W渡辺
- - - 第5話 渡辺くんと下僕くん
[ 第4話 渡辺くんと真辺くん | W渡辺Top | 第6話 渡辺くんと夏祭り 前編 ]

「渡辺政宗」
「……?」
「単刀直入に言っておく。あの女とすぐに別れろ」
「お前、誰だ?」
「お前のために言ってやってるんだ!今すぐに別れろ、いいな!」

そう言い捨てて早足で遠ざかっていく少年を、俺は呆然と見送ることしかできなかった。
いきなりなんなんだ?
……と言うか、あれは誰だ?


* * * * *


「あ、それ高崎ちゃんよ」
「高崎ちゃん?」
「私達のいっこ下の後輩よ。詳しくは雛に聞くとわかるわ」

相良はニヤニヤと嫌な笑いを浮かべて笑った。
言われた時には驚きの方が大きかったが、よく考えてみると俺はかなり不躾な事を言われた気がする。だが、とりあえずあの失礼な奴が雛の知り合いらしいことはわかった。
しかし……明日は終業式という開放感に満ち溢れていたその時に、何であんなことを言われなくてはいけないのか。俺は少なからず不機嫌だった。

屋上にある給水塔の日陰で弁当を広げていた俺達のところへ、ギギィと重い扉を開けて雛が近づいてくる。相変わらず雛は昼休みだけは幸せそうだ。

「おべんとー」

挨拶がそれか!
いやいや気にしてはいけない。いちいち気にしていたら、俺の常識的な精神はあっという間に臨界点突破だ。俺だってその位は学習するんだ。

「雛、どうやら高崎ちゃんが渡辺くんのところに行ったらしいわよ?」
「へ?……なんで?」

弁当を広げる手をピタリと止めて、雛は心底不思議そうに相良を見つめた後、隣の俺を見上げた。そんな風に見られても、俺も首を傾げることしかできない。

「その高崎って奴に、政宗は雛ちゃんと別れろって言われたんだってさ」
「……?なんで?」
「それは俺が聞きたい」

雛は全く心当たりがありませんといった顔で俺をじっと見ている。いやだから聞きたいのは俺の方なんだ。そもそもあの小僧は一体誰なんだ?
そう俺が思っていることを悟ったのか、雛は胸の前で腕を組んで、真剣に考えるそぶりを見せた。

「どうしてそんなこと、しんしんがマサムネに言うのかなぁ?」

―――――『しんしん』?

思わず顔を見合わせた俺と時政を見て、未だ考え込んだままの雛の代わりに、相良が小さく噴出しながら答えてくれた。

「『しんしん』っていうのは、高崎ちゃんのことよ」
「いやにファンシーなあだ名だな」

全然うらやましくはないけど、と時政は小声で続けた。確かに男がつけられてあんまり嬉しい呼び名とは思えない。

「フルネームは高崎臣(おみ)。でもそれが雛にかかると『しんしん』になっちゃうの。『おみおみ』は呼びにくいんだって」
「どういう関係だ?」

俺の質問に、相良はちょっと考えて、答えた。

「家来……って、感じ?」
「はぁ?」
「……何だそれは」

俺達の鋭いツッコミに、相良が困ったような顔をする。しかしそんな相良を擁護するように雛が言った。

「家来じゃないよ、下僕でしょ」

聞き慣れたその声が、何故だか嫌に冷たく聞こえたのは―――――気のせいではあるまい。


* * * * *


「つまり、幼馴染なんだ?」
「そう。生まれた時からずーっとお向かいさんなの」

今日のおかずの一つ、山うどの酢味噌和えを口に運びながら雛は頷いた。件の高崎臣というあの少年はどうやら俺にとっての時政と似たような関係らしい。

「昔は可愛いかったんだよ?『ひなねーちゃん、ひなねーちゃん』って後ろから追いかけてきてね」
「へぇ」

微笑ましいその光景を頭に思い浮かべたのだろう。時政の顔がふわりと柔らかく微笑む。
―――――まぁそんな光景、俺とお前には皆無だったからな。
そんなことを考えていると、雛はその後に耳を疑いたくなるような言葉を続けた。

「あんまり可愛かったから、わざと置き去りにしてみたり、絶対追いつけないところに隠れてみたり」
「……」
「かくれんぼは、絶対見つからないように必死になって私を探すしんしんを後ろからつけてみたり」
「……」
「しんしんの大事にしてたパンダのぬいぐるみに油性マジックで髭と眉毛を書いて、近所で飼ってた土佐犬の小屋に隠してみたり」
「……」
「まぁ、もうおもいっきり可愛がってたわけなの」

―――――いや、それはお前……可愛がっているというよりむしろ暴君だったのでは。
思わず引きつった俺に気付かず、雛は続けた。

「それなのに、小学校に入ってしばらくしてからかなぁ?何か急に反抗期になっちゃってね」
「は、反抗期?」
「そう、それまで素直ないい子だったのに、急に反抗的になってね。これじゃいけないと思って、私は愛のムチ作戦を遂行したの」

愛のムチ作戦ってなんだ。
って言うか、いい加減成長してくれば、自分がお前に遊ばれていたことに気付いたってだけじゃないのか?
いきなり言われた失礼な発言を半分忘れて、俺はその高崎少年に同情すら覚えた。

「で、具体的には何をやったわけ?雛ちゃんは」
「算数」
「は?」
「算数の問題」

―――――算数?

当時の雛の行動が微妙に理解できず、俺と時政は首を傾げた。どうやら相良はその一部始終を知っているらしく、必死に笑いを堪えている。

「しんしんはね、算数がとっても苦手だったの」
「……はぁ」
「だからね、しんしんのお母さんに言ったの。『私がしんしんに教えます』って」

そりゃ、小学校時代から天才と名高かったお前が言えば、高崎少年のご両親は喜ぶだろうな。
しかしそれがどうして愛のムチなんだ?

「最初は毎日一ページだったんだけど、それだけじゃつまらないし、反抗的な態度も直らないでしょ?だから、条件をつけてみたの」
「条件?」
「一ページにつき一問間違える毎に、一ページノルマ追加。ノルマが全問正解なら、一日お休み」

そりゃまぁ、そんなに悪くない取引だと思うが……別に愛のムチでもなんでもないような。
俺がそう思ったのがわかったのか、雛はにっこりと笑いながら言った。

「最初はふつーにやってたんだけど……『こんなの簡単だよ〜』って、私を馬鹿にしたように笑うようになったのが、ちょっと嫌だった」
「……」
「だから、問題、変えてみた」
「雛……お前、まさか」
「大学入試の問題に」

それは最早、算数ではなく、数学だろう!!
お前は……小学生で既にそんなものが解ける頭を持っていたのか!

「ノルマがどんどん増えちゃってね、しんしんは最後には半泣きになっちゃってね……可愛かったなぁ」
「お前なぁ」

俺はちょっと呆れながらその時のことを思い出して恍惚の表情をしている雛を見やった。可愛かったじゃないだろ、むしろそれ、可哀想だろ!?

「『もう許してください、これからはずっとひなねーちゃんの言うこと聞きます』って言ってきたしんしんは昔の可愛いしんしんだったの。愛のムチ作戦大成功だったんだよ!?」
「それから、まさか……ずっと?」

おそるおそる……という風に切り出した時政の顔にも微妙に青筋が見える。そうだな、俺も今なんだか聞きたいような聞きたくないような複雑な気分だ。
しかし相変わらず、場の雰囲気の読めない雛は、満面の笑みを浮かべながら高らかに宣言した。





「それからしんしんは、ずーっと私の下僕!」





―――――バンッ!

その宣言と共に大きな音がして、屋上の扉が無作法に蹴り開けられた。びっくりしてそちらを見れば、そこには肩で息をしている件の高崎少年の姿があった。

「雛姉!」

顔を真っ赤にしてそう叫ぶと、ずんずんと俺達のところに近寄ってくる。俺と時政ほどでかくはないが、そこそこの身長だ。170cm以上は確実にあるだろう。

冷静な分析をしていた俺には見向きもせず、高崎少年は雛に大きな声で怒鳴った。

「何てことをでかい声で言ってんだよ!」
「何って……?」
「そんな恥ずかしいことでかい声で言うなよな!オレにだって立場ってもんがあるんだよ!」

まぁ、そうだな。
普通に考えたって、自分が幼馴染のちびっ子の下僕だなんて、他人には知られたくないだろう。それはまぁ、男のプライドって奴だ。

「だって本当のことでしょう?」
「何が本当だ!」
「しんしんは私の下僕でしょう?」
「……そ、それは!」
「ね?」
「……う」
「ね?」
「う、うう……」





「―――――ね?」





―――――最後の『ね?』は何気に怖かったぞ、雛。

どうやら高崎少年はこの押しに弱いらしい。反論したいが反論できないジレンマに陥っているのは一目瞭然だ。なるほど、これがこの二人の力関係の縮図というわけか。
そんな風にひたすら傍観者に徹していた俺に、高崎少年は泳がせていた瞳をふっと止めると、仮にも上級生に向けるものではない鋭い視線を俺にぶつけてきた。

「だからオレは忠告してやったんだ!」
「……?」
「雛姉はなぁ!一筋縄じゃいかねえんだぞ!?付き合って地獄を見るのはお前なんだぞ!?」
「……」

なるほど。
あの不躾な発言は、どうやら俺を心配してのことだったらしい。
自分が限りなく痛い目を見ているから、俺もそうなると思ったのだろう。

―――――だが。

「だからとっとと別れろって!」
「断る」
「……っ!?」

俺の答えに高崎少年は驚いたように目を見開いて固まる。俺はそんな彼をただ静かに見つめた。それが気に入らなかったのか、高崎少年は俺をものすごい顔で睨み付けて、まるで叫ぶように詰め寄ってきた。

「お前、どうせ雛姉からオレの話聞いたんだろ!?だったらわかるだろ!?」
「ああ、わかる」
「だったら!」
「だが、その言葉には大きくお前の主観が入っていると思うんだがな……違うか?」

あくまでも静かな俺の言葉に、高崎少年は一瞬ぽかん、と口を開けた。そしてその意味を悟ったのだろう、悔しそうに口唇を噛んで俯く。勘のいい時政も気付いたらしい。俺に苦笑いをしているのがその証拠だ。
そして、当の本人である雛だけが、訳がわからずに、キョロキョロと俺達を交互に見つめている。

「俺は雛と別れる気はない」

当たり前だ。付き合って、まだ約二ヶ月だぞ、そう簡単に別れてたまるか。やっとその言動に耐性がついてきたところだというのに。

「……宣戦布告かよ」
「どうとでも」

悔しそうに俺を見ているその顔はやはり年下だ。年より落ち着いて見えるとよく言われる俺と比べると尚更だろう。こういう時には俺の無表情も役に立つものだとしみじみ思ってしまう。

くそっ!と高崎少年は大きく地面を一度蹴りつけると、くるりと俺達に背を向けた。
そしてまるで捨て台詞のように、大きな声で叫ぶ。

「見てろよ!絶対いつか下僕から脱してやるからな!」

それは彼の決意なのだろう。
しかし……『期待してる』と、答えようと思った俺の言葉を遮って、雛が反論の声を上げた。





「えー?しんしんは永遠に私の下僕でしょー?」





ガンッ!
その言葉にずっこけて、思いっきり扉に額をぶつけたらしい高崎少年は、頭をおさえながらふらふらと屋上を出て行く。

そんな幼馴染の後姿を見送っていた雛が、きょとんとした顔で俺を見上げた。その小さな頭を無言で撫でてやると、雛はいつもの小動物的な、ニコ、という笑顔を見せる。
この歳になって、体格も全然違う幼馴染の女の子の下僕に、何故彼が成り下がったままなのか。雛はそんなこと、欠片も考えたこともないのだろう。敵ながら……あまりにあまりな待遇に、俺はむしろ可哀想を通り越して、憐れみすら覚えた。





(―――――ガンバレ)





俺には心の中でそう言うことしか、できない。
―――――ま、そもそも負ける気なんて欠片もないけどな。
とりあえず『恋人』の位置にいる今の現実に感謝しよう。
何故かしみじみとそう思って、俺は昼休みが終わるまでずっと、雛の頭を撫で続けた。