旅宿の花の行方「青葉の笛」

「青葉の笛」<旅宿の花>の行方(注釈)
                                       本文
(注1)朝臣(あそみ、あっそん)
 天武十三年(684年)に制定された、八色の姓(やくさのかばね)の一つで地位八階級を表わしていた。一番が真人(まひと)で、二番目が朝臣(あそみ)である。真人姓は主として皇族に与えられたがあまり実態は無かったので、臣下としては朝臣が最高の地位を表わす姓だった。源朝臣、平朝臣、藤原朝臣、橘朝臣が四大朝臣と呼ばれる。織田信長は平朝臣信長、徳川家康は源朝臣家康と名乗った。平忠度は平忠盛の末子、平清盛の末弟で、従四位上(正四位下との話も)朝臣に止まった。

(注2)箙(えびら)
 
武者絵などを見ると鎧の肩越しに矢羽が立っているのが見える。この矢を抜き取り易いように束ねているのが箙(えびら)である。この矢負いの道具は、箙以外にも時代によって様々な種類があって、靭(うつぼ、ゆぎ)、胡祿(やなぐい)、空穂(うつぼ)、尻籠(しりこ)などと呼ばれる。源平の時代は弓矢全盛の時代(八幡太郎源義家、那須与一)から刀剣が台頭してきた頃で、箙は矢立だけではなく文書類なども入るようになっていたので、岡部忠澄が身元確認のため箙を検めたのは当然のことだった。

(注3)「旅宿の花」の通釈
 行き暮れて 木の下蔭を宿とせば 花や今宵の 主ならまし
 
(もしもこの旅の途中で日が暮れてしまって、桜の木の下で野宿をするようになるとすれば、桜花こそ今夜の宿主ということになるのだろうな)と言うような意味であろう。<〜〜せば・・・・・まし>という反実仮想形式の中で、<今宵>という限定的な言葉があるので、歌の背景としては、忠度朝臣が夕刻満開の桜の木の下を通った時、<もし自分に今夜泊まる宿が無く、この満開の桜花の下で雨露を凌ぐとすると、さしずめ桜花が宿の亭主ということだろう。風流なことだな>と思いつつこの歌を詠んだ、という情景を彷彿とさせる。同じ様な歌形式で、<世の中に絶えて桜のなかりせば如何でこの世は長閑けからまし 古今集・春歌上・五十三 在原業平歌>がある。

(注4)千載集と詠み人知らずの歌
 正式には<千載和歌集>。古今和歌集から新古今和歌集までの勅撰和歌集八代集のうち詞花和歌集の次の七番目に当たる。寿永二年(1183年)後白河院より藤原俊成に撰歌の院宣が下り、文治四年(1188年)に完成、奏覧。古今の和歌1288首、詠み人知らず22首、源平合戦に無関係な平氏姓の歌4名4首が奏覧となった。この中に平忠度の<さざ波や志賀の都・・・>の歌が詠み人知らずとして入撰した。

(注5)
忠度が俊成に語った事の葉
 平忠度が平氏都落ちの際、踵を返し京の藤原俊成屋敷の門を叩いたとき、家人たちは「すわ、落ち武者ぞ」と恐れ戦いて案内に応じなかったが、忠度が名を名乗ると、俊成は「忠度殿なら会おう」と密かに屋敷内に招き入れた。忠度は俊成と縷々天下のことを論じ、最後に自詠百余首の巻物を渡して、「例え一首なりとも勅撰和歌集に載せて頂きたい。それが適えば身は行く先どうなろうと本望」と。感動した俊成は門脇に立って忠度を見送ったという。Wikipediaによれば、忠度の言葉として「(源平)争乱のため院宣が沙汰やみとなった事は残念です。争乱が収まれば改めて『勅撰和歌集を作るように』との院宣が出るでしょう。もし、この巻物の中に相応しい歌があるならば勅撰和歌集に私の歌を一首でも入れて下さるとあの世においても嬉しいと思えば、遠いあの世からお守りする者になりましょう」と言い残し、後、詠み人知らずながら、俊成が千載集に一首収載したことにより、既に七十歳を超えていた俊成の命が二十年ほど延びた、という挿話が記されている。

(注6)
藤原俊成(ふじわらのとしなり、又は、しゅんぜい)
 権中納言藤原俊忠の子で、八代集藤原定家の父親である。官位は正三位・皇太后宮大夫で『千載和歌集』の撰者・編者として高名。二十歳の頃和歌に目覚め、崇徳天皇や九条兼実の後見を得て、歌壇の重鎮となった。しかし、佐藤義清(西行)の出家に憧れて、終生自分も出家しようと思っていたが、六十三歳のとき重病を機に出家して釈阿と号し、その6年後、後白河院より勅撰和歌集(千載集)編集の院宣を賜り、四年後に奏覧となった。

(注7)「故郷の花」の通釈
 さざ波や志賀の都はあれにしを 昔ながらの山さくらかな
 (漣寄せる志賀の古都は荒れ果てているが、長等山の桜は昔の儘だなあ)
<さざ波や>は<志賀>の枕詞であるが、この場合は大津京の岸辺に寄せる波、という掛詞ともなっている。また、<昔ながらの山桜>の<ながら>は<昔のままの>と<長等(ながら)の山>の掛詞となっている。志賀の都の背後に長等山があった。現在でも三井寺の正式名称は<長等山園城寺>という。志賀の都:667年大和の飛鳥から現滋賀県大津市に天智天皇が遷都し、壬申の乱で都は焼け落ちた。大津京(おおつのみやこ)とも呼ばれる。唐の詩人杜甫の『春望』国破在山河 城春深草木・・・を思わせる優歌となっている。

     
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