Clover
- - - 第20章 白夜の炎2
[ 第20章 白夜の炎1 | CloverTop | 第20章 白夜の炎3 ]

―――――ペタリ。

頬に触れる手はほんのり暖かく、リュークはゆっくりと瞳を開けた。

本を読みながら眠ってしまったのだろうか。机に突っ伏したままだった視界に、ひらり、ひらりと小さな手が揺れている。
座っていた椅子の横で、小さな妹が懸命に手を振っているのが見えて、リュークは思わず微笑んだ。

初めて出会った日から、フィアルが頻繁にこの部屋へやって来るようになってもうすぐ半年になる。
外へ出て行くことをリュークが未だに拒んでいるので、逢うのはこの部屋の中だけではあったが。
そんなに頻繁に来ているのだから、もちろんディシス達と顔を合わせることもあった。
しかし初めてこの部屋でディシス達と鉢合わせした時、フィアルはタタタッと走ってリュークの後ろに隠れてしまった。それを見て、ディシス達は目を丸くしていたものだ。

それは未だに変わらず、フィアルが心を開くのはリュークに対してだけだった。

そんな風に純粋に自分を好いてくれるのが―――――嬉しい。
可愛くて、愛しい。こんな気持ちを彼は、フィアルに出逢うまで知らなかった。

「……おはよう、テーゼ」
「……おはよう、なの?」

もうお昼だよ?とフィアルは首を傾げる。
竜王に習って、リュークは妹のことを竜の名前で呼ぶことにしていた。

「うとうとしてたみたいだ」
「おひるね?」
「お昼寝……っていうか、うたたね、かな?」
「おねぼうさん?」
「はは、そうだね」

身体を起こして、自分の顔を見上げているフィアルを、リュークは抱き上げた。
そのまま机に座らせてやると、彼とフィアルの視線の高さは同じになる。それをフィアルがとても喜ぶことを、もうリュークは知っていた。

「兄様」
「……ん?」
「はい、あげる」

フィアルはリュークの顔が近くなったことに微笑みながら、その頭に持っていた花冠を乗せた。
この妹姫は、リュークのところへ来る時はいつも花を持ってくる。
花束だったり、一輪だったり、今日のように何か加工したものを持ってくることもあった。

「ありがとう、テーゼ」
「うん」

優しく頭を撫でてやると、心底嬉しそうにフィアルは笑った。

―――――失いたくない。

心から、そう思う。
暖かくて、柔らかな手。
自分を底知れぬ闇から―――――救うもの。

お互いに気付いてはいなかったが、それは二人が初めて抱いた『執着』とも呼べる感情だった。
純粋な兄妹の想いとはまた別の、人として引き合う想い。
額に印を持つ、という特殊な環境にあったからこそ、その想いは強かった。

「兄様」
「うん?」
「兄様、大好き」

満面の笑顔でぎゅうっと首筋に抱きついてくるフィアルを、リュークは笑顔で抱きとめた。
『幸せ』なんて……今まで感じたことも、望んだこともなかったのに。
―――――今、この時が……『幸せ』だと思える。

腕の中で顔を上げたフィアルにそっと額を寄せて。
こつん、とぶつかり合うその印を―――――リュークは今だけは厭わしいとは思わなかった。


* * * * *


「……やはり、そうか」

ジジジ……と小さな火だけが灯されたその部屋で、ジークフリートは報告書を読みながら、深くため息をついた。

「前々から疑わしいとは思っていたが……」
「神官の腐敗はこれから加速するだろうな」

ギリッと口唇を噛むユーノスの横で、あくまでも無感情にロジャーはその明るい茶色の髪を揺らした。
そんな彼から報告された神官と侯家の癒着は思ったより根が深いものになっていた。

しかしその報告の中に、魔のファティリーズ侯爵家があったことが、ジークフリート達の心を尚更重くしていた。
ファティリーズ侯爵家は、その受け継ぐ力の特異性から、常に中立の立場を求められる。そのファティリーズが神官と癒着するなどあってはならないことだ。

「神官と癒着した候家の領地では、諸税が引き上げられたらしいな」
「……賄賂かよ」
「彼等は神官に金を渡して、権力を得る。神官はその金で好き勝手にやりたい放題ってわけだ」

ロジャーは一気にそう言うと、ちらりとジークフリートへ視線を移した。

「さて……それでお前はどうするつもりだ?大神官殿」
「……」
「このままただ、見ているつもりか?」
「そんなことはしない」
「なら、どうする?今のお前に何ができる?お前だってわかっているだろう……今のお前は……いや、大神官家は単なるお飾りに過ぎないということをな」
「ロジャー!」

言い過ぎだ、と口を挟むユーノスにロジャーは皮肉げに笑った。
風―――――その持って生まれた性質のままに、ロジャーはつかみどころのない人物ではある。だが、その意見は的を得ていて、ただ遊んでいるわけではないことをジークフリートもユーノスも知っていた。

「このまま放置すれば、諸侯は勝手に領地の税を上げ続けるぞ?結果、飢えるのは領民だ。神官などとは名ばかりの、神や大地を信じてなどいない輩は、自分の欲に溺れるだろう。そうすれば……この国は滅びる」
「……ロジャー……」
「大神官家は国民に絶対的な人気がある。だからお前達には今はその手が及んでいないだけだ。だが金に溺れ、権力を得た者は必ず思うだろう。この国を治めるのは大神官ではなく、自分だと……自分こそがふさわしいのだ、と。そうなればお前達の命も危うくなる。それがわかっているか?」

ジークフリートの祈りによって支えられている大地。
実際、祈りを捧げているジークフリートには、確かに大地が生きているという実感がある。その祈りに呼応するように、大地は生命を育んでいるのがわかるのだ。

―――――けれど。

それを感じ取れるのは、この国ではただ一人、ジークフリートだけだ。
神官達は既にそれを信じてはいないだろう。毎日続く大地への祈りを、格式ばった古い儀式としか思っていない節もある。
そうなれば、彼等にとってジークフリートは邪魔な存在に成り果てる可能性も充分にあるのだ。

「奴等が……クーデターを起こす可能性があるってことか?」

ユーノスにもそのロジャーの言葉の意味は充分にわかっていた。
神官達が、そして裏切った諸侯達が、本当にこの国を我が物にしたいと願う時、一番に狙われるのは、親友と自分であるという事実も、理解していた。
だが、それを事実として受け止めたくないという心も、まだ心のどこかにはあったのだ。

「だからお前はあの二人を、ジークフリート直属の近衛騎士にしたんだろう?ユーノス」

口は悪いが腕は確かなディシスと、冷静な状況判断のできるファング。
二人がジークフリートの側にいてくれたら、万が一の場合にも安全だから―――――と。
そこまで見透かされて、ユーノスは静かに目を伏せるしかできなかった。

「ジークフリート……わかっているな?」
「……ああ」

ロジャーの確認を促すような視線に、ジークフリートは小さく頷いた。
このままにしておくわけには、いかない。自分にはこの国を守る責任がある。
―――――けれど、この手はあまりにも無力だ。

「……その名のとおりの男だな……私は」
「……ジークフリート」
「祈ることしか……できないなんて」

大神官に即位してからずっと、その無力さを痛感してきたジークフリートの言葉に、ユーノスは悲しげに眉根を寄せた。