W渡辺
- - - 第8話 渡辺くんと音楽室
[ 第7話 渡辺くんと大魔王 後編 | W渡辺Top | 第9話 渡辺くんと後輩くん ]

ぽかぽか、ぽかぽか。
あったかくって、心地良くて、自然に瞼が重くなる。
そして上瞼と下瞼が仲良くなったら最後。

―――――踏んでも蹴っても、彼女は目覚めない。


* * * * *


「あら、お迎えね」
「―――――桂木先生、そう思うなら先生も起こす努力をしてください」

他の教室が板張りなのに比べて、音楽室だけは絨毯が敷きつめられているからなのか。
雛は、音楽室で授業があった後は、必ずと言ってもいい程、自力では教室に戻ってこない。日の当たる窓際の絨毯の上で、ころんと転がって、すやすやと安らかな寝息を立てている。
本来の音楽の授業の時ならば、引きずっても連れて帰ってくるのだが、選択授業では、俺は音楽ではなく書道を選んでいたので、休み時間になるとこうしてわざわざ迎えに来なくてはならない。それは付き合う前も、付き合い出してからも変わらなかった。

「渡辺君も音楽を選択すればよかったのに」
「選択科目を決めたのは、付き合い始める前でした」
「あはは、もし付き合ってから選択するなら、音楽を選んでたってこと?」
「もちろんです」

当たり前だ。
新校舎の最上階にある音楽室と、旧校舎の1階にある書道室とはあまりにも遠すぎる。
しかも、雛は心地良い眠りを妨げると、ごねる。うにゃうにゃ言っては全然自力で立ちあがろうとはしない。必然的に俺が腕に抱えて教室まで連れて行かなくてはいけないのだから、これはかなりの手間なのだ。

「本当に好きなのね、彼女のこと」

雛の華奢な腕をむんずと掴み、引っ張りあげていると、桂木先生が興味深々という目で俺を見た。この人は、保健室にいる怪しい男の養護教諭の次に、俺が苦手だと感じる教師だ。今年の春から赴任してきた新人とは思えないその派手な格好は、俺には理解し難い。時政達が「超セクシーダイナマイト!(っていうかその表現は何なんだ)」と言いながら騒いでいるのもどうかと思う。

「何だか同じ渡辺でも、ずいぶんとタイプが違うと思ってたんだけど……渡辺君は彼女のどこが好きになったの?」
「―――――先生に言う必要はないと思いますが」
「あら、怖い顔」

そう言って笑うその唇には、何だかよくわからないがテカテカと光る派手な色の口紅が塗られている。俺は腕の中の雛を見て、その何も塗られていない唇が、ほんのりと桜色なのを確かめた。俺はどう考えても、そのままの唇の色の方が好きだ。
どうにも媚びるようなその視線が気になったので、いつもなら小脇に抱えていくはずの雛の身体を俺は抱き上げた。ここは早く退散してしまうに限る。ぺこりと軽く頭を下げて、俺は部屋の出口へと身を翻した。

「待って、渡辺君」

何なんだ。

「ねえ、わたしってそんなに魅力がないのかしら?」
「は?」
「だって貴方だけよ?わたしにそこまで無関心なのって」

だから普段の授業中……気になって仕方ないのよ、と桂木先生は笑った。そんなことを言われても、俺に一体どうしろっていうんだ。と、言うよりも、なんで俺がこの先生に関心なんて持たなくちゃいけないんだ?
いつもの癖で眉根を寄せていたのだろう。桂木先生は近づくと、赤い色に塗られた爪先を、俺の眉間に這わせた。そのままその手は俺の頬へと滑る。

「わたしに……興味はない?」

俺を見上げるような、媚びる視線。
今までにも何度か見たことのあるそれは、俺にとっては何の意味もないと、彼女達は知らない。
俺と桂木先生は、雛を間に挟んで睨み……いや、見つめあった。それは時間にしたらほんの数秒だったと思う。

―――――が。

「気持ち悪い」

突然腕の中から声が聞こえて驚いて見下ろすと、雛が目を開けて、嫌そうに首を振っている。

「どうした?雛」
「気持ち悪い……変なにおい」

雛は顔を歪めて、う〜っと言いながら俺のシャツに顔を埋めた。それが気に入らなかったのか、桂木先生は少し不機嫌そうに皮肉めいた言葉を吐く。

「渡辺さん……あなた今まで、いいえ授業中もずっと寝てたでしょう?それなのに目が覚めたらすぐに気持ちが悪いなんて」

その存在に今気付いたかのように雛は顔を上げると、目の前の派手な女性を見てますます嫌そうな顔になった。

「先生だ」
「……わたしが何か?」
「先生……何つけてるんですか?何だかトイレの芳香剤のにおいがする。あの強烈で強力なやつ」

ピシッ……とその場の空気が凍りついた気がした。
雛……お前一体何を言い出すんだ!お前の口には遠慮とか、配慮とかいう文字は存在しないのか!?
そんな俺の心を知らずに、雛はああ!と手を叩いた。

「金木犀!そう、あのにおいだ!別名をトイレのにおいって……」
「雛!」

まずい。寝起きなだけにますますそのストレートな物言いに拍車がかかっている。
俺は名前を呼ぶことで、そのまま続きそうだった『桂木先生はトイレのにおい』トークを遮断した。

「なぁに?マサムネ」

訳がわからない、といった顔で雛は俺を見上げている。そして視線を上げるとそこには顔を赤くして怒っている桂木先生がいた。

「渡辺さん……あなたね、ちょっとそれは失礼でしょう?」
「え?何がですか?」
「人に芳香剤くさいなんて言うものじゃないわ。それにあなた、いくらなんでも授業態度が悪すぎるわよ?一度注意しようと思っていたけど」
「先生、自分で気付いてないって嗅覚大丈夫ですか?それに香水ってそんな欧米人じゃないんだから大量にかけるもんじゃないし、しかもここ、学校ですよ?先生、そんなだから来月で講師の契約切られちゃうんですよ」

何だって―――――?

俺と先生が呆然としていると、雛はにこっと笑って続けた。

「マサムネ、知らないの?桂木先生は来月で辞めるんだよ?」
「何を言うの?わたしは……」
「だって昨日の職員会議でそう決まったって、コーちゃんが言ってたもの」

―――――コーちゃん。
何故か雛は学長のことをこう呼ぶ。詳しく聞いてみると、入学した当時から、囲碁の相手をしてやっているらしく、親しいのだそうだ。この学校には将棋部はあっても囲碁部はないから、学長としても嬉しかったのだろう。
……ちなみに学長のフルネームは、小早川正である。

「確かなのか?」
「先生、生徒に手を出しちゃ、ダメですよ?」
「なっ!」
「噂ってすぐに広がるんです。少なくとももう4人には手を出しちゃったんでしょう?」
「……あ、あなた」
「ご丁寧にもうちの皓ちゃんにも言い寄ってくれたようで、どーもご苦労様です」

皓にまで言い寄っていたのか、そりゃ本当にご苦労様だ。皓が雛一筋なのを知らないんだから仕方ないかもしれないが。
あの一件以来奇妙に意気投合したせいで、俺は会長のことを名前で呼ぶようになっていた。何せ、俺を含めみんな渡辺なので、苗字で呼び合うと何が何だかわからなくなるからだ。
その間に、うんしょ、と雛は声を出して、俺の腕から降りようとしている。
俺は抱き上げていた身体を、そっとその絨毯張りの床へと降ろしてやった。
桂木先生はワナワナと震えたままだ。それが怒りなのか、それともとんでもない事態になってしまったという恐怖なのかはわからない。

「先生、早く職員室に戻った方がいいんじゃないですか?」

雛にそう言われて、我に返ったのだろうか。
桂木先生はキッと雛を睨み付けると、近くにあった出席簿を持って、慌しく音楽室を出て行った。


* * * * *


そして……部屋に静寂が戻る。
雛はそのままその場所にペタンと座り込んだ。

「雛?」
「……」

俯いている雛の顔は、立っている俺からは見えない。
仕方なく雛の前に片膝をついて座り、その顔を覗き込むと、雛は何故かものすごく難しい顔をしていた。

「ど……どうしたんだ?雛」
「……わかんない」

わかんない?
自分が何でそんな顔をしているのか、わからないのか?

「わかんないけど……なんかイヤ」
「イヤ?何が?」
「わかんない」

わからないのは、俺だぞ、雛。
寝起きだから機嫌が悪いんだろうか。
やっぱり雛の寝起きを良くするためには、食い物が必要か?

「だってイヤだもん」
「……だから、何がだ?」
「あの人がマサムネに触れるのはイヤ」

―――――え……?





「すっごく、すっごく、イヤなの!」





それは……いや、それってもしかして、もしかしなくても。

―――――雛は。
わかってないんだ、きっと。
初めてなんだ、きっと。

俺は雛の持て余している感情の名前がわかってしまって、何だか少し気恥ずかしくて、でも少し嬉しくて。
俺は手を伸ばして、その華奢な身体を抱き寄せた。

「……マサムネ?」

雛はきょとんとしたまま、俺に抱きしめられたままになっている。
どうしよう……とんでもなく、可愛い。
この雛が、自分の興味のあること以外には、底無しに無頓着で、無関心な、雛が。





―――――ヤキモチを、焼いてくれているのだ。





「まだ、イヤか?」
「……へ?」
「こうしてても、まだ、イヤか?」
「……」

小さな子供にするようにゆっくりと背中を撫でてやると、雛は安心したように、くてっと身体を預けてきた。
こういうところは子猫みたいだ、とふと思う。

ぽかぽか、ぽかぽか。
あったかくって、心地良くて、自然に瞼が重くなる。
ああ……雛がどうして、音楽室ですぐに眠ってしまうのか。何となくその訳が分かった気がした。
この陽気じゃ、上瞼と下瞼も仲良くなるよな。

そっとその顔を覗き込むと、安心したのか、雛はまた静かに寝息を立てていた。
俺は雛の頬にそっとキスをすると、彼女を抱き込んだまま、そっと絨毯敷きの床に横になる。すると雛は本当に子猫のように、俺の胸へと頬を摺り寄せた。

次の授業は何だったか……。
ああ、もうそんなことどうでもいい位に、気持ちがいい。

ゆらゆら、ゆらゆら。

視界がゆっくりとぼやけていくのを感じながら、俺はそのまま静かに目を閉じた。

忘れていただけなんだ、本当に。
―――――次の授業が、生活指導の柳沢が担当の数学だったことを。


* * * * *


「何やってんだかな、政宗」
「……うるさい、黙れ」
「雛ちゃんを迎えに行って、何でお前まで一緒に寝こけてんだよ。音楽室で寝てるお前達発見した時は、どうしようかと思ったぜ?」

しかも色気のないことに、ただ単に寝こけてるだけなんてなぁ?と時政は後ろで笑い転げていた相良を見やった。
お前に言われなくても、俺だってどうしようかと思ったさ。人生で初めて授業をサボったんだからな!

「わざわざ柳沢の時にサボらなくてもねえ……」
「……忘れてただけだ」

そんな俺の前には、柳沢がそれはそれは嬉しそうに置いていった数学のプリントが20枚もあった。提出期限は今日の放課後、笑えない量だ。ちなみに1枚のプリントには5題ずつ長い問題文が書いてある。

「しかも一緒に寝てた片割れがあれだからな……」

そして……もちろんこんなプリントが雛にとって障害になどなるわけはなく。
さーっとプリント全部に目を通すと、考えた様子もなくスイスイと答えを書き込んだ雛の所要時間は、わずか1時間弱だった。
20枚、100題を1時間ってどういうことだ、本当に。

「素直に見せてもらえばいいじゃんか、雛ちゃんの答えが間違ってるわけないだろ?」
「……それだけはイヤだ」
「いいよ?見る?」
「いらん!」

大体そっくりそのまま同じじゃ、バレバレだ。
ただでさえ雛の証明問題の答えは複雑怪奇だ。柳沢も理解するのに、それはそれは時間がかかるだろう。

「でも気持ちよかったねえ……また一緒にお昼寝しようね、マサムネ」
「……授業のない時にな」

今度の休みには、公園にでも行ってみようか。
緑の芝生の上、シートを引いて、二人でのんびり昼寝するのも悪くないだろう。

俺は問題を解きながらも、そんな、全く違うことを考えていた。
そして後日帰ってきたプリントに、大きな赤い×がつけられていたことは―――――また別の話になる。