「浜昼顔」の<瀬戸の赤とんぼ>論

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JASRAC: Code No.067−8370−8

「浜昼顔」

作詞:寺山修司  作曲:古賀政男  歌唱:五木ひろし  MIDI制作:滝野細道

(一)                     (二)                (三)
家のない子の する恋は        たった一度の 恋なのと     ひとり旅立つ 思い出に
たとえば背戸(せと)の 赤とんぼ 泣いてた君は 人の妻      旅行鞄(かばん)に つめてきた
ねぐらさがせば 陽が沈む       ぼくは空行く ちぎれ雲      浜昼顔よ いつまでも
泣きたくないか 日ぐれ径(みち)    ここはさい涯(は)て 北の町   枯れるなぼくの 愛の花
日ぐれ径                  北の町                愛の花


 この「浜昼顔」を聞いたのは30年以上も前だったが、♪たとえばせとのあかとんぼ♪のところは当然のことながら、上記の<たとえば背戸(せと)の赤とんぼ>ではなく<例えば瀬戸の赤蜻蛉>と思っていた。浜昼顔の<浜>から<海=瀬戸の海>と連想したのかもしれない。ただ理由は分からないが♪ここはさいはてきたのまち♪のところは多少違和感を覚えた。瀬戸、北の町?何の関係があるのだろう。
 MIDI楽曲を制作するようになって、野口雨情の童謡「信田の藪」のときに、♪お背戸のお背戸の赤とんぼ♪とルビが振ってない楽譜を見て、突然「浜昼顔」の<瀬戸の赤とんぼ>を思い出し、もしかしてこちらも♪おせとのあかとんぼ♪とも読むのではないかと、ネット検索や辞書を見てみた。結果は、「信田の藪」にはルビが振ってあるのがあって、当たり前ながらすべてが<せど>であった。また「里の秋」の♪お背戸に木の実の落ちる夜は♪にも<せど>とルビが振ってあった。「広辞苑」には<せど>のみだったが、「大辞泉」には<せと>とも言う、とあった。辞書では<背戸の赤とんぼ>というのは成句のようなものであることも判明。「浜昼顔」の方も検索してみたが、五木ひろし歌う You Tube の画像にある歌詞はすべて<瀬戸の赤とんぼ>であったし、楽譜専門ネットもすべて<瀬戸の〜〜>と書かれていた。
 いよいよ歌謡曲「浜昼顔」を制作する段になって、全音の楽譜を取り寄せて、歌詞を書き込もうとして手が止まった。以前の検証では当然<瀬戸の赤とんぼ>であるべきところが、<背戸の赤とんぼ>となっていて、おまけに<せど>と読むべきところに<背戸(せと)>とルビまで振ってあるではないか!どうしたことか!まえに調べたときはこんなの全然無かったし。
 しかし、よく考えて見ると、@<せと>というルビがあるけれども<背戸(せど)の赤とんぼ>は成句に近いものである、A<背戸>をわざわざ特殊読みの<せと>とルビを振ったのには、天井桟敷の寺山修司特有の意図が感じられる、B<瀬戸>を潮流のぶつかる所(潮目)とすると、光景が小さな赤とんぼにそぐわない。また<瀬戸>を愛知県の地名や瀬戸内海地域のこととすると、何故具体的な地名が出てくるのか、という必然性が希薄である。C楽譜専門の全音が、一字のミスならいざ知らず<瀬戸>を<背戸>と間違えおまけにルビまで振るだろうか?以上のような理由で、MIDI楽曲としては、冒頭のものにすることとしたのである。

 その後も四面楚歌の中で本当に<背戸(せと)の赤とんぼ>でいいのだろうか、という思いは残っていた。ある日この歌の作曲者である「古賀政男全集10【悲しい酒】」のなかに美空ひばりの浜昼顔が収載してあるのを発見。美空ひばりが明らかに<たとえばせどのあかとんぼ>と、敢えて<せど>と歌っているのを聞いて、<背戸(せと)>の継続の意を強くしたものだった。
 そう思ってみると、二番にもう一つルビの振ってある<ここはさい涯(は)て>というのも普通ではない。普通にPC変換すれば<ここは最果て>としかならないし、辞書にも<涯>を<はて>と読むのは通常読みにはない。しかし<涯>には<遠い果て>という意味もあるので、ここにも<希望→のぞみ><運命→さだめ>などのように漢字を別の同義語読みをさせようとする、寺山修司の意図が感じられるのである。
 作詞者の強い意志を感じさせるものに、漢字の使用の仕方がある。@歌詞は作詞者にとって一遍の『詩』であるから、一〜三番の歌詞中の漢字と平仮名等のバランスは大切である。同じ文言でも、歌詞中の場所により漢字を使ったり平仮名を使ったりすることがある。A前後の平仮名との関係で漢字にしておかないと意味不明となる場合に敢えて漢字とする。例えば<すうきなえにしにほだされて>などは<数寄(すうき)な縁(えにし)に絆(ほだ)されて>と表記しないと意味が取れない。Bメロデイー上、<ふるさと>を【くに】と歌わせたい場合に<故郷(くに)>、<田舎(くに)>、<郷里(くに)>、<故里(くに)>、<古里(くに)>などと敢えて表記し、<国、邦>との誤解を避ける、など作詞者がこうしたい、と強い意志が感じられるところは、MIDI制作者も気を使うところだ。この「浜昼顔」で作者の意志が感じられる表記は<背戸(せと)>、<日ぐれ径(みち)>、<さい涯(は)て>の三か所だ。
 最近出版社間の楽譜でも、振るべきルビがなかったり、振ってあっても原作と読み方が違ったりするものが結構あるが、<せと→背戸、瀬戸>というのは珍しい。また、ご丁寧にも<瀬戸(せど)の赤とんぼ>とルビまで振っているサイトもあって、色々あるもんだなあ、と。尤も、筆者も三番の<浜昼顔よいつまでも 枯れるなぼくの愛の花>というのを、<浜昼顔よいつまでも 可憐なぼくの愛の花>と歌っていたので、あまり他人(ひと)のことはいえないが・・・・・
 それにしても、五木ひろしさんはどう思って歌っておられるのだろう?

                          2011/MAY/17記

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浜昼顔(音声注意)