Clover
- - - 第21章 絡まる糸4
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水音がした。

静まりかえったその建物内を歩いていた男は、その水音にピクリと反応した。
腰には大きな剣を下げている。

くるりときびすを返すと、男はある部屋で数枚の布と服を取り出し、それを持って水音のした部屋へと向かった。

部屋は静かに青く発光する水で満たされていた。
その水の中に、一人の青年が一糸纏わぬ姿で身をたゆたえている。

「……もうそろそろ上がりませんと、風邪をひきますよ」

男は自分よりも随分と歳若い青年に声をかける。
ただ静かに目を閉じて、水に身を任せていた青年は、その声にふっと笑った。

「風邪なんてひかないさ。悲しいことに丈夫なんだ、俺は」
「過信はいけません」
「水の中は気持ちがいいから好きなんだよ」

そう言い放つ青年に、男は困ったような視線を向ける。
この歳若い主は、ほとんど彼を困らせることはないが、この沐浴の時間だけは別だった。

「ヨシュア様、着替えを……」
「やめてくれ」

水面から伸びる手は、しなやかだがしっかりと筋肉の線が浮き出ていて、彼が一通りの武術を身につけていることを物語っていた。

「お前と2人の時にまで、その名前では呼ばれたくない」
「……そう、ですね」
「もう俺の名前を知る人は、この世にはお前しかいないから」
「……そんなことは」

否定する男を、青年は少し淋し気な瞳で見つめ返した。

「いいんだ……わかってる」
「2人はきっと、身を潜めているだけです」
「そう思うか?あの子が大地を見捨てるようなことをすると思うか?」
「……」
「それにこの世界のどこにも神竜の気配がないと、ジェイドは言った。一対であるはずの片方がいないと言うことは、そういうことだ」

暖かな過去を思い出す時、胸に切ない想いが甦る。
毎日毎日、小さな花を持ってきてくれたあのはにかんだような顔を、今でも思い出せる。

小さな―――――愛しい娘。
とてもとても、好きだった。





―――――『テーゼ』





それでも、心のどこかで信じているんだ。
お前が生きていることを。

きつく目を閉じ、彼は水の中へと身を沈ませた。
どこまでも青い水は、まるで作り物のようで、温かみを感じない。
けれど、だからこそそれを受け入れずにすんでいるのかもしれなかった。

―――――ザバ……ッ!

音を立てて彼はそのまま水から離れる。
その引き締まった身体に無言でタオルをかけた男に、彼は笑いかけた。

「すまない、ありがとう……ファング」
「いいえ」

何も言わなくても、心が通じる。
この場所で2人きりで、ずっと叶わない願いを抱き続けている彼等には、もう言葉など必要ではなかった。

「食事にしましょう、リューク様」
「そうだな」

濡れた髪を拭きながら、リュークは傍らに佇む半身へと声をかけた。

「行こう、ジェイド」
『……ああ』

彼はまだ、たった一人の妹の生存と、彼女が負った深い深い心の傷を知らなかった。


* * * * *


かつて近衛騎士という身分にあり仮にも13諸侯家の血を引いていた自分が、かなり恵まれた環境で育ったことを、ディシスは自覚していた。

まず、飢えたことはない。
平和だったノイディエンスタークにあれば、戦場へ赴いたこともない。
彼等近衛騎士の役割は、大神官の護衛と、時折ある魔物の討伐、そして日々の鍛錬だった。

今、こうして傭兵として戦場に立つとわかることがある。
あの国で、親と仲間と守るべき人に囲まれた自分は、間違いなく幸せだった。

最初は、人を殺すことをひどく苦痛に感じた。
だが今となってはそんな感情は消え失せてしまった。
人は―――――慣れることができる生き物なのだと知った。

どこか血生臭い風の吹く戦場。
転がる死体から漂う腐臭も、酒と強い女の香水の匂いも、いつしか日常になった。
まるで、かつてのあの日々の方が夢だったのではないかと思えるほどに。

だからディシスにはわかっていた。
フィーナもまた、彼と同じように、環境に順応しただけだということを。
生きていく―――――ただその為に現実を受け入れた、それだけのことなのだ。





(それでも)





どうしてだろう。
フィーナが戦場に立つ姿が、少しも穢れていないように見えるのは。
身体中を真っ赤に染めて、戦場の風を受けてなお、彼女は凛として美しかった。
その瞳がたとえ何も映していなくても、冷たい光だけを浮かべていたとしても―――――美しかったのだ。

ノイディエンスタークを脱出したディシスと彼女は、竜の角半島へと向かった。
通常なら人の侵入を拒む土地だ。
けれど彼等の王である神竜の半身である彼女を、竜達は快く受け入れてくれた。

けれど―――――その安心できる場所にあってもなお、小さな彼女の心は壊れたままだった。

最初はジークフリートを失ったことで、ショックを受けているだけだと、ディシスは考えていた。
けれどいつまでたっても、フィアルは眠らず、食べず、飲むことすら受け入れない。
その瞳は何も映さず、世界の全てを拒み諦めたようにすら思えた。

おかしいと、思った。

ジークフリートと別れる時、彼女は大声で泣いてはいなかっただろうか。
少なくとも、こんな風に感情の全てを失うような状態ではなかったはずだ。

あの日、ディシスが手を離したその後に―――――何かが起きた。
それが何だったのか、今でもディシスは知らない。
その後、不意に感情を取り戻したフィアルは、もう今の彼女になってしまっていたから。





(「ディシス」)
(「お前は何をしてるんだ……全く」)
(「私の仕事はお前の面倒をみることじゃないんだぞ?」)





懐かしい友の声が頭に響く。
ディシスがミスをした時、迷った時、真面目な彼は呆れながらも、いつも適切な答えをくれた。
ファングなら、今の彼女に一体どんな言葉をかけたのだろう。

2人の行方を、ずっと捜していたのは。
10年前のあの日々に、縋りたかったからなのかもしれない。





(何かの間違いだ)
(オレの……思い過ごしだ)





つい先日のことだ。
ノイディエンスタークに、新たな大神官が立ったと聞いた。

しかしディシスの知る限りにおいて、大神官家であるフォルスマイヤーの血を引く人間は、フィアルとリュークだけだ。
他の諸侯家とは違い、フォルスマイヤーの血は一族を形成するにはあまりにも弱い。
大神官となるべき者以外が、何故かひどく短命なのだ……種として弱いとしか思えないほどに。

しかしその新たな大神官は、その証でもある半身である竜をも従えていると言う。





(間違いだろう?)
(お前じゃ……ないんだろう?)





彼は―――――『魔神官』と呼ばれている。
額には、黄金の印を持っていると。

それは―――――『反目の印』ではないのか。
ヨシュアという名だと言う彼は、本当は―――――リュークではないのか。
ならば何故、彼が……そしてその側にいるであろう友が、神官達と共にあるのか。

確かめなければいけない。
本当にそこにいるのが、ずっと探していた2人なのか。
そして自らの意思でその場所にいるのかを、確かめなければ。





(また……フィーナが傷つく)





遠くに傭兵達の陽気な声を聞きながら、ディシスは強く強く感じていた。
10年の長きに渡ったこの逃亡生活に、終止符を打つ日が近付いていることを。