W渡辺
- - - 第10話 渡辺くんと体育祭
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聞いたところによると。
体育祭というのは、雛にとって、数ある学校行事の中でも、最も興味のないものらしい。

「……だるい」
「ほら雛、文句言わないで動きなさいって」
「やだよ。なんで私がわざわざ放課後にこんな格好しなくちゃいけないの?」
「仕方ないでしょ、体育祭のクラス練習なんだから」
「出たくない」

ジャージ姿で、相良に向かって散々駄々をこねている雛を、俺と時政は少し離れたトラックのスタートラインから見つめていた。
いくら雛が出たくないと言っても、クラス対抗リレーは全員参加と決まっている。
しかも、体育の授業中に測った100メートル走のタイムで順番は自動的に決まり、何と雛は女子のアンカーに任命されていた。

基本的に放課後はできるだけ眠っていたいと公言していた雛のこと、ごねるのは当たり前だと言える。
何せ男子もそうだが、アンカーは他の人間の2倍の400メートルを走らなくてはいけないのだ。

「しかし雛ちゃん、足、早かったんだな」

そんな風には見えねえのに、と時政が感心したように呟いた。
俺もそれには驚いた。何故なら俺のクラスには、女子陸上部のスプリンターが2人もいるのだ。しかし記録を見る限りにおいて、雛のタイムは、その二人と大差をつけて勝っていた。

(「―――――負けず嫌いな家系なんだよ」)

そう言えば、皓がそんなことを言っていたな、と俺はぼんやり思い出す。
と言うことは、間違いなく皓のクラスのアンカーは、皓本人なのだろう。
負けず嫌いもここに極まれりといった感じである。

そうしている内に、雛は相良にずるずると引きずられて、俺と時政が立つスタートラインへとやって来た。心底イヤそうな顔をしているのが、なんともおかしい。

「マサムネ、走りたくない〜」
「ダメだ」
「何でえ!?」
「クラス行事なんだから仕方ないだろう」

俺の言葉に、雛は大げさにショックを受けた顔をしてみせる。
と言うか、俺の方が「たかが学校行事なんだから、我慢しろ」と言いたいぞ。

「だって、400メートルも走るんだよ!?ヤダヤダ絶対ヤダ!」
「そんな大したことないんじゃん?雛ちゃん、足早いみたいだし」
「大したことあるよ、私、そんなに走れない」
「……は?」

一瞬呆けた時政に、雛は必死の顔で訴える。

「100メートルならともかく、400メートルなんて絶対絶対無理なの!」
「雛、お前……まさかとは思うが……」
「持久力、ないし」

だからイヤだー!と叫ぶ雛に、俺は頭痛がした。

そうか……お前は鉄砲玉だったんだな。
マラソンとかそっち系、ダメなタイプか……それは知らなかった。
確かに普段の会話の中でも、雛は集中力が長時間持続する方ではない。気付かなかった俺がバカだった。

「どんなに頑張ったって、200メートルが限界!」

それ以上はムリッ!と胸を張る雛に、内心ため息をつきつつも、俺は隣で話を聞いていたクラスの体育委員の女子へと視線を向けた。
彼女もそんなことは知らなかったのだろう、呆然と偉そうなポーズの雛を見つめている。

「時政くん、走って」
「いや……オレってどこからどう見ても男だし」
「じゃあ……」
「イヤよ」
「……!まだ何も言ってないのに!」
「雛の言いそうなことなんて、すぐにわかるわよ」

ニヤリと不敵に笑う相良に、雛は嫌そうに眉を寄せた。
そう言えば相良、お前も記録上では、吹奏楽部にあるまじきタイムを叩き出していたな。

「マサムネ〜」
「残念だが俺は変わってやらないぞ」
「……」
「遅くたっていいだろ、とりあえず走れ」

もう走る順番は登録されてしまっている。今更訂正はきかないのだ。
しかし俺の言葉に、雛の顔がみるみるうちにふくれていく。

―――――誇張ではない。
本気でぷく〜っと雛のプニプニしている頬がふくれたのだ。

一瞬俺と時政、そして相良の頭の中に
「なんということでしょう〜」
という某テレビ局のリフォーム番組のナレーションが響き渡った。

しかし実はそんなことを考えている場合ではなかった。
それに、その時の俺はとんと気付かなかったのだが―――――。


* * * * *


「……雛」

その日の帰り道。
雛は未だふくれっ面のままだった。

拗ねて可愛いなどという次元を通り越している。
口唇を尖らせるとかそういう問題ではない。思いっきり頬に空気を入れっぱなしだ。

「……雛」

再度呼びかけると、雛はそのままの顔で、ジロリと俺を睨み付けた。
これは―――――もしかしてもしかしなくても、初めての喧嘩というやつではないだろうか。
俺はひとつため息をつくと、ポンポンと雛の頭を軽く叩くように撫でてやった。

しかし雛はそのまま俺を怒った目で見上げてくる。
そのわずかな隙に、俺はすばやく雛の頬に手を伸ばし、少し強めに両側から押してやった。

―――――ぶしっ。

微妙な音を立てて、ようやくその頬から空気が抜ける。
その俺の行動に、雛はますます機嫌を悪くしたらしい。

「何すんだあー!」
「いつまでもふくれてるからだ」
「ふくれたいー!」

……ふくれたいってお前。
どうにもシリアスな展開にならないな、俺達は。
雛的には大真面目なのかもしれないが、その行動自体が普通じゃないから仕方がない。
苦笑いしている俺を見て、雛は少し居心地が悪そうに目を逸らした。

「職業選択の自由」
「……?」
「言論の自由、表現の自由」
「……???」
「世の中には法律で守られた自由が氾濫してるのに……私にはふくれる権利さえないの!?」

―――――あのな。

なんだってそんな壮大な話になるんだ。
相変わらず……本当に思考の飛びっぷりは相変わらずだ。
すっかり慣れた自分がなんとなく悲しいけどな。

「……ふくれるな」
「横暴!」
「雛」
「暴君!」
「……雛」
「ネズミに耳かじられてどっかいっちゃえー!!」

何故そこであの国民的アニメキャラの過去話が。
あれは可哀想なんだぞ。黄色かったネコ型ロボットが青くなってしまうくらいに。
俺は少し笑って、ぎゃあぎゃあと反論してくる雛を見つめた。

「ふくれるな、俺がイヤだから」
「……?」
「ほら」

―――――悪いな、時政。
お前が思うより、俺達には自然なことに、なりつつあるみたいだ。

俺はそう思いながら、ゆっくりと雛の顔へと身を屈めた。
驚いたように目を見開いた後、ゆっくりとその大きな瞳が閉じられるのを、薄く見つめながら。
俺は確かに、微笑んでいたと思う。


* * * * *


「ねえ、マサムネ」
「何だ?」

俺とゆっくりと並んで歩きながら、雛はふと思いついたように話しかける。
公園から家路についた子供達の影が長く伸びて、秋になったことをイヤでも感じた。

「結局のところ、正当な理由があればいいと思うの」
「……何のことだ?」

何を言っても、選手登録はもう終わっているんだぞ?
どんなに持久力がなかろうが、雛は走らなければならない。とりあえず遅くてもいいから走れ。
その後に走る本当のアンカーは時政だ、あいつに頑張ってもらおう。
大体お前、激烈に嫌がってくれたが、お前にバトンを渡すのは俺なんだぞ。
時政にはわずか1秒差で負けたけどな。

「だから、正当な理由」
「……雛、とりあえず諦めて走れ」
「私、病気になる」

―――――はあ?
何を言ってるんだ、お前は。

俺の顔が最大に歪んだのを見て、雛はにこおっと笑った。
待て、俺はそれは絶対に許せないぞ。
そういうことは俺にとって一番忌むべきことだ。カタブツだのなんだの言われても知ったことか。そういう不正だけは絶対に許せない。

「あ、でも仮病じゃないよ?」
「……仮病じゃない?」
「私、本物の病気になる」

……お前。
まさかわざと風邪を引くために、薄着で歩くとか、夜更かしをするとかそういう次元のことを考えているわけじゃないだろうな。
そう言うと、雛はぶんぶんと首を振った。

「そんなこずるい手は使わないよ」
「……病気になることそのものは、こずるくないのか?」
「私は自分の思い込みと根性で病気になる。見てて、マサムネ」

病気になりたいと、その気持ちだけでどうにかなるなら、運動会が嫌いな小学生はみんな揃って重病人だ。いくらなんでもそれはあるまい。
そう思って、俺は「ハイハイ、頑張れよ」などという軽い言葉で、雛のその言葉を流してしまった。





―――――それは、間違いだった。
どうして忘れていたのだろう。雛が常人とはかけ離れた次元にいることを。





体育祭当日。
雛は本当に、病気で欠席してしまった。
思いもかけない事態に、相良が400メートルを走りきり、時政の俊足もあって、クラスは無事優勝することができた。
相良自身は死にそうになっていたけどな……どうやら雛と同じで相良も持久力はなかったらしい。

「ああ、本当だぜ?」
「えっ……本当に仮病とかじゃなくて?」

帰りにお見舞いもかねて雛の家へ向かう途中、皓が笑いながら言った。

「雛はなぁ……思い込みで何とかなっちゃうタイプなんだよな。まぁそこが可愛いんだが」

可愛いとかそういうことは置いておけ。
俺は憮然とした顔で、皓の次の言葉を待った。

「今朝、熱が40℃」
「40℃!?」
「目は潤んでるし、ぐったりしてるし、本気の熱だったからな。すごいだろ?」

―――――雛。
お前ってやつは……頭はいいかもしれないが、日本一のバカだ!
たかが体育祭じゃないか、自分を苦しめてまで何故回避する必要がある!
時政も相良もそう思ったのだろう、恍惚の表情で熱を出した雛の可愛さを語り続ける皓を、明らかに引きつった顔で見つめていた。

「ひよりさんも、啓さんも、感心してたぞ」

感心するな!渡辺家!
俺は一体今日、どんな顔で雛に逢えばいいのだろう。
怒るべきか、心配するべきか、はたまたその根性をほめてやるべきなのか……おおいに悩むところである。

やはり―――――俺の彼女は侮れない。
そうして肩を落とす俺の背中を、時政がパフンと、慰めるように叩いた。
それでも好きなのは、むしろ末期だ。いや、俺の方がむしろ病気なのかもしれない。





渡辺家まで―――――残りわずか400メートル。
しかし今日の俺に、それはとても微妙な距離だった。