたのだ。





(―――――そんな)
(まさか……―――――)

けれどその色を纏えるのは、大神官家の血を引く直系の者だけ。
俯いているので顔は見えなくても、その鮮やかな白金の髪が全てを物語っている。

(―――――この子、は……)





「おも……か……ったぁ」





彼女はリュークの存在に気付いていないのか、疲れたようにペタンとその場にしゃがみこんでしまった。
その声にはっと我に返った彼は、彼女が綺麗な白い衣装を身に纏っていることに気付いて慌てる。
掃除はそれなりにしているつもりではあるが、石造りなので冷たいだろうし、元が綺麗な床ではないので、衣装が汚れてしまうと思ったのだ。

その動揺で、つい足を動かしてしまったリュークの立てた、小さなカツンという音に、彼女はビクッ!と反応し、顔を上げた。
そして、その視界に映ったものに、彼女もまた信じられないというように瞳を大きく見開いた。





「……え……っ」





しばらく二人は無言で見つめあった。
それもそのはず、ところどころの違いはもちろんあるものの、その容姿はどちらも父親に酷似していたからだ。





見つめ合い、お互いに考えを巡らせる。
そして、膠着したその状態から、先に復活したのは彼女の方だった。

「……だれ?」
「……俺は……」
「あなた、だれ?」
「……」

ここで何て答えればいいんだろう、とリュークは悩んだ。
自分の存在を、彼女は知らないだろうに。

「……どうして、そんなに父様に似ているの?」
「……それ……は」

ギリッ……と、リュークは口唇を噛む。
名乗るべきではない、決してこの少女に自分の存在は知られてはいけないのだ。
彼女は自分とは違う。光の道を歩いていく者なのだから。

頭の中で自分にそう言い聞かせ、リュークは懸命に言葉を探した。
無意識だったのだろう、握り締めた拳に、その手が触れたのはその時だった。





「―――――っ……」





バッ!と顔を上げると、小さな少女は彼の手に触れて、じっとその顔を見上げていた。
そして、とても……そう、とても柔らかな顔で、微笑んだのだ。

「……私、しってるよ」
「しって、る……?」
「うん、しってる」

戸惑うリュークに、フィアルは触れていない方の手で持っていたその花を、おずおずと差し出した。

「あげる」
「……俺、に?」

フィアルは微笑んだまま、こくりとぎこちなく頷いた。
差し出されたその花を、リュークはじっと見つめる。
絵でしかみたことのない、それが『花』なのだと。

そしてフィアルへと視線を動かした。
真っ直ぐな長いサラサラの白金の髪、柔らかい曲線を描く頬と、大きな淡い蒼の瞳。
そして、その前髪に隠された額には……『祝福の印』があるはずだ。





「……ありがとう」





リュークは知らず笑顔になっていたのだろう。
彼の手の中に納まった、『竜の涙』を見て、フィアルは嬉しそうに笑った。





この出逢いこそが―――――始まり。
けれどそのことをまだ、二人は知らなかった。