W渡辺
- - - 第3話 渡辺くんと期末テスト
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「38」
「これは?」
「√2」

―――――あってるからスゴイよな、雛の場合。
問題をさっと読んだだけで、考える様子もなく答えが出てくる。こんな時の雛はまるで精密な計算機のようだ。
雛には理系とか文系とかそういう括りはないらしい。どの教科もまんべんなくこなす。驚いたことに音楽や美術、体育に至るまでそれは同じで、運動神経も人並以上にいいらしい。
―――――ただ、ちびっこいけど。
いや、一般にはそこまでひどく小さいわけではないのかもしれないが、180cmを越える俺や時政から見たら、やっぱり小さい。しかも仕草が小動物っぽいので、ますますそう見えてしまうのだ。

「雛はどこか部活には入らないのか?」
「ん〜……入らない」
「どうしてだ?」
「眠いもん……あ、でも睡眠部ってのがあったら絶対入るかも!マサムネ、作って♪」
「作るわけないだろう!」

なんだ睡眠部ってのは、それは部活か!?
まぁ雛の場合普通に部活に入ったとしても、眠い日とそうでない日のギャップが激しそうだからな。
俺は最近癖になりつつあるため息を一つ付いて、雛の頭をクシャっと一回撫でた。雛は俺にそうされるのが好きなようで、にこぉっと笑顔を見せる。そして俺はとんでもなくその顔に弱かった。時政と相良がベタ惚れと言うのを強く否定できないのはそのせいかもしれない。

「マサムネ、遊んで〜」
「明日から期末テストが始まるだろう?勉強しろ」
「……やだ。学校の勉強はつまんないもん」
「お前……だから寝てるのか?」
「そうだよ。つまらないから受けても仕方ないんだもん」

そういう問題でもないと思うのだが、実際に俺が雛のような脳味噌を持っているわけではないので、永遠にそれは理解できないだろう。もしも雛がスキップ制度が認められているアメリカに生まれていたなら話は大分違っただろうけれど。
俺はまたひとつため息を付くと、目の前の数学の問題に集中した。テスト前ということもあって、図書館内は普段よりも人が多い。そんな中でグダグダとしている雛はある意味ではとても目立った。

「勉強しないなら、寝ててもいいから、おとなしくしてろ」
「……寝ててもいい?」
「ああ」

そう言うと雛は満足そうに微笑んで、机に突っ伏した。わずかに横を向いているので、俺からはその寝顔が見える。相良が言うには、雛は小学校の時から既にこうだったらしく、あだ名は『眠り姫』だったそうだ。

(「本人はそう言われるの、すっごく心外だって言ってたわ。あんな呪いで眠ってるのと訳が違う、一緒にするなー!って怒ってんの。私は自分の確固たる意思を持って眠ってるんだもん!って。おかしくっておかっしくてもう涙ちょちょり出た」)

そうは言っても、どっちにしろ眠っているのだから俺にとっては同じに思える。しかしそんなことを口にすると、おそらく雛は怒り出すので、その言葉は心の中だけに留めておくことにした。

眠っている雛を見るのは……実は嫌いじゃない。
なんと言っても眠っている時の雛はとんでもなく幸せそうな顔をしている。眠ることが大好きなのだと満面の笑顔を見せられると、それに納得してしまいそうになる。
付き合いだして1ヶ月とちょっと―――――慣れというものは恐ろしい。
静かに寝息を立てる雛を横目に、俺はとりあえずこの問題集を片付けることにした。


* * * * *


―――――集中力には、自信がある。

昔から剣道と一緒に居合もやっているせいか、一旦集中すると、俺は完璧にその事柄だけに意識を向けることができる。そんな性格のせいで、気が付くと何時間もたっていることも稀ではない。

問題集のページをめくると、解答集が現れて、俺は全ての問題を解き終えたことを知った。その数学の問題に一体どれくらい集中していたのだろう。図書館内にもう人はまばらで、閉館の時間がすぐそこまで迫っていた。

ふと、視線を動かす。
けれど―――――そこにいるはずの雛が、いない。

「……?」

一回寝たらテコでも起きない雛が、自主的に起きるのは珍しい。俺はきょろきょろと辺りを見回したが、そこに見知った髪の長い後姿は見えなかった。雛が座っていたはずの椅子の隣には、彼女の鞄が置いてある。帰ったわけではないのだろう。

(まさかあいつ夢遊病の気は……ないだろうな)

全然見当外れなことで、一瞬不安になったが、流石にそれはないだろう。雛は寝相も悪くなければ、いびきも歯ぎしりもしない、実に人畜無害な寝方をする。ただその寝汚いところが無害ではないので、あまり見習いたいとは思わないのだが。
とりあえず俺は、問題集やノートを片付けて立ち上がり、書棚の間を歩きながら雛を探した。

(「図書館って、好き」)
(「何でだ?静かでよく眠れるからか?」)
(「それもあるけど、この古い本の匂いが好きなの。インクの匂いとかも好きだから。私だって本を読むのは嫌いじゃないんだよ?」)

本なんて読ませたらたちまち眠ってしまうかと思っていたら、そうでもなかったらしい。それが雛の言う、ちゃんと意思を持って眠っているということなのだろうか。その読んでいる本に少しでも興味を引くことさえ書いてあるのなら、雛は決して眠りはしないのだと、最近知った。


* * * * *


しばらくして、図書館内でもめったに人は訪れないだろうその書庫の奥にある窓辺に、俺は彼女の姿を見つけることができた。
夕陽に染まったまま、窓辺に寄りかかるようにして、すやすやと眠っている。
その手には分厚い洋書が握られたままだった。
俺は苦笑しながらその側へと近づく。幸せそうに眠っているから、そのままにしてやりたいのは山々なのだが、閉館時間が迫っているのでそうも言っていられない。肩に手を置いて、少し揺すってやると、そんなに深い眠りではなかったのか、ぼんやりと雛は瞳を開いた。

「……ん」

―――――どくん。

瞬間、心臓が一つ、大きな音を立てたような気がした。
雛の顔も、体も、髪も……夕陽の色に染まっている。
まだ夢を見ているように潤んだ大きな瞳―――――そして、少しだけ開いた口唇。

―――――マズい。

自分でもすぐに分かった―――――この湧き上がる感情が何なのか。
だけどここは仮にも学校の図書室で、しかも明日からは期末テストで……!!
などと自分に必死に言い聞かせてみても、身体が本能のままに動く。雛の肩に置いた手に力が篭って、俺は知らず彼女の顔に自分の顔を近づけていた。





むに。





(―――――むに?)





はっと我に返ると、目の前には雛の満面の笑顔があった。そして自分の顔に感じる、奇妙なこの違和感。
―――――これは、何だ?

「ほら、マサムネ」
「……何だ?」

すっかり色気に走りかけていた頭に、急に理性が戻ってくる。そして雛の手が、俺の両頬に伸ばされているのを感じた。

「タコヤキッ!」
「……」

―――――雛。
それは親指と人差し指で輪を作って、頬に押し当て、盛り上がったその部分をたこ焼きと呼ぶというあの古典的な遊びか?
お前はどうしてそう……もう少しその場の雰囲気ってものを……!!
そんな俺の心の叫びには気付きもせず、雛は尚も言い続けた。

「タコヤキだけじゃないんだよ?知ってる?耳たぶをね、内側にこーして折り曲げると……」
「耳ギョウザか……それも昔流行ったな」
「おお!マサムネが知ってるなんて思わなかった!」

お前は俺を何だと思ってるんだ。
俺にだっていたいけな少年時代ってもんがあるんだぞ。しかも一緒にいたのがあの時政なんだから、そういったくだらないことは一通りやって来たはずだ。自慢にも何もならないけどな。

「ねえマサムネ、問題集、終わったの?」

そう言えば何故俺がここにいるんだろう、とようやく気付いたように、雛はきょとん、と首を傾げた。俺は大きなため息をつきつつ、閉館時間が近いことを雛に知らせてやる。それを聞いて雛は、んしょっと勢いをつけて椅子から立ち上がった。

「帰ろ、マサムネ」
「ああ……」

雛が笑って手を差し出すのを握り返して、俺達は荷物が置いてある机へと戻った。
―――――なんだか、どっと疲れた気がする。
やっぱり俺にはそっち系は向いていないということなのだろうか。一応勉強もしたことだし、明日から始まる期末テストに備えて、今日は早く寝ようと俺は心に誓った。


* * * * *


肩を並べていつもの道を帰る。
いつものようにたわいない話をしながら歩いて、ある十字路で立ち止まる。ここからは帰る方向が違うので、俺達が一緒に帰るのはここまでだ。

「じゃあね、マサムネ。勉強頑張って」
「お前も少しは勉強しろ!」
「やだ」

手を振って歩き出した雛の背中を少しだけ見送ると、俺も自宅へ向かって歩き出した。
その直後、タタタッという軽い足音が聞こえて、俺が振り返ろうとしたその時。

―――――ふわり。

頬に柔らかいものが当たるのを感じて、俺は硬直した。
視線を動かせば、雛が俺の首に手を絡めて、ほとんどぶら下がるような格好でにっこりと笑っている。

と、いうことは?
―――――今のは?

「……続きはテストの後にね?マサムネ」

それだけ言って雛は満面の笑顔を見せると、ひょいっと俺の首から手を離してタタタッとそのまま走って行ってしまった。
その場に残されたのは……頬を抑えて呆然と立ち尽くす俺一人。

(―――――アイツッッ!起きてたな!!!!)

今頃雛はクスクスと笑いながら家まで走っていることだろう。
―――――やられた!
夕陽が照っていてよかったと心の底から思う。自分でもわかるほど、顔が……全身が熱かった。

そしてそのまま家に帰ると、何故か夕飯はギョウザで。
一人顔を赤くした俺に、家族は不思議そうに首を傾げていた。
夜になっても、思い出す度に顔が火照って……我ながら情けないと思いつつ、俺は早々にベットに入って布団を被った。


* * * * *


そして無事にテストは終わり、貼り出された成績を見て目を丸くした雛が、俺に話しかける。

「マサムネ、今回数学だけ極端に成績悪いね」
「そういうお前はいつもながらトップ独走か……」

―――――頼むから。
少しは乙女心も学んでくれ。
全教科満点というその様子からは、動揺の欠片も感じられず。
その存在に振り回されているのは、自分だけだということを―――――俺は強く強く実感したのだった。