Clover
- - - 第20章 白夜の炎10
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「離して!離してってば!!」
「おとなしくしてろ」
「やだ!父様!ユーノス!」

ジタバタと暴れる身体を抱きかかえたまま、ディシスは奥神殿の裏へ急いでいた。
もたもたしているわけにはいかない。ジークフリートやユーノスが自分に託した想いを無駄にすることになる。
けれど、この姫君の気持ちもわかるのだ。自分でさえこんなにつらいのだから。





(「―――――愛してるなら、側にいて!」)





あの言葉を言われたジークフリートも、きっとつらかっただろう。
誰もがみな、悲しい。何かを失う痛みに耐えている。

「アル!いるんでしょ!私を父様のところに連れて行って!アル!」
「おい!チビ!」
『……それは、ダメだ。テーゼ』

頭の中に響く竜王の言葉に、フィアルは愕然とした。
今まで自分が心の底から願うことを、竜王が拒絶したことなどなかったのに。

「な……んで?」
『……お前を、守るためだ』
「……私を……?私だけを守るの?父様やユーノスやサーシャは!?」
『……』
「アル!」

その問いに、竜王は答えない。
否、答えられないのだと、ディシスにはわかっていた。
竜王は偉大な存在ではあるが、万能ではない。守ることができるのは―――――己の半身だけ。

「父様……」

また泣き出したフィアルの背中を、ディシスは宥めるように優しく撫でた。
仕方がない。
今は、泣くしかないのだ。この姫も……自分も。





そう思って油断していたのが……間違いだった。
おとなしく泣き出したと思っていた娘に、まさか胸を思いっきり蹴られるとは予想もしていなかったのだ。





「……ッッ!!」
「降ろして!!」

フィアルは思わず緩んだディシスの腕から抜け出すと、小走りに今来た道を戻ろうとする。
ディシスはそれを阻もうと手を伸ばしてみるものの、息ができず、床に膝をついた。

『テーゼ!』

たまらず神竜が半身たる少女を呼び止める。
その声に怒ったような顔で振り返ると、フィアルは姿を現した神竜を睨み付けた。

「止めたら、嫌いになるから!アルのこと、嫌いになるから!」
『……ッ!』
「私は絶対に……絶対に!父様達を置いて行ったり、しない!」
『……テーゼ』
「そこにいて!」

その後フィアルの口から放たれた言葉に、神竜が身体を固くするのがわかった。
その言葉は何故か空気に溶けて、ディシスの耳には届かない。
聞こえるのはただ、走り去っていく軽い足音だけだった。

「……ど……して」
『……』
「ど……うして、止めないんです……か!」

苦しい息の下、ディシスが搾り出すように問う。
神竜はまた姿を消すと、ディシスの耳元で、怒ったように叫んだ。

『……仕方ねえだろ!アイツ……ッ!』
「え……」
『テーゼのやつ……俺の本当の名前、呼びやがった!』

竜の真の名は、それだけでその存在を縛る。
竜族の王たる彼の、真の名前を知るのはこの世にただ一人……あの小さな姫だけなのだ。
その名を使われた言葉は神竜にとって、絶対に逆らえない命令になる。

「いか……ないと」
『……』
「オレは……あのチビを……守るって……約束」

約束した。確かに心に誓った。
ジークフリートの心を、無になどできない。それだけは絶対に許されない。

「カハッ……」

荒い息を付く。呼吸を整えなければ、動くことができない。
嫌な脂汗が額を伝う。





―――――けれど。
この時の油断が更に大きな悲劇を招くことを、この時のディシスは知る由もなかった。
そしてそれが、彼が命尽きるその日まで深い深い後悔となって、心に大きな傷を残すことになることも。


* * * * *


(行かなくちゃ)
(逃げるなんて、ダメ)

勝手知ったる奥神殿を、フィアルは小走りにかけていく。
生まれてからずっと生活していた場所だ。
ディシスに追いつかれないように、誰かに見つからないように、フィアルは自分なりに選んだ回廊を走っていた。

(ごめんね、アル)
(嫌いなんて、嘘だよ)
(でも今は……私、どうしても父様のところに戻りたいの)

嫌いになんて、なれるはずがない。
どうしようもなく大好きな神竜に、ひどいことを言ってしまったと後悔がよぎる。
けれどその足を止めることはできなかった。

(このまま逢えなくなるなんて、イヤ)
(行かないで、父様)

考えるだけで涙が溢れてくる。
時折それを小さな左手で拭いながら、フィアルは走った。

ジークフリートがいて、ユーノスがいて、サーシャがいて。
その見守る先で、自分とリュークが花に囲まれて笑っているのを、少しだけ拗ねた瞳で神竜が見つめる。
そんな未来を夢見ていたのに、もう叶うことはないなんて思いたくはない。
二度と逢えないなんて―――――言わないで。

奥神殿を出て、フィアルはそのまま神殿へと向かった。
細い回廊で繋がれたその場所を通ったことは、数回しかない。
神殿に行くのは怖かった……みんなが自分を好奇の目で見るから。
でもそんな時……ジークフリートはいつも小さな自分の手を引いてくれたし、ユーノスは笑顔で頭を撫でてくれた。

―――――暖かい手。
―――――触れられるのが大好きで、嬉しい。

その手をどうか……奪わないで。
願うことはきっとそのささやかな望みだけだったというのに。


* * * * *


回廊の端、神殿へ入ろうとしたフィアルの身体は、急に強い力で抱き上げられた。
驚いて思わず叫びそうになったフィアルの口を、大きな手が塞ぐ。

(まさかもう、追いついた?)

自分を抱き上げて脱出しようとしていた男の存在を思い出して、フィアルは苛立ちを抑え切れなかった。
もう一度蹴り上げてやろうかと、精一杯の怒りを込めて、潤んだその瞳で振り返る。

―――――しかし、そこにいたのはフィアルが想像していた人物ではなかった。

「……これは姫君。こんなところにおいででしたか」
「え……」
「いけませんね。このようなところにいらっしゃってはいけません」

ニヤリと浮かべた笑みに、フィアルは背筋が寒くなるのを感じる。
ディシスのことは確かに好きではなかった。けれど、その嫌いとは種類が違う。彼の側にいて、こんな風に恐怖を感じたことはない。

フィアルを抱き上げた男は、その羽織っている神官のローブの間から、エリオス侯爵家の血縁であることを示す明るい茶色の髪をのぞかせていた。

―――――ジョルド・クロウラ。

その名をフィアルは知らない。
けれど恐ろしいと思ってしまうのは―――――本能的なものだったのかもしれなかった。

「ヤッ!降ろして!!」

バタバタと暴れだす少女に苦笑しながら、ジョルドは腕の力を緩めようとはしなかった。
ディシスよりも全然細身ではあるが、所詮は大人と子供。フィアルがその力に抵抗できるはずはない。

「おとなしくしていてください。すぐに、お父上や神官長殿と逢うこともできますから」
「イヤ!私……自分で!!」
「自分でなど……神竜の半身たる方にさせるのは、恐れ多いことですよ」

口ではそう言いながら、目が笑っていない。
フィアルは今まで、好奇に満ちた目や、欲に溢れた視線を感じたことはあっても、こんな憎しみの篭った視線を向けられたことは一度もなかった。

(―――――怖い)

抵抗すらできないほど、ジョルドの瞳には彼女に対する怒りと憎しみが燃えていた。
わからない。
どうして自分がこんな視線を向けられなければいけないのか、フィアルにはわからない。
けれどこのまま彼に連れられていけば、良くないことが起こる……そのことだけはすぐにわかった。

逃げなくちゃいけないのに、身体が竦む。
―――――どうして?

「さあ、行きましょうか。貴方はノイディエンスタークが産んだ光であり―――――最大の罪の子なのだから」

泣き、嘆き叫び、苦しむ様を見せてくれるのでしょう?
そう言うと、ジョルドは神殿のある部屋に向かって歩き出した。

ジークフリートが大地へ祈りを捧げる為の部屋……祈りの間。
その控えの間では今まさに……炎の神官長が、神殿へ攻め入ってきた敵と対峙している最中だった。