Clover
- - - 第21章 絡まる糸2
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血を怖いと思わなくなったのは、あの日からだ。
ユーノスの血の雨が降った、あの日。

いくら相手を切り捨てても。
断末魔の叫びを聞いても、命乞いをされても、心が痛まない。
殺すのが女でも子供でも、それは関係なかった。

きっと私の心はあの日、死んでしまったからだ。
人間という存在そのものが、イヤでイヤでたまらないからだ。
そして自分自身を……一番嫌っているからだ。

……アル。

あの国の深い深いところで眠っているあなたは。
今の私を―――――どう思うの?


* * * * *


ラドリアの各国への侵攻が始まったせいで、傭兵達は仕事に困ることはなく、むしろ好景気に沸いていた。
傭兵の力を借りなければ、これだけの大きな侵攻は成し得ないからだ。

「すげぇカッコだな、着替えてこいよ」

今日の戦闘を終え陣へ戻ってきたディシスは、ぼんやりと手近な岩に座っている娘に声をかけた。
ディシスもそうだが、彼女もまた戦場では黒を纏う。返り血を浴びても、汚れが目立たないからだ。
けれどそんな黒衣を纏っているにも関わらず、フィーナは全身を血に染めていた。

ディシスとは違う、柔らかな肌。
本来の肌の色はもっと白かったけれど、フィーナは髪と瞳の色だけではなく、肌の色も少し黄色がかった色に変えていた。
その肌という肌に、びっしりと血がこびりついている。

「……目立つ?」
「目立つ。しかもお前、ベタベタして気持ち悪いだろうが」
「……わかった、着替えてくる」
「ひよこを連れて行けよ!戦場で、みんな女に飢えてるんだからな!」
「……私を襲う命知らずがいるかな」
「ここのところ、お前のことを知らない新参者が結構いるんだ。気をつけろよ」

はいはいと、フィーナはひらひらと手を振りながらテントへと向かう。
その後を、何も言わずにネーヤが追っていった。

「気をつけるのは、お前じゃなくて……あんまり殺しすぎるなってことなんだがな」

おそらく勝利に浮かれているであろう新参の傭兵達に、ディシスは同情する。
こんな戦場に、フィーナのような美しい少女がいれば、彼等がどんな行動に出るのかは、火を見るより明らかなのだ。

「また汚れた、とか平気で言うんだろうな……あいつ」

人を殺すことをためらいもしなくなった娘に、ディシスは苦笑するしかなかった。
ふっと、脳裏に昔の光景が蘇る。
限られた空間の中、仲睦まじく寄り添い笑っていた兄妹の姿は、手の届かない過去のようだ。

「ジークフリート様……すみません。オレの育て方が悪かったんでしょうか?あいつ……なんかすっかりグレちまいました」

見上げた夜空に浮かぶ、満月に近い形の月に、ディシスは思わず手を合わせてしまう。
グレたと言うか、環境への順応が良すぎたと言うべきかは悩むところだ。





フィアル・セラフィナ・アンテーゼ・ノエル・フォルスマイヤー。





娘の本当の名を知ったのは、ノイディエンスタークを遠く離れて、しばらくしてからのこと。
人の名、ルーンの名、龍の名、称号、そして家名。
彼女は数ある本当の名前の中で、セラフィナというルーン名の一部を名乗ることを決めた。
それはルーン名しか持たなかった、たった一人の兄への忘れがたい想いであったのかもしれない。

フィーナ、フィーナと、何度もその名を呼んで。
怒鳴りあって、いがみあって、それでも抱きしめあって、笑いあって、一緒に戦場に立つうちに生まれたのは、深い深い、本当の親子のような愛情だった。

泣き叫ぶ少女に、生きて幸せになれと言った主の心が、今ならわかる。
心からそう思う。あの娘の幸せに微笑む顔が見たいと、願ってしまう。
そしてディシスが想い描くフィーナの幸せは、どうしてもリュークへと繋がっていくのだ。
ジークフリートもユーノスもいない、今となっては。

―――――けれど。
落ちのびたはずのリュークとファングの行方は依然わからない。
ディシスとフィーナもこんな風に身を隠しているのだから、二人もまた身を潜めているのが当たり前ではあるのだが、傭兵の情報網を使ってもなお判明しないことに、ディシスは苛立っていた。

ノイディエンスタークを脱出して以来、ディシスは一度もフィーナの涙を見たことがない。
まるで剥き身の刃のような娘を、リュークならばきっと救うことができるはずなのに。


* * * * *


「……また汚れた」
「フィーナ、大丈夫?」

ゴロゴロと周囲に転がる遺体には目もくれず、フィーナは自らの服についた血をうっとおし気に見やった。
これだから男だらけの戦場は嫌いだ。
女と分かれば、自分の立場もわきまえず、襲ってくるバカ共の何て多いことだろう。

「いくら黒だからって、あんまり血を吸い過ぎると着る気がなくなるんだけどなぁ」
「……着替える?」
「うん、着替えるよ。その前に身体を洗うけどね」

死体の中、何とも平和な会話を続ける二人を、傭兵達は少し距離を置いた場所から畏怖の篭った視線で見つめていた。
下手に近づけないのだ。
彼女はまるで歩くのと同じくらい平然と、周りにいた十数人の傭兵を切り捨てたのだから。

フィーナが死の女神、と呼ばれるようになったのはそんな淡々とした態度のせいもあった。
女神の仕事は、死を導くこと。
傭兵達の口から口へ、それは伝わり、今では知らない者などいない最強の傭兵となった彼女に逆らうものはそう多くない。

「血は……乾くとカピカピになるから、イヤなんだよね」
「うん」
「ネーヤも汚れちゃったね。一緒にお湯、使おうか?」
「うん!」

フィアルが剣で辺りの傭兵達を切り捨てるのと同時に、ネーヤもまた両手に持った銃で、かなりの人数を殺したはずだった。
それでも彼の心は純粋で美しいと、フィーナは思う。
ただただ自分を慕い、教えられるがままに銃を持った彼は、何人の人間を殺そうとも穢れることがなかった。

死体の山をまたいで、フィーナはネーヤを促し、湯屋へ向かう。
傭兵達に身体を売っている娼婦達がいる場所ではあるが、ただ湯を使うことも可能だ。
しかし今回の仕事に関して言うならば、その湯屋の数は圧倒的に少なかった。正規のラドリア軍側にはこういった施設はないらしい。

「そう言えば、今回の指揮官って……死神だったっけ」

ラドリア王家の中でも、その強さで名高い第5王子。
常に黒衣を纏い、その髪も瞳も漆黒の闇の色だという彼は、湯屋のような俗な施設を嫌っていると聞く。

「死神に、死の女神に、死の天使……か。揃いも揃ったものね」

顔馴染みになった湯屋の女に軽く手を上げると、フィーナはネーヤを連れて、個室状になっている一番奥の部屋へと向かう。
狭いが、他の部屋ではただ湯を使うだけではなくて、商売が行われているので、仕方がない。
何のためらいもなく服を脱ぎ捨てて、熱いお湯を頭からかぶる。
隣ではネーヤも熱いお湯に顔をしかめながら、腕についた血を洗い流していた。

「死神?」
「そう、死神。今度の指揮官はそう呼ばれてるの」
「ふぅん」
「どうだっていいのよ、指揮官なんて。ただバカな判断さえしてくれなければ、私達には関係のない奴なんだから」

ラドリアの仕事を今まで請け負っていなかったのは、結果を聞く限りにおいて、指揮系統があまりにも愚かな判断を下していたからである。こちらは一応命をかけているのだから、そういう指揮官の下で戦うのは真っ平だった。

その点では、今度の死神は合格点と言えるだろう。
少なくとも、バカではない。戦いの組み立ても、引き際も、何もかもが今までのラドリア軍とは違っていた。

こびりついた赤を、お湯が流していく。
魔導で少し色を変えた肌は、それでも白くて、血の赤色はとても目立った。





それでも、流せないものも確かにある。





あの日のユーノスを彩った赤が、今でもこの身体に染み付いている気がしてならない。
穏やかに笑っていた、あの優しい人を思い出す度に、身体が震える。





(……フィ……アル)





本当の名前を名乗ることをやめたのは、彼が最期にその名前を呼んだから。
呼ばれたその名で、人を殺める傭兵にはなれなかったから。

人を殺めるたびに、その赤を見るたびに、あの光景が脳裏をよぎる。
人という生き物への憎悪が、心に沸き起こる。そうなるともう、目の前の全てを切り尽くさなければ止まることができない。





助けてくれと叫ぶ声に、苛立つ。





(―――――あの人は、最期のその瞬間にさえ、命乞いをすることはなかった)





逃げる背中に、怒りが込み上げる。





(―――――あの人は、何があろうと逃げることを選ばなかった)





立ち向かってくるその顔に、腹の底から衝動が沸きあがる。





(―――――あの人は抵抗すら、できなかったのに)





分かっている。
これは我侭で、敵である者にとっては何の関係もないこと。
けれど何故か心はそれを忘れてはくれないのだ。
あの日の赤を、なかったことになど―――――できないのだ。





(「ちっちゃいオレの姫さん」)
(「女の子はな、笑ってる方が可愛いんだぞ?」)





ごめんね、ユーノス。
もう……そんな笑い方、忘れてしまったの。

花よりも、剣を選んだ自分にはもう、生きていく術はそれしかないと、フィーナは誰よりも知っていた。
今更……他の生き方なんて、選ぶことはできない。

「フィーナ?」

濡れた髪をうっとおしそうにかきあげながら、自分を見上げてくるネーヤに、フィーナは小さく笑った。
全てが洗い流され、その白い肌にもう血は残っていなかった。