- - - 第20章 白夜の炎1 |
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フィアルが閉じこもったままの幽閉の塔を、魔竜ジェイドは静かに見上げた。
月はもうすぐ天頂に差しかかろうとしている。ずいぶんと時間が過ぎているのはわかったが、塔の中からは何の音沙汰もない。
ジェイドはその闇に溶けそうな黒剛の翼をゆっくりと広げると、塔の屋上へと舞い上がった。
そこから長い首を伸ばして、最上階のその部屋を覗き込む。
小さな窓からは、古びた机に突っ伏したまま動かないフィアルの姿が見ることができた。
愛しいと―――――素直にそう思う。
今、ジェイドが抱えているこの想いは、間違いなくリュークのもの。
彼女が泣いていれば、それを止めてやりたい。
彼女が微笑むなら、この心はただ歓喜の声を上げるだろう。
フィアルが竜の姫だから、というだけではない。
これは溢れるばかりの、情熱と―――――恋慕。
命尽きるその瞬間まで―――――彼が彼女を誰よりも想っていたことを、ジェイドは知っていた。
『……テーゼ』
静かに、彼女にしか聞こえない声で、ジェイドはフィアルを呼ぶ。
その優しい声に、フィアルはそっと瞳を開けた。
「……ジェイド?」
『……ああ』
「……なぁに?」
フィアルは顔を上げ、小さなその窓を見上げた。
そこからではジェイドの翡翠の瞳だけしか見ることはできない。
それを見て、フィアルはふふ、と小さく笑いを漏らした。
『……どうした?』
「ううん、懐かしいなって思って」
『……?』
「昔、アルも同じようにそこからこの部屋を、見てたから」
フィアルはそっと立ち上がると、埃だらけのその部屋を見回した。
積み重なった本も、古びたランプも、見覚えのある懐かしいものばかりだった。
『……テーゼ』
「ごめん……今、出るから」
フィアルは一瞬だけ目を閉じて、何かに耐えるように胸元の手をぐっと握り締めた。
これはきっと―――――感傷だ。
ここに来さえすれば、あの優しい人はいつも微笑んでくれたから。
だからきっと……こんなにもこの場所は安心できるのだろう。
始まりの場所。
この部屋でフィアルはリュークと出逢い、この部屋で全てを知った。
「また……来るね」
小さく微笑む。
それ以外の顔を、今はできない。
重厚な扉をギギィと開けて、フィアルは長く暗い階段を静かに下りた。
その先にはきっとあの優しい竜が、何も言わずに待っていてくれると、彼女は知っていた。
あの日、側にいたのは彼女の半身である神竜だった。
けれど今、側にいてくれるのは―――――彼の半身であるジェイドだ。
何故―――――どこでこの歯車は狂ってしまったのだろう。
* * * * *
「竜王陛下……」
『なんだよ、言っておくけど俺は謝らないからな』
つん、とそっぽを向いた竜王を、いつもなら微笑ましく思うはずのジークフリートとユーノスだったが、今回ばかりはそうはいかなかった。
リュークとフィアルは……出逢ってはいけないはずだったのだ。
それを逢わせてしまったのは、この竜王に他ならない。
「リュークの存在は、決して外に知れてはならないものなのです」
『アイツが、反目の印を額に持ってるからか?』
「その存在が知れてしまったら、あの子は生きることを許されない」
『……じゃあお前、今のアイツが生きてるって言えるのかよ』
竜王の物言いに、ジークフリートが返す言葉はなかった。
完全に世間から隔離された生活、穏やかに緩やかに流れる時間。
けれどそれは、本当に意味のある生き方と言えるだろうか。
「……」
『テーゼも、アイツも……一体いつまでこんなところに閉じ込めておくつもりなんだよ』
「陛下……」
『だから俺はテーゼを、竜宮に連れて行きたいって言ったんだ。なのに邪魔しやがって……』
「今も、そう思っているのですか?」
『ああ、でも今ならアイツも連れて行くぜ?封印されてるアイツの半身も一緒にな』
「……陛下ッ」
『俺は魔竜を恐れたりしてない。アイツを見れば、魔竜が俺やテーゼの敵になるなんて、思えない』
竜族の王はその淡い蒼の瞳に、強い光を浮かべた。
その光に、ジークフリートとユーノスは言葉を返すことができない。
『知れちゃいけない、逢っちゃいけない。何でお前達がそれを決めるんだ』
「……ジークフリートはただ、二人を守ろうとしていただけです」
『ユーノス、それでお前はそんなコイツを守るって?馬鹿馬鹿しいにも程があるぜ』
「陛下……」
竜王の言葉は二人にとってあまりにも痛い。
しかしまだ幼さを残した神竜は、その痛みを感じることはできなかった。
『俺は、テーゼが幸せならそれでいい』
「……陛下……それは」
『でもその幸せはテーゼが決めることで、そのためにアイツが必要なら、アイツも幸せになればいい』
「……」
『お前だって本当は、そう思ってんだろ?ジークフリート』
―――――そう。
―――――その通りだ。
我が子の幸せを、望まない親がどこにいるというのか。
(「父上……」)
(「花を貰いました……あの子から」)
(「とても……とても……嬉しかった」)
―――――あの子があんな顔を、するなんて。
(「父様」)
(「あのね、私ね」)
(「父様と同じくらい、兄様のことが好きよ」)
―――――あの子があんなことを、言うなんて。
特定の人間としか接したことのないリューク。
特定の人間以外をひどく怖がるフィアル。
そんな二人は、初めて逢ったお互いの存在に何を感じたのだろう。
出逢ってはいけなかったはずの二人は、とても……とても優しい瞳をしていた。
* * * * *
(困りますな)
(大神官家から、反目の印を持つ者が生まれるなど……許されないことですぞ)
(死産ということにすれば、外聞も悪ぅない)
(大神官殿……ユリーニ妃には知らせずに、始末なされませ)
(それが大神官としての……貴方の務めでありましょう?)
氷のように冷たい言葉ばかりが、投げつけられたあの日。
その痛みが……雪のように心の奥に降り積もった。
―――――けれど。
確かに生きている目の前の小さな命を―――――殺すことだけは。
どうしても……どうしても……できなかったのだ。
ジークフリートは、身にしみてわかっていた。
大神官とは、いまやこの国では名ばかりの存在でしかない。
特有の魔導を継承する13諸侯家ですら、神官達に逆らうことができなくなっているのだ。それに反発を覚えている諸侯もいれば、媚を売る諸侯もいる。思った以上にこの国の腐敗は進んでいた。
(あいつらは腐りきってる……遅かれ早かれ、このままではノイディエンスタークは滅ぶぞ)
そう言ったのは風のレグレース侯爵であるロジャーだったか。
彼はユーノスと同じく、ジークフリートに近しい人物でもあった。
守らなければ……あの子が生きていられるように。
ただひたすら―――――それだけを願って。
けれどそれは、あの子を幸せにすることだっただろうか?
* * * * *
黙って俯いてしまったジークフリートを、竜王は少し同情を込めた瞳で見つめた。
この神竜にとってはフィアルの存在が全てで、そのフィアルが愛している父親を悲しませるのは本意ではないのだ。
『……あの二人が逢ってる時は、俺が結界を張ってるさ』
「……竜王陛下……?」
『俺の結界だぜ?誰がそれを破れるってんだよ。だから……その……心配すんな』
ぶっきらぼうだが優しい神竜の言葉に、ジークフリートとユーノスは顔を見合わせた。
そしてやんわりと微笑み合う。
二人にはこの竜王の守護があるのだと、今更ながら思い出した。
『だから』
「……だから?」
『逢うな……なんて言うなよ?引き裂いたり、するな』
「……陛下」
『あの二人は、兄妹なんだろ?』
そう、確かに二人は血の繋がった実の兄妹だ。誰が否定しても、その容姿を見ればすぐにわかることだ。
一番近しいはずの存在。額にその印を持つならば尚のこと。
『テーゼは俺が守る……俺はテーゼだけの守護竜なんだ』
「……」
『俺は……世界よりも何よりも、テーゼだけが大切なんだ』
竜族の王としては間違っているのかもしれない。
けれどその想いの強さが、あの小さな少女を守っている。
そして……そのフィアルが大切に想うものをも、竜王は迷わず守るだろう。
生まれながらに守護竜を失ったリュークをも、彼の想いが守るのだ。
こんなに安心できることはない。
「……竜王陛下」
『……んだよ』
「二人を……頼みます」
どうか少しでも長く……二人が共にいられるように。
ジークフリートもユーノスも、ただただそれを願わずにはいられないのだ。
彼等の真摯な視線を受けて、竜王はただ黙って頷いた。
その沈黙こそが確かな約束だと―――――わからないはずもなく。
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