大正9年(1920年) | JASRAC No.067-8143-8 |
春寂寥 旧制松本高等学校(現信州大学)寮歌 | |
作詞:吉田 実 作曲:浜 徳太郎 |
MIDI制作:滝野細道 |
(一) 春 |
Photo taken by Hosomichi 逝く春を 惜しむか鷺の たたずまい 白鷺や 落(ち)る花びらに 春寂寥 |
(二) 岸辺の緑夏木立 夕暮れさそう 命の流れ影あせて あはれ淋し水の |
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(三) 秋 さめては |
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(四) 嵐は山に落ち果てぬ 静けき 冬を あかぬまどひのもの * |
*2012/FEB/16 (注1)の部分は「語っても語っても語り 尽せない談話」という意味に解しました ので漢字としましたが、文獻を見たわけ ではありません。 |
この「春寂寥」は、JASRACには「春寂寥の洛陽に」という曲名で登録されています。この歌は、大正9年に松本高等学校 の<思誠寮>という学生寮の寮歌として作詞作曲されました。松本高等学校は1919年(大正8年)4月に開校しましたの でこの曲はその翌年に作られたことになります。旧制高等学校は第1〜第8までありました。長野県も、1899年ごろから 高等学校の設立争いをしていましたが、第7高校は鹿児島県、第8高校は愛知県に敗れました。その後も第9高等学校設 立に向けて争われましたが、政府もナンバー高校を止め地名高等学校とすることになり、松本高等学校は9番目の高等学 校となりました。この歌は高校設置運動の盛り上がりの中で、<思誠寮>設置に向けて制作されたものと思われます。松 本高校は最初長野県立松本中学校(現在長野県立松本深志高等学校)に間借りするような慌ただしい設立でしたが、現在 <県(あがた)の森公園>となった県ヶ丘に新設されました。1950年(昭和25年)新制大学制施行に伴い新制国立信州大 学の文理学部に改組されました。信州大学は、本部、文理学部、経済学部(新設)、医学部(旧松本医専)、教育学部松本分 校(旧松本女子師範)が松本市に、工学部(旧長野工専)、教育学部(旧長野師範)が長野市、繊維学部(旧上田蚕糸専) が上田市、農学部(旧県立農林専)が上伊那郡箕輪町と分かれており、タコ足大学などと呼ばれていました。しかし、旧松本 高校の伝統を踏まえ、大学1,2年生の間は、医学生でも農学生でも、大学基礎教育は文理学部で修めることになっていま したので、他学部生でも<思誠寮>出身者が多かったのです。<思誠寮>は旧松本高校設立時から信州大学文理学部 の間ずっと構内の北東隅にあり、北に県立松本県ケ丘高等学校、南に私立松商学園高等学校に挟まれた地域で、両校と もスポーツ交流はありましたが、松商学園は勿論県ケ丘高校にも野球、サッカーなど全く相手にされませんでした。「練習 にもならんせえ」。その後文理学部が請け負っていた大学基礎教育と専門教育を学部間で多面的に受けられるよう、文理 学部を人文学部と理学部に分離し、文理学部構内にあった経済学部とともに、本部・医学部・教育学部付属小中校のある 旭地区に移転統合することになり、旧松本高校の跡地は<県の森公園>として残ることになりました。この「春寂寥」は旧 制松本高等学校、信州大学文理学部の学生寮<思誠寮>の寮歌でありながら、信大文理学部の経緯から他学部の出身 者も多く、信州大学出身者同窓会などでは、必ずと言って良いほどこの歌が歌われます。 この元歌は 4/4 拍子で作曲されていて勇壮感もありますが、当倶楽部では歌詞の寂寥感あるスローなリズムに乗りやす いように、 6/8 拍子イ短調のワルツとしています。四番最後の ♪冬を昨日の春の色 あはれ床し友どちが あかぬまどいの もの語り♪ のところは「春も近い一日、まことに懐かしい友人たちが集い、あれこれ飽きもせず取り留めのない話をがやが やとしている」と解釈され、まさに同窓会などで歌うものにふさわしいものと言えましょう。 元歌「春寂寥」はこちら |